第十二話 怪物達
「アークって確かオルト国の皇帝なんですよね?具体的にはどういう人なんですか?」
「うーん……」グレアは上空へ首を曲げると、「アークはオルト国の皇帝でありながらオルト軍の元帥って言う事は知ってるよね」
エスが見つめる景色の先では木々は呼吸をするかの様にゆっくりと上下に揺れ、緑の下では蟻や芋虫が今日も自らの命を静かに燃やしている。
時は遡り要塞攻略後。
エスとグレアはアーネールを廃村に運ぶ為ネストを横断中、エスはそんな質問をしていた。
「はっきり言って、マーナの民が圧され始めたのは半分以上が彼のせいなんだよね。何が一番嫌って、彼は必ず戦場にやって来るんだ。そこで全体の流れを読み、士気を上げ、必要とあれば自ら囮にもなる。彼のそんな姿勢だけでも嫌なのに、彼自身も凄く強いんだよね」
エスはアーネールを背負い直すと、
「強い……それなら、レイさんと比べてどっちが強いと思いますか?レイさんは一人でイフリートを圧倒したんですよね」
「昔、実際にレイとアークが戦った事があるんだけどね……私の目には互角に見えたよ。まあもっとも、私には何が起こっているのかすら理解出来やしなかったけど」
「何が起こってるのかすら理解出来ない……?どういう言事ですか?」
グレアは苦い笑みを浮かべると、
「まあ……君もどういう意味か分かる日が来るよ」
地面を蹴り飛ばしアークの背後に回ったレイ。そのまま氷棒で突き刺さんとする彼に向かって待っていた、と言わんばかりに大剣を振りかざすアーク。二つの矢刃が重なったその瞬間、流星が咆哮を上げるかの様にして発生したのは紅蓮の火花。それはまるで新たな星座を描かんと躍起になる幼い恒星の様でもあり、神々が碧天に散らす祝福の金粉の様でもあった。そしてそんな火花は変異体の氷棒と不老不死の大剣が衝突する度に産声を上げ、周囲の空間を腐ったパプリカの如く歪ませていく。その度に魔女狩りで処刑された金髪の魔物に男は怒号を叫び、タンジェルの本城にて勇者を装った村人Aは内応に足を掬われた時間軸もあったのだろう。だが花を愛で輪廻を嫌う幽霊が往生のメソッドを口にしたからと言ってそれは彼の愛人の絶息を意味しなかった様に、ドーナツの穴の淵での主人公との出会いは世界からの脱し方を論じていた訳では無かった様子だ。尋常を求める自殺の心と別条を願う宗教の念。そんな二人が重なった瞬間にノンレム睡眠はレム睡眠へと変貌を遂げ、その顔に笑みを浮かべたのはアークだった。
「安心したよレイ!その腕は鈍っていないようだな!しかし……」
レイは幾度とない連戦により疲弊していた。目の霞み、機敏性の低下、判断力の鈍化――そうして出来たほんの一瞬の間隙を見過ごす程、アークの眼は衰えていなかった。
息絶えた少年に施された死体防腐の接吻よりも一寸の狂いも無くアークは脇差を天へ掲げると、それをレイの肩先へ振りかぶった。だが百八の煩悩に侵された母親が娘に対し自決の判断を鈍らせた様に、マルチエンディングであったはずの物語においてその終わり方が真実を鼻高々に語っていた様に、アーキタイプの大剣で砕け散ったのは――ただの氷であった。彼が今まで内なる赫目の少女と剣を交えていたのは、無頼の有機物だったと言う事だ。
「何……?」
蒙昧な泡立ちと共に石膏となった氷像。困惑するアークを待つ事無く、その氷の影を喰らい姿を現したのはレイ。改革派の味蕾が漁師と共に化膿の観念へ旅立つよりも早く、裏切り者のスポンジが内通者の成れ果てに下した手刀よりも正確に氷棒は細胞組織の放浪者の胸へ伸びていき――。
ゲコリ。
地獄の蛙が鳴き声を挙げた時、既に決着は着いていた。
アークが身に纏っていた漆黒の甲冑。それを貫くは、獣の爪牙よりも鋭利で表面に乱雑な凹凸が彫られた棒状の氷。彼の左横腹から侵入し、肉を切り裂き右肩へ。氷を伝い、レイの両手を鮮やかに染め上げているのは深紅の液体。張り詰めた空気の中、氷棒が突き刺さったアークは彫刻の如くピクリとすら動かず、既に絶命しているとその場の皆が思った。
しかし。
アークはすっかり緩み切った手の平で再び大剣の柄を握ると、その口の両端を釣り上げた。そしてそれをレイ目掛けて一振りしたが、その寸前の所でレイはその気を察知して後方へと地面を蹴っていた。
まさかまだアークが生きていたとは。確かに体を貫いたはずだが急所を外していたのかもしれない。だがもう終わりだろう。
レイはそう思考しながら態勢を立て直し、アークを視界に入れた。しかし、その時見た彼は理解の範疇を優に超えた行動をしていた。
アークは何もせず、ただ地蔵の様な微笑みと共に佇んでいたのだ。赤く染まった両の手を水を掬う様な形にして眺め、聖母の笑みをその口に。『穏やか』と言う言葉では形容できないその様子は、とても今際の際の人間が見せるそれではない。後方から赫の夕日が重なった彼の姿は、一種の神聖さすら感じる程で――。
「見ているかい?フーリエ、私はこんなにも強くなったよ」
アークは手の平を通して過去を眺め、それを慈しむ口調でそう言った。恍惚とした表情を崩す事無くレイに目を移すと、
「さて、続きをしようか」
場面は変わりネストの奥底。森の浅瀬とは全く異なり、そこでは珊瑚の様に歪な成長を遂げた木々が跋扈している。彼らは枝葉を一本として生やしていないにも関わらず、何故か天界からの光を一切として通していない。その為そこはまるで海溝の奥深くの様に真っ暗で、更には足元では不気味な木々の太い根が蛸の触手の様にして地表を張っており、足を付ける地面を探すので手一杯だ。
そんな深海を走り駆けるはメシア。打ち上げられた魚の様に跳ね回る心臓を胸に抑え込み、課せられた目的を達成しようする。
彼女はまたもう一匹、標的を見つけたようだ。
「いや、その必要は無い」
レイがそう言ったのは、彼がすぐ近くの木に手を伸ばした後だった。
遂に自らの負けを認めたのだろうか?いや、彼の目に宿る光は未だ衰えない彼の闘志を示している――何か策がある。そう受け取るのが最適だろう。
そう思考するアークの足元、そこで感じ取った物は僅かな振動だった。最初は単に、まるでどこか深い土の中で何かが目覚めたかの様な微かな――それが大地の悲鳴、木々の軋み、空気のうねりに変化するのに十秒も要しなかっただろう。
今やその森を支配しているのは巨大な地鳴り。怒り狂う巨人の足音の様な轟音に、足元で絶え間なく爆発する土壌。全ての安寧が消え去ったその場で枝葉は悲鳴を上げながら必死に幹にしがみ付き、森の鳥は空へ乱れ羽ばたく。壁の様にそびえ立っていた木々も突然の地震に慌てふためき、残像を残す程に視界は上下に揺れている。
「何だ……!?」
突然の地鳴りに困惑するアーク。
何故こんな時に地震が?まるで狙い澄ましたタイミングではないか。
その時、彼が聞いたのはとある『奇妙な音』だった。耳をつんざく地鳴りに混ざる、この星の寝息の様なより重鈍な声。それはまるで獣のうめき声の様でもあり――獣?いや、そんなはずがない。あり得ない。まさか――。
とある一つの仮説に辿り着いたアークは急いで彼の背後、慌てふためく木々が密集するネストの奥地へと振り返った。その瞬間彼が見た物は――。
互いにひしめき合いながら迫りくる、おびただしい数の魔獣達。
大樹を優に超える大きさの目玉を口から覗かせる黄銅色の空飛ぶドクロに、背中に三座の険しい山を載せた六本足の亀。その奥に控えているのは一つ目の巨人。筋骨隆々で、その頭部から生えた立派な二本の角は雲の高さを優に突き抜けている。
その様な魔獣達がざっと数えただけでも百体前後。皆が一寸の迷いも見せずにこちらへ直進してきている。どうやら、それが地鳴りの正体であったらしい。
「何……だと……」
アークが目の前の光景を呑み込めずに茫然としていると、オルト兵を襲い始めた魔獣達。
その光景は正に『蹂躙』と言う言葉がぴったりと当てはまる程に悲惨な物であった。ある者は魔獣達から逃げようと背を見せた瞬間その上半身が無くなり、またある者は勇敢にも魔獣に向かい銃を発したが、何の好転も無く踏みつぶされた。
圧殺、殴殺、毒殺。縊殺、絞殺、斬殺。
圧倒的邪悪に満ちた魔獣達の手により、多種多様な散り方をするオルト兵達。ありとあらゆる場所で血飛沫が花びらの様に舞い、その後そこに残されている物は惨めに散った菊と胚珠。まるで春一番の様に血肉が乱れ舞うその光景は、地獄と形容するのが最適であろう事は誰の目にも明らかであった。
魔獣が戦闘中に横槍に入る可能性は考慮していた。考慮はしていたが、何だこの数は。それに何故彼らは私の兵ばかりを狙っているのだ?何故マーナ兵を狙っていない?
そう思考しながら歯を食いしばり、周囲の地獄を見渡すアーク。その時、彼は気が付いた――魑魅魍魎の魔獣達の一体、その上に跨る赫色の目をした一人の少女に。
「彼女は……」
「ネストから魔獣を連れてくる?」
「はい、この数的不利を補うにはそれが最善の選択だと思います」
時は遡り、オルト兵が急襲してきた直後。
瓦礫の山の足元に隠れるマーナ兵。奇怪な森の影から彼らを取り囲むオルト兵。そんな状況でテレサからの提案を受け思考を働かせているのはマーナ兵の長・グレア。
私達が何とかして時間を稼ぎ、その間にメシアがネストから無数の魔獣を連れてくる。確かにこれなら、この絶望的な状況は地の底から天空へ真反対に引っ繰り返るに違いないだろう。
だが。
どうやってメシアをネストの中に連れて行かせる?どうやって時間を稼げばいい?どの程度時間を稼がなければならない?それにメシアが人知れず魔獣に殺されたりしたら?その場合私達は到着のしようのない『増援』を延々と期待する事になるだろう。
やはりこの作戦には欠点が多すぎる。いや、そもそもこれは作戦と呼べる程の物ですらない。ただの期待、言ってしまえば妄想だ。それでも――。
グレアはその口に笑みを浮かべると、
「良いね、乗った。その作戦で行こうか」
それでも、この妄想は命を預けるに値する。だから賭ける。私達皆の全てを。
その後、マーナ兵達は二手に分かれ、メシアをネストに紛れさせた後は時間稼ぎと言う本当の意図をオルト兵達に悟られる事無く戦闘を重ね、遂にメシアが『増援』を連れてきたのだ。
「彼女は……」
全身が毛流れの整った真っ白な体毛に覆われており、氷柱の様な鋭い目付きをした体長二十メートル程の超大型狼。その背中に跨るはメシア。彼女を瞳に入れた瞬間アークの脳内に溢れ出したのは、無限の悠久よりも遥か昔の、あの頃の記憶。
淀んだ雲。肌にへばり付く風。そんな憂鬱を屈託の無い笑顔と共に吹き飛ばしてくれたあの女性。赫色の目をしたあの女性。そう、正に今、目の前にいる彼女の様に――。
永遠よりも長い緩やかな一瞬に囚われているアークに目を付けたのは鰐型の魔獣。ゴツゴツとした荒っぽい深緑色の肌のその魔獣は、百を優に超えるであろう鋭利な牙を自慢げに見せつけながらアークに突進していく。そしてその口を開き彼を呑み込まんとしたその次の瞬間――その魔獣は頭部から噴水の様に血を吹き出しながら、アークの僅か目の前で息絶えた。
「アーク元帥!」
そしてその真っ赤な噴水の発生源から姿を現したのはアトリー。その表情は焦燥と困惑に満ちており、魔獣の頭部、噴水の中心には彼女が作ったであろう土製の鋭利な槍が。成程アトリーが助けてくれたのだろうが、彼女は常にその腹部を真っ赤に染まった左手で抑えつけており見るからに十全ではない。
「アーク元帥……コレ、マズいんじゃないの……?」
アークの隣、弱々しい口調でそう言ったのはフブキ。彼も僅かに顔を青くし息を切らしている。苦しそうな表情と立ったままでもふら付くその足取りは、見るからに魔力切れの症状だ。
オーディンとバハムートの回収に失敗し、アトリーもフブキも戦える状態にない。廃村を取り囲んでいた兵軍も徐々に押し返されていた時に訪れた、最恐の魔獣達。
最早、ここまでなのだろう。
「……撤退だ」
奥歯を噛み締めながらそう言ったアークに、反対する者はその場にいなかった――たった一人を除いて。
「逃がすと思ってんのかァ!?」
両手に氷棒を携えそう叫んだのはレイ。地面を蹴り飛ばすと同時にアークの背後へ回り込み、そのまま彼の喉元に――。
「そう言うのは止めた方が良いぞ」アークはゆっくりと振り返ると、「君の妹さんが大切ならばな」
レイの氷棒とアークの喉元。その間にぬるりと割り込んできたのはスライムの様な粘液に富んだ水色の液体。まるで自らの意思を持っているかの様にして氷棒を包み込んでしまうと、その動きは完全に止まってしまった。氷棒を手放すと同時に後方へと下がったレイ。その瞬間彼が見た物は――。
「何だ……これは……?」
相も変わらず澄んだ海の色。液体の様でもありながら重力に逆らい丸みを帯びており、大きさは縦が二メートル程の物体。そして何よりレイを驚かせたのは――。
その中に囚われている、フユの姿。
彼女は意識が失っているのだろう、抵抗の様子を一つも見せておらず、目を閉じぐったりとしている。アークは彼女の首元に刃を突き立てると、
「これはフブキの氷鬼だ。出来ればこれ以上皆の血を流させたくないからな。何もしてくれるなよ」
レイはわざとその場の全員に聞こえるように舌を打ちをすると、目を瞑り考えに浸る。
どうするべきか。フユは完全に伸びきっており目を覚ましそうにない。自分がアークへ攻撃を加えるよりも早くアイツがフユを殺すのは容易いだろう。いや、フユも今この瞬間にも死ぬかもしれないと言う事を覚悟して戦場に立っていたはずだ。その結果命を落としたとしても、それは仕方のない事のはずだ。それならば俺の取るべき行動は――。
レイはゆっくりと目を開けると、アークの像をその目の中心に見据えたまま――両手の氷棒を手元から放した。そのまま地面に落ちた二つの氷の塊には、これ以上攻撃するつもりが無いと言う意思表示がなされている。
それを見て口の両端を釣り上げ嗤うアーク。彼がレイに背中を向け歩き始めた時には、既に飛行船は離陸の準備段階に入っていた。九つの飛行船を中心として吐き出される風圧はその場の全てを拒む様にして狂い吹き、例え近くの岩や木にしがみ付いたとしてもそれら諸共空へと放り出されてしまいそうだ。まるで巨大な台風が突然発生したかのかと勘違いしてしまう程に、目を開け呼吸をする事さえも不可能に近い。
「さらばだ、レイ。それとマーナ兵の諸君。また、会おうじゃないか」
遂に飛行船がその足を地面から放した。風の狂乱具合は留まる事を知らず、近くの木々が根っこごと風に乗せられ空へと。レイは僅かに目を開けると、その瞳にはアークが映った。だが一歩も前に踏み出す事が出来ず、気を抜くと彼も空中の放浪者になりかねない。
それからどの程度の時間が経ったのだろうか。飛行船が遠い空の向こうへと消えるとようやく風も収まり始め、その場には突然の静寂が満ちる事になった。
もはや、その場にいた誰もが何かを喋れる気力すら残されていなかった。
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