第5話「聖地」

■2023年7月22日 19:00 西新宿/ライブハウス ユルノアナ


 かつてアイドルの聖地として知られた秋葉原のライブハウスが飽和状態に陥った2010年代後半、西新宿・歌舞伎町・大久保エリアに新たなアイドル系ライブハウスが相次いでオープンした。そして、それらのライブハウスを活動拠点とするアイドルグループたちは、いつの頃からか「西新宿系」と呼ばれるようになった。

 ブレインランド・プロモーションが4年前にデビューさせた西新宿ゆるふわ組も、その名の通り西新宿系の一派として活動を始めたアイドルグループだった。2005年に設立されたブレインランドは新興の芸能事務所だったが、先代の大泉京太郎社長はメディアや広告代理店に対して大きな影響力を持っていた。また、京太郎社長の死後に会社を引き継いだ二代目の大泉京子社長も、先代の影響力を活かしたビジネスを展開していた。

 ブレインランドは、西新宿ゆるふわ組を最初からメジャー路線で売り出すこともできた。しかし、近年では、下積み時代を経験することで地道にファンを増やしてきたライブハウス出身のアイドルグループが人気を博す潮流があった。そのためブレインランドは、西新宿ゆるふわ組の活動を敢えて小さなライブハウスからスタートさせた。そうすることで彼女たちのキャリアに「西新宿系のムーブメントから出てきたアイドル」という付加価値やストーリー性を持たせようと試み、実際に狙い通りの成功を収めた。このような西新宿ゆるふわ組のデビューに関する様々な逸話・裏話は、ファンの間で語り草となる程度には知られていた。


「西新宿IDOL FESTIVAL(通称NIF)」は、新宿周辺に立地する複数のアイドル系ライブハウスを使ったサーキット形式のアイドルイベントだった。イベントとしての歴史は浅いものの、ここ数年は開催3日間で数万人を集客するイベントへと成長していた。

 西新宿ゆるふわ組のブレイクにはそれなりの時間が掛かったものの、新メンバー宝田舞の加入や、その後の楽曲の連続ヒットもあり、昨年のNIF出演時には全国レベルの人気アイドルグループへと成長していた。実際に昨年のNIF開催期間中の新宿は全国から集まったニシユルファンで溢れかえり、ライブ会場に入ることができなかった数百人のファンが暴動紛いの騒ぎを起こす事件も発生した。

 ブレインランドとNIF運営サイドは昨年の反省を受け、今年度はイベントの半年前から「西新宿ゆるふわ組は2023年のNIFに出演しない」と広報していた。そもそもNIFは、デビュー間もない知名度の低いアイドルたちの見本市として始まったイベントであったため、ライブハウス時代から彼女たちを推してきた多くの古参ファンも、「五大ドームツアーを組める今のニシユルは、もはやNIFに出るレベルのアイドルではない」と考えており、NIF不参加という事務所の意思決定に対しても、概ね納得していた。

 西新宿ゆるふわ組の不参加が決定していた今年のNIFは、誰もが「昨年度に比べて落ち着いたものになる」と考えていた。しかし、1カ月半前に起こった彼女たちの集団自殺事件がイベントの空気を変えてしまった。コアなニシユルファン数名が、イベントの数日前から「西新宿系アイドルの象徴だったニシユルメンバーをNIFで追悼しよう」とSNSで呼びかけたこともあり、新宿の街はイベント初日からニシユルのグッズを身に付けたファンたちで溢れかえっていた。

 会場となった各ライブハウスでは、出演アイドルたちのパフォーマンスがプログラム通りに進められていた。しかし、街に集まったニシユルファンは、出演アイドルたちのライブを見ることもなく、ライブハウスの周辺や近隣の飲食店、新宿中央公園などに集まり、ニシユルのヒット曲に合わせてサイリウムを振り回し、オタ芸を踊ったり、コールやMIXを叫んだりしていた。路地裏や公園内では、警察や運営の目を盗んで非公式の追悼グッズやメンバーの生写真を販売する業者の姿も見られた。


 新宿中央公園の西側、十二社通り沿いの地下には、結成当時のニシユルが拠点としていたライブハウス「ユルノアナ」があった。ユルノアナは今年のNIFでもライブ会場のひとつに選ばれていたが、新宿駅周辺や歌舞伎町、大久保のライブハウスと比べて不便な場所にあり、人気のあるグループの出演予定もなかった。そのためニシユルの聖地であるにも関わらず、その日のユルノアナのフロアは閑散としていた。


 南野陽康は、そんなユルノアナのフロアでアイドルたちのステージを眺めていた。後方見守り体制を取る陰気なファンのように、壁面に設置されたポールに腰を預けている。

 彼の右手首はギブスと包帯で固定されていた。白い包帯の上には青い石で装飾されたブレスレットが光っている。

 その日、陽康は午前中からここに陣取っていた。19時までに10組以上のアイドルグループが登場したが、彼女たちのパフォーマンスを真剣に観る気力もなく、ただただぼんやりと眺めていた。すぐ側の新宿中央公園にニシユルファンが集まっていることも知っていたが、追悼と称してギャーギャーと騒いでいる彼らと交わる気持ちにはなれなかった。

 ライブのMCでニシユルの事件に触れるグループも少なくなかった。彼女たちは「とても悲しい」「まだ信じられない」「ニシユルさんは私たちの目標でした」「ニシユルさんの分まで頑張りたい」など、急に逝ってしまった先輩への思いを、言葉を選びながら語っていた。また、ニシユルの中で一人生き残った宝田舞を心配し、「早く元気になってほしい」と涙ながらに訴える出演者もいた。


 名前も知らない七人組アイドルグループのパフォーマンスが終わると、本日のプログラムの終了と物販に関するアナウンスが流れた。グッズを買えばお目当てのアイドルと一緒に写真を撮ることができ、握手をしたり軽い会話を楽しんだりもできる。アイドルファンにとっての物販はステージ同様に力の入る時間だったが、今日の陽康には無意味なものだった。

 陽康がポールから腰を上げ、物販の列を作っているファンを掻き分けながら外に出ようとしたとき、ふとエントランス付近で佇む白いワンピースを着た少女の視線に気づいた。

 彼女は陽康に向かってぎこちない会釈をした。白いワンピースの少女は、アイドル研究部の後輩、安倍冬美だった。制服姿ではない私服の冬美を見たのは、その日が初めてだった。

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