存在しなかった君へ。

東本

プロローグ

 遠くで聞こえる蝉の声に瞼を持ち上げた。身体を伸ばしながらベッドから降り、身支度を済ませて昨日の晩に用意していた鞄を持って部屋を出る。


 廊下に出ると既に幾つかの足音が聞こえてきた。来週の夏休みが楽しみだね、なんて会話を聞きながら食堂の前を通り過ぎて行く。焼き立てのパンの香りが鼻腔をくすぐったが、それだけでは立ち止まる理由にはならなくてそのまま渡り廊下を歩いて校舎へと向かう。


 朝は食欲が無い。毎朝のことだし、朝食を食べない生徒は他にも居るから誰も不思議には思わない。


 この学校では誰もが同じ建物で眠り、起き、食事をし、教室へ向かう。それが普通の日常。

 

 教室のドアを開けると、窓側の一番後ろ――学生にとって“特等席”とも言えるその席に、高橋 春樹が座っていた。


 早いな…なんて僕は思った。


 いや、そういえば。


 昨日も、同じことを考えた気がする。


「…なぁ、悠太。ちょっと聞きたいんだけど…」


 そんな事を考えつつ自分の席に向かっていれば急に声を掛けてきた高橋に、思わず僕は顔を上げた。


「おはよう、高橋くん。今日は早いね」

「あぁ…今日はなんか食欲無くて」

「そっか、僕も。…で、聞きたい事って?」


 高橋は迷うように視線を彷徨わせた後、意を決した様に真っ直ぐこちらを見つめキツく結んだ唇を僅かに開いたと同時。勢い良く開いた扉からゾロゾロと朝食を終えた生徒達が教室へ入ってきた。


「おはよー。高橋今日早くね?」

「あ、春樹くんと悠太くんおはよー」


 僕は高橋から視線を扉の方に向け、各々席へ座りながら挨拶してくるクラスメイト達におはよう、なんて挨拶をした。


 高橋も僕と同じ様に挨拶を返していた。が、他愛ない冗談を交えて返すその調子の良さにああ、やっぱり“モテる”理由が理解出来る気がする、なんて思う。


 僕はそのまま彼の様子を目で追っていた。どうやら話しかけようとしていた言葉は、もうどこかへ消えてしまったみたいだった。それでも会話を終えた高橋がこちらへ視線を戻した時、その顔に一瞬だけ浮かんだ“ごめん”の色に、僕は思わず笑ってしまう。


 しかし、丁度鳴ってしまった朝の会が始まる合図のチャイム。互いに顔を見合わせ、苦笑。


「またあとで」

「ありがとう」


 高橋の席から自分の席に移動し着席。他のクラスメイトも席に座り待っていれば、少し駆け足で教室へ入ってきた担任の矢野先生。


 こうして今日もいつも通りの1日が始まった。

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