第1節 言いかけた言葉

 朝の会は相変わらず淡々と進んでいき、すぐに終わった。最後に矢野先生が日直の名前を読み上げたところで締め括られ、同時にチャイムが鳴る。


 軽く一礼した矢野先生が教室を出て行く間はほんの一瞬だけ静寂があり、それを破るのは大抵クラスで1番のお調子者──鈴木拓也すずきたくや。今日は課題を忘れたらしく、大袈裟に嘆いて教室中を笑わせていた。


 僕は、ノートを写させてくれと泣きついて回っている鈴木を横目に、数学の準備をして先生を待つ事にした。今日のお昼ご飯はどのメニューを選ぼうとか、図書室に新しく本が入荷したとか、夏休みは家に帰って何をしようとか。色々な話が教室を飛び交っていて、聞いているだけで飽きない。


 僕自身も次の1週間はどう過ごそうかと思案していれば、程なくして教室の扉が開く。賑やかだった教室は一斉に静まり返り、数学の教師が教卓へ移動する間にそれぞれ自分の席に戻っていく。学級委員の凛とした号令が響き、こうしていつも通りに授業が始まった。


「今日は前回の二次方程式の続きからです」


 数学の石田先生の授業はいつも淡々としていて強弱が少ない。教科書やノートを開けという指示もなく黒板に書かれていく式。


【 x²+5x+6=0 】


「まずは因数分解で解けるものから。分かる人は手を挙げてください」


 ちらほらと挙がっていく手を眺めつつ、僕は静かにノートを開いた。


「では井上さん」

「はい。『 (x+2)(x+3)=0 』です」


 石田先生は薄く笑って軽く頷き、次の問題へチョークを走らせていく。


 僕はノートに式とその因数分解の過程を書き写していきながら、ふと視線を左側の高橋に向ける。普段の彼なら真っ先に手を挙げるタイプだし、何よりこういう基礎的な問題でつまずくような事はないはず。なのに高橋のペンを持つ手は止まっていて、窓の方へ視線を向けたまま動いていなかった。


(あれ……?)


「次はこの問題です。『 x²−4x+3=0 』これも簡単ですね」


 石田先生の声が続いても、高橋はピクリとも動かない。まるで、そこだけ時間が止まってしまったみたいに。


(先週もこんなふうに、窓の外を見ていたような気がする…)


 記憶違いかもしれない。でもふとした瞬間に、こうして彼の姿を目で追っていた気がするのだ。その時もやっぱり高橋はノートを開いたままで、何も書かずにじっと窓の外を眺めていて───。


 ……いや、僕は先週本当にそんな様子を見ていたのだろうか。朝に話せなかった事が気がかりでそう思い込んでいるだけのような気もするし、先週じゃなくもっと前の出来事だったかもしれない。そもそも授業中とはいえ、誰だってぼーっとする事くらいあるだろう。現に今、鈴木だって船を漕いでいる。授業前は泣きついてノートを写していたくせに、本当に呆れたやつだ。


 高橋から鈴木に向けていた視線を戻すと、窓を向いていたはずの高橋はノートにペンを走らせていた。黒板の式とほぼ同じスピードで、ペンに迷いは無い。最初から集中していたように書いている様子に、やはり気の所為かと視線を黒板へと戻す。


 少し目を離していただけなのに、いつの間にか数問遅れていたらしい。僕は、教科書を読み淡々と解説する石田先生の声を聞きつつ、ノートにペンを素早く走らせた。


 居眠りをした鈴木が、苦言を呈されながら石田先生に起こされる以外は特に何の波乱もなく時間が過ぎた。授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、学級委員が号令をして1時限目の授業が終了。石田先生が、黒板に「次回、小テスト」ととだけ書き残して教室を出ていけば、教室にざわめきが戻って来る。


 僕は一息つき、朝の話の続きをしようと席を立った。けれど、そのタイミングで背後から声がかかった。


「ねぇ、悠太くん」


 振り向けば、そこには井上菫いのうえすみれが立っていた。今日彼女は日直ではないので、提出物を回収しに来たというわけでもないのだろう。わざわざ僕の席に来るなんて珍しい。


「今日も朝ご飯食べてなかったでしょ」

「え?……見てたの?」

「うん。いつも食堂の前、通り過ぎてくの見えるから」


 井上は怒るわけでも笑うわけでもなく、ただ静かにそう言った。


「ほら、倒れたりしたら困るじゃん。夏、暑いし」


 彼女なりの気遣いなのだろう。けれど僕は本当にお腹が空いていないし、美味しそうな匂いは感じるけれど食べたいとは思えない。


「夏バテかな、全然食欲無くって…」

「でもちゃんと食べないと、悠太くんが倒れちゃうよ?」

「うーん…そうなんだけど…」


 僕が言い淀んでいると、井上は小さく首を傾げた。僕の言葉を待っていたのか黙ってじっとこちらを見てくる井上。しかし僕が何も言わないものだから、どうやら彼女は呆れたらしい。小さく溜め息を吐き出し、肩をすくめている。


「じゃあ、せめてお昼は一緒に食べようよ。少しでも食べられそうなもの選んでさ」


 まるで当たり前のように言うその声音に、僕は断る理由もなく頷いてしまった。


「う、ん。…分かった。ありがとう」

「あはは、なんでお礼?」


 彼女は僕の返事に満足したのか、嬉しそうに微笑んで「じゃあ、また後でね」なんて言って自分の席の方へ戻ってしまった。


 残された僕は1番後ろ、窓側の席を見やる。高橋は他のクラスメイトと楽しそうに笑っていて、話の続きは聞けそうになかった。

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存在しなかった君へ。 東本 @Suiminbusoku_

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