第十一話 繋がり

 深い暗闇と朦朧とする意識。その隙間から入ってきたのは、前方から無作法な程に打ち付けてくる風と空を切る音。

 ガンガンと頭を打ち付けてくる様な頭痛に叩き起こされたアーネールが目を開くと、やっと気が付いた――自分はネストの上空を飛んでいる事に。勿論自らの力で飛行している訳では無い。何か、氷の様な物で作られた腕が彼女の腰回りをがっしりと掴んでいる。アーネールは今、『へ』の字になってその腕にぶら下がっていると言う訳だ。

 一体何が起こったのだろうか?自分はつい先程まで牢獄の中にいて、地震の様な物が起こった所までは覚えているが――。

 そう言えばこの腕の主は誰なのだろうか。そう思い、アーネールは目線を上に動かすと、待ち受けていたのは筋骨隆々の鬼。嘴が異常に発達しており、背中の翼で飛行をしているようだ。腕と同様にその鬼の体も海の様な透き通った青色をしている。

 「なんダ?目覚めたカ?まあ、ソコで大人しくしてナ」

 糸の様に細い目をアーネールに向けた氷鬼は、キンキンとした機械的な声でそう言った。

 成程、これはシヴァの力だろう。そして先程から左腕を動かそうとすると激痛が走っている。どうやら自分の左腕は折れてしまっている様だ。恐らく地下牢が崩壊した時に瓦礫に挟んでしまったのだろう。右脚と左腕が使い物にならなくなってしまった自分に何か出来る事はあるだろうか――。

 そう考えながらアーネールは下を見てみた。

 現在、目測で地上から三十メートル程だろうか。残りの右腕でバハムートの光線を氷鬼に放ち倒す事が出来たとしても、この高さだ。地面に激突して息絶えるのが目に見えている。

 ふと、彼女の瞳に良く見知った者の顔が映り込んできた。

 「くそ……どうやったらアイツを引き釣り下せる……?」

 エスだ。彼が木々の間を駆け抜け追いかけてきている。しかしこの状況を切り抜けられる何か良い術を持っている様には見えない。

 やはり死を覚悟してバハムートの光線を放つしか――。


 同時刻の東側にて、テレサも氷鬼に連れ去られているアーネールを眺めていた。彼の手元にはスナイパーライフルの様に銃身が長く、上部にはスコープが搭載されている銃型魔具・トロメルが。金属の冷たさがテレサの手汗を吸い取り、彼の首から下がった金のペンダントは静かに彼の事を見守っている。

 「僕が何とかしないと……」

 深く、大きく息を吐くとテレサは銃口を遥か遠くの氷鬼に向け、スコープを覗き込んだ。

 ライフルの長い銃身は自らの腕の延長に感じられ、微細な動きすら許さない。呼吸すらも煩わしく感じてしまい、鋭く細められた目はただひたすらに一つの点を狙っている――仲間を攫わんとする氷鬼、その一点に。

 そんなテレサの心に忍び込んできた、要塞攻略時にかけられた彼女の言葉。

 『君には出来ないね。だって君には――』

 「散れ!煩悩よ!」

 雑念を消し去り、引き金を引く――そしてその瞬間、銃頭から飛び出してきたのはたった一つの火の玉。最初は小さく、今すぐにも消えてしまいそうな物であったが、風に乗って脈打ち、輪郭を描き直すにつれ徐々に大きく膨張していった。そしてその火の玉を太陽と見間違えるほどに大きく、輝きを放ったと思うと少しずつ形が崩れ始めた。風に従い細長くなっていったかと思うと――形を成したのは、炎の龍。規則正しく並んだ鱗に鋭い目元。長い二本の口髭の根元では大きく開かれた口が一点目掛けて直進している。炎の龍の周囲は蜃気楼に歪み、今にも溶けだしてしまいそうな程の熱を発している。

 「早エ!避けられな――」

 そして氷鬼を呑み込む――はずだった。テレサの狙撃の腕は確かだった。銃に関して九三期生の中で首位の座を欲しいままにし、その時も一寸の狂いすらも無かった。

 炎龍が氷鬼を呑み込む直前に吹いた突風さえなければ。

 アーネールを抱えた氷鬼の僅か上を掠めた炎の龍は、そのまま空へ向かい直進して淡い光へと消え去ってしまった。

 「外してしまった……!」


 「アッブネエ!アイツは魔物の気持ちを考えた事ねえのカ!?」

 突如ネストの中から放たれた炎の龍がすぐ近くを掠めたかと思うと、氷鬼がより耳に悪いキンキンした声で叫んだ。

 今のはテレサの魔法だろうか?だとしたら氷鬼を自らの魔法で狙撃しようとして外してしまったのだろう。しかし、そのお陰で自分達の高度が低くなった。地上から十メートル程度。恐らく氷鬼はその翼を焼かれたのだろう。今なら氷鬼を倒してももしかしたら生き残るかもしれない。

 もう一度地面に目線を落としてエスを見てみると、彼はやはり必死の形相で自分の事を追いかけてきている――『バハムートの継承者』を回収する為ではなく、『仲間』を守る為に。

 「……ン?」

 氷鬼が下方から異様な光を感じたのと、その氷鬼に向けられたアーネールの手の平から、光線が放たれたのは同時であった。

 首から上が喪失し、地面へと落下する氷鬼。力の抜けたその氷鬼の腕から見放され、森の中へと吸い込まれていったアーネールをエスは見逃さなかった。

 「アーネール!」

 鉛の様に重たい体を無理矢理に動かし、彼女の元へ急ぐエス。

 しかし――。

 そんな彼に突然、頭を強く殴られたかの様な衝撃が走った。ぐわんと視界が揺れ、平衡感覚がどこかへ行ってしまう。足元にある物が地面であるか雲であるかも分からなくなってしまい、何とか近くの木にしがみ付いたが、酔いが収まる気配は一切無い。

 そしてその瞬間、彼の脳内に突如として溢れ出すは、見た事も無い誰か、どこかの記憶――赤毛の少女。目付きの悪い少年。その横にいるのは何故か見覚えのある、別の少年。石造りの家。薄汚れた教会。その上に浮かぶ積乱雲。

 過去の継承者の記憶。それがエスの頭の中で膨張し始めたのだ。

 「何だ……これ……」


 「シヴァの魔法はね、氷鬼一体に対するコストが余りにも高すぎるんだ。でも使い方を変えればこんなのも生み出せちゃう」

 立ち込める土煙、彼らを淡く照らす夕焼け。タイタンの核はいつの間にかどこかに消え去っており、その場に残されているのは衝撃と疑念。

 そんな中でレイと数年ぶりの邂逅を果たしたのはフブキ。彼はそんな事を言うと、右腕を正面に伸ばした。そしてその右手からぼとりと落とされたのは、胎児の形を成した氷鬼。相も変わらず二本の手足に真ん丸な頭部。丸められたその腕の中、不気味に波打つは奇怪な顔面。そしてその水色の赤ん坊がレイをその目に入れた瞬間、顔だけでなく体全体が奇声を上げて波打ち始めた。それと同時に徐々に肥大化していく全身。筋骨隆々の手足に、全長五メートル程の体。しかし今回の氷鬼は今までのそれとは少し異なっていた。体の巨大化と同時にその爪も伸びていき、全身からは野生動物の様な毛がびっしりと。奇声も徐々にその音域を低くしていき、最終的に形を成したのは、鋭い目付きと巨大な体を併せ持った黄土色の熊。その氷鬼の皮膚は体毛で完全に隠されており、口の中には暗くても分かる程の太い犬歯が二本。夕焼けのせいでその熊の体全体に黒く落とされた影は、本能的な恐怖を駆り立ててくる。

 フブキはその光景を見ると目を閉じ、思い出すは幾年昔の記憶。

 「兄さん、覚えてる?もう十年以上前になるのかな、僕とフユが母さんと兄さんに内緒で家の外に出た時の事。あの日、僕達は丁度こんな感じの熊に襲われてしまって、僕もフユも足が竦んでしまったんだ。もう死んだと思ったその時に兄さんが駆け付けてきてくれて、その熊を一瞬で倒しちゃった。あの時の兄さんは特にかっこよかったよ。でもその時、何かが僕の心に突っかかっちゃってね。それが何だったのか最近分かったんだ。僕、実は――」

 彼の話はサビに入り、目を開けたフブキ。しかしその瞬間彼の言葉はその喉の手前でつっかえてしまった。『予想していなかった光景』が知らず知らずの内に起こっていたからだ。

 全身から透明な液体を垂れ流し地面に倒れている熊型氷鬼。その上に佇むは、その両の手に氷棒を携えたレイ。その氷鬼はピクリとすら動く気配が無く、たった一瞬の内に倒されてしまった事は理解するのに易くない。

 「フブキ!どういう事だ!何故オルトに付き従っている!」

 険しい顔を浮かべながらそう叫んだレイ。だがフブキは彼の剣幕を気にかける事すらなくポカンと口を開いている。流石にフブキもあの氷鬼が即座に倒される事には驚いた様子だ。大きく目を見開き、

 「やっぱり兄さんは凄いなぁ!」

 「答えろ!」

 レイがそう叫ぶとやっとフブキはその表情を変えた。口の両端を下に向け、すっと細められた彼の目。顔も僅かに地面へと動かしその状態でレイを瞳に捕らえると、

 「母さんに会ったんだ。兄さんも会いたいでしょ?」

 「何言ってやがる……」

 「出来れば兄さんも連れていきたかったけど、残念。今の氷鬼で魔力が無くなっちゃったんだよね。兄弟喧嘩はまた別の機会に、かな」

彼らを取り囲む土埃は未だに晴れる気配すら無く、周りの状況を確かめる事すら出来ない。

 フブキはその顔に再び笑顔を取り戻すとそう口にした。その瞬間、土煙の中からスッと姿を現したのは飛行型の氷鬼。レイが何かする時間すら与える事無く、その氷鬼はフブキをその腕に抱えると、翼をばさりと羽ばたかせ空へと逃げてしまった。

 「なっ!?」

 レイからの攻撃を受けないようにする為なのだろう、その氷鬼は辺りを漂う土煙にも先程上空を通過した炎の龍にも目をくれる事無く一目散に空の果てへと飛び去って行く。

 地上には、その氷鬼が飛び立った際に発生させた風圧のみが残されていた。

 「じゃあね、兄さん」


 エスの中で入り乱れる記憶。

 プロジェクター越しの映像の様に視界の隅は暗闇に包まれており、中心に向かう程光が強い。誰かは分からないプロジェクターの主。彼が幼い顔付きをした赤毛の少女の両脇を掴み上げ天に大きく掲げている。その少女は全身に風を受け、顔いっぱいに大きな笑顔を浮かべている。画面が隅から暗転していき、視界が大きく反転する。次にプロジェクターで映し出された画面の中、そこでは視点の主が白がかった金髪の少年の頭を撫でている。その少年も赤毛の少女の様な笑みを浮かべており、まんざらでもないと言った表情だ。更に視点が変わっていき、また見た事も無い子供が笑顔をこちらに向けてきている。画面が暗くなる。また知らない子供の笑顔。

 そうやって何度もプロジェクターの画面が変わっていき――エスの脳内に一つの映像が引っ掛かった。

 生まれて一年程度だろうか、とある少女が真ん丸な口の両端を大きく上げて笑顔を浮かべている。しかしそれを向けている先は視点の主ではない。生まれて間もない赤ん坊に対してだ。

 「うわあ!あかちゃんだあ!」

 その少女は顔を真っ赤に染め上げ、空に高く担いだ赤ん坊を真っ黒ながらその奥底から今にも光が溢れ出してきそうな瞳で見つめている。エスの脳内にそんな何でも無い場面が留まった理由は、その少女の髪質にあった。

 彼女の髪が特徴的な程うねっていたのだ。

 エスはそんな髪質の女性を一人、知っている。よく見ると、天に担がれている赤ん坊には所々に金髪の毛が生え掛かっている。エスが鏡を見る度にずっと目に映っていた髪色ではないか。もしそうだとすると、この少女は――。

 再び視点が暗転する。そうして映り込んだ画面には、先程の少女が再び。彼女は白色の凝固した液体――恐らくヨーグルトをスプーンに乗せ、それを先程の記憶にも映っていた金髪の赤ん坊の口に伸ばしている。だが当の赤ん坊は自らに伸ばされたスプーンの意味を理解していないのか、キョトンとした顏持ちで少女を見つめ返している。

 「ら……と、ほら、あーんってして」

 そう言われて初めてその赤ん坊は意図を理解出来たのか、ヨーグルトをスプーンの柄ごと口に含んだ。まだ十分に歯も生えていないだろうに何度か咀嚼すると、喉を動かしてごくりと飲み込む。それから遅れてぎこちない笑みを浮かべると、少女は先程と同じ様な笑顔をその赤ん坊に返した。

 視点が暗転する。再び少女と赤ん坊。

 「ここはこうするんだよ」

 視点が暗転する。

 「今日は何しようか」

 視点が暗転する。

 「こっちをあげるよ」

 視点が暗転する――。


 気が付いた時には記憶の洪水はどこかに消え去っていた。それでも尚、エスは身動きが取れないでいた。自らの胸からこみ上げてきそうになる感情を何とか押さえつけるのに精一杯だったからだ。ずっと否定したかった事実が、エスの眼前に大きな形を成して現れたからだ。

 アーネールがエスの――。

 誰かの雄叫び。空虚な銃声。地を均す地鳴り。その様な喧騒は右耳から入りすぐに反対の耳へ通り過ぎていく。エスはただ何もせず、何も出来ずに木にもたれ掛かりながら地面に座り込んでいた。鼻を啜りながら、たった今頭の中に流れてきた物を反芻する――もうこれ以上、否定出来ないようだ。認めざるを得ないようだ。

 もう何もせずに、五分程が経ってしまっただろうか。でも、まだ間に合うはずだ。エスは立ち上がり、涙に顔を崩しそうになりながらゾンビの様なふら付いた足取りで歩を進める――アーネールの元へ。

 「……行かなきゃ」


 エスがアーネールの元に辿り着くまで、どれ程の時間が経ったのだろうか。一瞬だった気もするし、悠久よりも長かった気もする。

 草木の生い茂る道を抜けると、そこには木が一本も生えていない円形の開けた場所が。

 そしてその空間の真ん中に、アーネールがいた。

 上半身を岩に任せ、身動き一つ取っていないが――まだ、生きている。たった二つの彼女の瞳がエスに向けられており、呼吸の仕方は少しおかしい気もするが、肺が上下に動いているのも遠くから見ても分かる。大丈夫だ。アーネールはまだ生きている。

 このまま彼女を連れてこの戦場から逃げてしまおう。そう思っていた時だった。エスは気が付いたのだ。彼以外にもう一人、アーネールの元に向かっている者がいる事に。

 視界の端に、アーネールではない『彼女』が映り込んだ――ああ、そうだ。しっかりと見なくても分かる。その洗練された身のこなし方。それをお前は茂みから足を出す時にさえ見せる事が出来るとは。訓練兵時代からずっと羨んでいたよ。その体の動かし方を。お前のその、強さを。

 エスは覚悟を決めてそちらに目を向けると、そこにはアトリーが。その開けた空間の端で、いつもの様に眠たそうな顔付きをしている。

 「アトリー、頼む。ここから去ってくれ」

 そう言ってエスは剣をアトリーに見せると、彼女は深々と溜め息を付き、

 「エス、残念だね。殺し合うしかなさそう」

 分かり切っていた返答を聞き入れた時には既に、エスの集中力は深い心の奥底まで沈んでいた。余計な物を全て削ぎ落とし、視界に入れるは目の前の敵一人。彼女の呼吸、手の揺れ、視界の移動――それだけに全ての視神経が集まり、残りは全て曖昧に。

 一度、遠くから爆発音が聞こえた時にエスはアトリーの元へ駆け始めた。彼は冷静に、しかしがむしゃらに剣を振るう。右へ、左へ、斜めから。だがアトリーは表情一つ崩さずその全てを避けると、右手にナイフを握り締めエスの胸元に一気に侵入してきた。間髪入れずにナイフを彼の顎下へ。

 「くっ!」

 エスは間一髪の所で無理矢理に仰け反り、数歩後方へ下がった。

 数メートルの距離を取り睨み合う二人。もし片方でもその間合いを犯そうものなら、先程の様に再び刃が交差するのだろう。召喚獣を使ってしまうとその余波がアーネールに及ぶかもしれない。その事を二人共重々承知しているのだろう、どちらも召喚獣を出してきそうな雰囲気は無い。

 「やっぱアトリーに近接戦を挑むのはマズそうだな……」

 刹那の内に、エスは彼女との戦いでの自らの不利を悟った。もしアトリーがもう一度でもナイフを振るってきたら、避けられるかどうかは半々といった所だ。

 「それなら!」

 エスの手の平に握られていた剣が淡い光と共に粒となり消えていったかと思うと、次にその粒が形を成したのは片手銃。黒塗りされたその銃の持ち手はがっしりとしており、引き金は指に沿うように緩やかに曲がっている。

 だがエスが銃口を向けたその次の瞬間には腰を低くして彼の元に駆け始めていたアトリー。エスが引き金を引いた先には既に彼女の姿は無かった。アトリーが彼の左腕を強引に弾くと銃は近くの木の枝に引っ掛かってしまった。銃の先を地面に向け、だらりと釣り下がっている。

 「くそっ!」

 エスは急いで後方に下がろうとしたが――それすらもアトリーの想定内だった。

 本物の殺し屋がナイフで人を殺す際に、真っ先に狙うのは首や心臓ではない。先ずは両肩にある筋肉、僧帽筋と三角筋を切り刻む。そこを切るだけで人は腕を動かせなくなるからだ。

 アトリーはエスの僧帽筋と三角筋を切り裂くと同時に彼の膝に視線を移した。

 反撃の機を削いだその次に狙うは足の筋肉である大腿四頭筋。ここを切れば立つ事すら不可能になる。ここまで来ればもう終わったも当然。足の筋肉を切り削がれ、意識も朦朧として人は前方に倒れてくるからだ。その間に肺、心臓、ダメ押しに首元。

 先の死の方程式を完璧に遂げたアトリー。彼女の手元には血みどろのナイフが。通常の人間であれば、先の手順で既に息絶えているはずだ。

 しかし、エスは違った。アトリーの前で両膝を付き、腕は両方とも血だらけの肩からぶら下がっている。首から腹まで溶岩の様に血が噴き出し、体はピクリとも動きそうにない――それでも、彼の体は僅かに呼吸で上下している。生きているのだ。

 「驚いたよ、エス。凄い頑丈だね。でも安心して、もう苦しまなくて良いから」

 アトリーはもう一度ナイフを強く握りしめた。

 本当に何故、この男は生きているのだろうか。まあ大方、自分と出会う前にオーディンに触れて人並外れた耐久性を得ていたのだろう。だがそれが何か問題にでもなろうか?どうせこれから私が殺すし、手を下さずとも一、二分後には出血死している量だ。

 そう思考するアトリーに向け――エスは、徐に真っ赤な左腕を伸ばした。俯いたまま伸ばされたその手は人差し指がアトリーへ、親指は上方向へ向けられており、それ以外の指は折りたたまれている。

 「……何のつもり?」

 まるで彼女を狙撃するかの様に向けられたその腕。アトリーはその意図を掴めずにいた。

 オーディンの銃は先程からずっと木の枝にぶら下がっている。あの武器は召喚士が触れていないと別の武器に帰る事は出来ないから、今のエスは実質的に何の武器も持っていない――まさかどこかから誰かが私を狙撃しようとしているのか?いや、先程からエスとアーネール以外の者からの視線は感じていないが――。

 「あいつに言われたんだよな……一つの可能性を選ぶ前も、選んだ後も、他の可能性を探し続けろって……」

 エスは腕をアトリーに伸ばしたままその顔を上げた――彼の瞳には、勝利を確信した確かな光を孕んでいる。

 「『オーディンの武器は遠くからでも操れる』!」

 ドン、とその場の静寂を切り裂いたのはたった一発の銃弾。それがアトリーの後方、斜め上方向から彼女の腹へ侵入し、炸裂したのだ。何が起こったのか。それをアトリーが理解しようとするにつれ、その穴からジワリと血液が染み出してきた。

 「な……に……」

 「わざと銃を木の幹に引っ掛けたんだよ。それで銃口を丁度良い角度に調整してお前の意識の外から銃弾を放てば、俺でもお前を倒せる」

 背中から侵入し、腹部へ貫通した傷穴。手で塞いでみたが――やはり指の隙間から滲み出てきた。呼吸をする度に痛みの炎は押しては引き、徐々に視界の焦点が合わなくなってくる。もはやこれ以上は立つ事すら困難だ――ましてや、戦う事なんて。

 「へえ……やるじゃん……エス……」

 アトリーがそう言い捨てると、彼女の足元の土が徐々にその形を失い始めた。まるで自らを液体だと言いたげに波打ち、そしてドプン、と低い音が響いた時にはアトリーの足は土に呑み込まれていた。そのまま見る見る内に膝、腰、胸は地面の下へと降下していき、三秒が経過した頃には彼女は完全に見えなくなってしまった。

 逡巡するエス。恐らくアトリーは現在土中を移動しているのだろう。足元から伝わる振動から彼女の大体の位置は分かる。九時の方向に七メートル先。オーディンの拳銃が木に引っ掛かっている為自分はもう武器を出せはしないが、誰か助けを呼べば深手のアトリーを倒す事など容易い。よし、まずは――。

 その瞬間、彼の頭の中を駆け抜けたのはたった一人の女性。

 少し天然パーマが掛かったその髪に自分より少し高いその背丈。笑った時には口元にうっすらと笑窪が浮き上がり、悲しむと眉を大きく上げてぱっちりとした目が見開かれる。たった今も、すぐ近くで彼の事を見つめている彼女の名は――。

 何故自分はアトリーを追う選択を一瞬でも考えてしまったのだろうか?その事を悔いながら大きく首を動かすと、

 「アーネール、大丈夫か!?」

 彼女は変わらず岩にその身をもたれ掛からせている。彼女の腹部に覆いかぶせられている右腕に、彼女の額から流れ顔を伝っている血液。微かに、しかし確実に呼吸で上下に揺れる体に、うっすらと開かれた虚ろで真っ黒な瞳。エスは彼女の近くで屈みこむと慎重にアーネールの頭を軽く持ち上げた。すると彼女の頭部は思ったより重たく、その頭に付いた二つの眼がエスの方へとゆっくりと移動していき、彼女の口が少しずつ動き始めた。

 「私……ずっと……勘違いしてた」

 「喋るな!傷が――」

 その瞬間エスの手の平にどろりとした生暖かい何かがアーネールの頭から伝って来た。アーネールを傷つけないようにそっと右手を彼女から放すと、そこには真っ赤な血液がべったりと。彼女がもたれ掛かっていた岩の方に目を向けてみると、そこにも似た様な色の液体が大量に。それは岩を伝い、地面に合流するとそこで血溜まりを作り出している。

 人間の体内にはこんな尋常でない量の血液が巡り巡っているのか?これは、こんな量の血が無くなったとしても、すぐに処置をする事が出来れば人は生きていけるのだろうか?いや、そうとは思えない。ならば、まさか、本当に、彼女はここで――?

 自らの瞳から思わず溢れ出してしまいそうになった物を抑え込む為、エスはアーネールの胸に自分の顔を沈めこませた。それでも目の周りはどうしようもない程に熱くなっていき、胸の奥底から湧き出る嗚咽は、喉を通り空へと細々と響いている。そして、彼は一つの現実を呑み込んだ。

 アーネールはもう間もなく、死ぬ。

 例えその現実を理解したとしても、どうやら真っ黒な臓物の内から溢れ出る嗚咽とこの感情がほんの少しでもマシになる事すらない様だ。寧ろそれどころか、次から次へとそれらの燃料が投下されて行っている事は、そんな感情が一切として目に見えないとしても素直に理解出来た。

 「あなたは弱いから……守ってあげないといけないって……思ってたのに……いつの間にか……あなたは……私なんかよりもずっと……強くなっていた……」声が大きく震え、「ずっと……ずっと……間違えてた……」

 エスはずっとアーネールの胸に顔を沈めこませていたからこそ分かる、彼女の体温と心音。どちらもこの世の何にも比する事のない温もりを持っており、今、この瞬間にも消えてしまいそうな物だ。

 もう、彼女に残された時間は少ない。そう覚悟したエスはそっとアーネールを岩にもたれ掛からせると立ち上がった。

 アーネールの真っ黒な瞳と目が合ったエス。彼はどんな言葉を彼女に語るべきか、未だに分からなかった。しかしそれでも、分からないなりにも彼は口を開いた様だ。

 「それは……違うよ。オーディンを介して過去の記憶を見たんだ。断片的だったけど、そこに映るお前は……ずっと俺の世話をしてくれていて……気にかけてくれていた。それを見て、俺、やっと気付いたんだ」エスは一度鼻を啜り、「お前がいたから俺は強くなれた、タイタンに勝てた、アトリーを倒せた……だから……その……」

 つい先ほど、オーディンの過去の記憶が脳内に零れ落ちたと同時に沸き上がった、彼女に対する様々な感情と言葉。後悔、憤怒、恨み。期待、憧憬、親近感。そして――。

 エスの表情は見る見る内に真っ赤になっていき、彼自身もそれを恥じたのだろう、両の手で頬を覆った。アーネールと目が合わない様に僅かに下へと目を背け、それでも言葉を口にしようとする。

 最終的にエスが彼女の最期の為に選んだ言葉は、非常に単純な物であった。

 「……ありがとう、『お姉ちゃん』」

 赫色の夕日が彼らを明るく照らすと、赤と赫がエスの顔面で互いに溶け合い交じり合った。地面に落とされた二人の影は少しずつ東へと背を伸ばしていき、地平線上には燃え滾る様な雲が上空へと伸びている。

 アーネールが頭を強く打ち付けた時からずっと彼女の視界はぼやけていたはずだが、その時になって更に視界が不確かになり始めた。アーネールの瞳の中で彼女の弟は夕日と共に曖昧に溶けていき、頬には彼女を温める何かが何筋も。もう殆ど何も見えない暗闇の世界の中、彼女が最後の力を振り絞りエスに向かって手を伸ばすと、彼はその手の平を力強く握ってくれた。アーネールは安堵の笑みをその顔に浮かべると、

 「バハムートはあなたが継承して……大丈夫、今のあなたなら私の過去を見ても……きっと打ち勝てる」

 そう言い遂げると、アーネールの瞼がスッと下った。その瞬間エスの両手に掛かる彼女の重みが増し、その場に何かを告げるかの様なひんやりとした風が吹いた。

 周辺の草木は悲しみに揺れ、その空間には他の誰も触れる事の出来ない二人だけの不可侵領域が広がっている。エスの影はますます伸びていき、地平線の雲はいつの間にかどこかに消えていた。

 彼はただアーネールの右手を重ねたまま、他の何も出来ないでいた。そのまま永久に近い時間が流れた時にエスは気が付いた。アーネールの手の平に何かがある事を。そっと覗いてみると、そこには手の平サイズで硝子細工の様な何かが。内部は透明な液体で満たされており、正二十面体の様な形をしている。エスはそれを見るのは初めてであったが、それが何かを推し量るのは容易な事であった。

 アーネールの置き土産。召喚獣・バハムートの結晶。

 エスは何の躊躇いも無く力を籠めると、結晶はいとも容易く砕け散った。内部の液体が地面に染みを作り上げ、すぐに蒸気と共に露へと化していく。もっと、もっと長い時間そこにいたかったエスだが、ミランダの方から何かの爆発音が聞こえてきた時に自らの使命を思い出した様だ。エスは最後、アーネールに背を向けると、

 「……行ってきます」


 場面は変わり、廃村北部。

 そこから戦場全体の流れを見ていたアークとその側近達だが、その表情は明らかに浮かない物であった。それもそのはず、マーナ兵達を囲んでいたはずの陣形が徐々に押され始め、目標の一つである召喚獣の回収も芳しくない様子だからだ。

 「アトリーがバハムートの回収に失敗した模様です。また、東側の軍が壊滅しました……もう数刻で、マーナ兵がここまで到着するかと」

 側近からそんな報告を受け、アークは苦虫を嚙み潰した様な表情で地面を見つめると、

 「そうか……」

 アークは一呼吸置き、再び正面を見直した――そこに待っていた物は、崩壊した村と無残に咲き散る大量のマーナ兵の屍。ある者は岩にもたれ掛かりながら死に、ある者は下半身を建物に圧し潰され死に、ある者は胴体に剣が突き刺さったままうつ伏せで死んでいる。無造作に配置された彼らの死体はまるで幼児が遊んだ後の玩具の様に魂が抜けており、そこら中に塗られた血液も同じ幼児が絵の具遊びをした後の様に取っ散らかったままだ。それを慰めるかの様に吹いた風も、どこか救いようのない虚しさを感じる。

 顔一つ歪める事無くその光景を見たアークは不意に気配を感じると、上空へ顔を上げた。そして自らの元へ一直線に迫りくる『それ』を視界に入れると溜め息を一つ付き、

 「だが、私達の目標は達成したと言っても良いだろう。後は――」

 ドォン、とダイナマイトの爆発よりも大きな爆発音が一つ周囲を轟いた瞬間、アークの背後で『何か』が上から降ってきた。吹雪よりも濃い密度で周囲を覆い隠す土煙。それでも、上空からの来訪者の気配を包むのには不十分であった様だ。『それ』は凍てつく冷気と共にアークの元へ一歩、また一歩と迫り来ている事は誰の目にも明らかであった。

 「私に任せておけ」

 アークはすうっと大きく息を吸い、後ろへ振り返る。予想を裏切る事無く、そこで待っていたのはやはり『彼』であった。アークの直ぐ正面、そこで両手に代わり映えのしない物を侍らせ様子を伺っている。

 「元帥が自ら戦うのは得策ではありません。私達にお任せを」

 そう言った側近をアークは無粋だと思ったのだろうか、ふるりと首を横に振ると、

 「いや、今後の事を考えるとこれ以上兵を失いたくない。安心しろ、私は死なん」

 アークはそう言うと自らの右手をゆっくりと背中に回した。そこから大剣を持ってくると正面へ見直し、ゆっくりと口の両端を釣り上げる。そうして一歩ずつ前へ歩を進めるにつれ、まるで周辺の空気が歪み、悲鳴を上げるかの様な不穏な雰囲気が醸し出される。

 「聞いていただろう、レイ。これ以上余計な被害を出したくない。手早く終わらせよう」

 レイの両手にはクレーターの様にデコボコとした不均質の、それでいて先端は肉眼で見る事が困難な程に鋭い氷の棒が。それを携え浮かべる笑みは、アークのそれに負けずとも劣らない様な雰囲気を醸し出す、冷たく不気味な物である。

 「面白い事言うじゃねえか、アーク。そんなに言われなくても、すぐにぶっ殺してやるよ」

 そう言ってレイもアークに向かい一歩踏み出すと、地面にはその足跡がくっきりと烙印されていく。これよりほんの瞬きの間に始まる一戦を見た者は、皆口を揃えて言う。

 この二人の戦いは、その動きを収める術が無ければ、どの様な物であったのか後世へ語り継ぐ事は出来ないだろう、と。

 張り詰めた空気の中で森が固唾を呑んだ瞬間、既に最強を決める闘いは始まっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る