第三話 裏切り者

 暗い、暗い、暗闇の中。殆ど意味の無い事だと思っていながらも目を細め、足をつけるべき地面を探す。一歩、また一歩と。最後に休憩を取ってから四時間程が経過し、最早言い争う気力すらも残されていない。ジメジメとした空気が首筋を撫で、暗黒の中で皆の足音だけがその場を満たしている。

 十二年前のミフュース襲撃。その為にネストを横断せんと画策しているマーナ兵達数百名。グレアも、フィリアも、当時の隊長・『ハリス』も、皆が長期に渡る極限状態の中で、いつ襲ってくるかも分からない魔獣に怯え視覚以外の感覚を研ぎ澄ませていた。湿った大地が足元を支配し、周辺には方向感覚を根絶やしにする木々。幹も枝葉も不可思議な力で捻じ曲がっており、真っ黒な葉と根が彼らを挟み込む。最早周囲の呼吸音すら煩わしく感じてしまうが、この暗闇の中ではそんな呼吸音すらなければ仲間の安否を知る事すら出来ない。

 「全体……止まれ……」

 グレアが自らの下した判断を後悔していた時、すぐ前を歩くハリスの方からその様な声が聞こえてきた。彼女が俯いた顔を上げてみると、十メートル程前方にとある情景が広がっている事に気が付いた。

 葉と葉の隙間から漏れ出る、スポットライトを落とした様な光。それはここ数日拝むことの出来なかった上空から降り注いでおり、すぐ目の前に光の円形を落としている。しかしその明かりは暗黒の世界を照らす女神の光であると同時に、非情な深海に灯るチョウチンアンコウの触覚でもあった。何故か?その場にいた皆が見てしまったからだ――。

 その光に照らされる、異形の人型魔獣の姿を。一見するとその魔獣は人の様にも見える形をしているが、その顔には目も、鼻も、耳も、人間を構成する要素は何も存在していない。代わりにその顔面には人間で言う所の両目に三本ずつ線が伸びているだけだ。肉体もまるで木の枝の様に細く、光に当てられた全身がまるで銀の様に白光りしている。

 そんな魔獣がその場に佇み木漏れ日を眺め続けていたのは、マーナ兵達に気付いていなかったからなのだろうか、それともそもそも興味が無かったからなのだろうか。だが三十秒程経過して遂に魔獣がこちら側にその顔を向けた時に初めて、グレアは初めて気が付いた――その魔獣の顔面に入った六本の横線、その隙間から彼らを覗き見ている幾億千万もの小さな瞳に。その目玉一つ一つがギョロギョロと動いており、マーナ兵達に娯楽の視線を向けている。その魔獣がこちら側に向かって人差し指を向けた時になっても、行動を起こさんとする者は一人としていなかった。

 グレア達に襲いかかるは、圧倒的恐怖。足が竦み、両手の震えは止まらない。まるでサバンナの鹿が百獣の王に対して感じる様な根源的かつ潜在的な本能。逃げなければ死ぬ。動かなければ死ぬ。あの腕から、あの魔獣から逃げなければ。今すぐに、今すぐに逃げなければ――。


 「うわあぁぁ!!」

 上半身を起き上がらせて毛布を吹き飛ばす。呼吸を荒くして急いで周辺を見渡すと、そこは良く見慣れた自分の部屋であった。ベッドのすぐ横に小さな棚と作業机、足元側には出入り扉。カーテンを閉ざされたその部屋は薄暗く、顔面から吹き出す汗が止まらない。呼吸を整える為にベッドの上で三角座りをした時に初めて、両肩が震えている事に気が付いた。

 「……夢か」

 グレアはそう呟くと、仕事の支度を始めた。


 「グレアさん……顔色が良くない様ですが、大丈夫ですか?」

 「……ああ、うん、大丈夫だよ」

 テレサがグレアにそう聞いたのは、いつもの六人が他班との合同訓練を終えた後の事であった。

 周辺の木々はすっかりと紅葉を果たし、秋の匂いが頬を掠める。思わず欠伸が出てしまいそうな程にのんびりとした気候の中、彼らは帰路に付いている。目の下に僅かな隈を溜めたグレアはわざとらしくハキハキとした声で、

 「それより、君達に重要な話があるんだ。君達が訓練兵を卒業して正式にマーナ兵になったら、『アトラス要塞』に攻め込もうと思っている」

 「『アトラス要塞』って何ですか?」とエス。

 「知っての通り、私達が住むマーナ国とオルトの民が住むオルト国の間には巨大な森・ネストがあるでしょ。だから私達がオルト国に攻め入ろうとした際ネストを通る訳なんだけど、何の対策もせずに往来出来る程あの森は甘くない。ネストの内部には数多の魔獣が巣食っているからね」ニッと笑い、「ここで質問。なら、どうやって私達はこのネストを渡っていると思う?」

 エスはしばらく首を上に向けて考えると、

 「空からネストを横切るとかですか?」

 「それが出来たら良いんだけどね。まだ航空技術を軍事技術に転用出来る程発展はしていないんだ。だから一般的に、私達はそんな彼らが寄り付こうとしない聖上の道標・『アレキサンダー街道』を歩く。その街道はマーナ国とオルト国を繋ぐ様にしてネスト内に存在していて、『アトラス要塞』はそんなアレキサンダー街道の半ばにでかでかと造られた要塞なんだ。元々は私達がオルト軍の侵攻を妨げる為に建てた要塞なんだけどね、何十年か前に占拠されてしまって、それ以降一方的に攻撃を受けている」自信をたっぷりの顔になり、「でも大丈夫。今回の作戦で絶対に取り戻して見せるから」

 「そのアレキサンダー街道を通らずにオルトに渡る事ってそんなに難しいんですか?」

 グレアはそんな質問を聞くと僅かに目線を落とした。そのまま苦い笑みを見せると、

 「まあ、不可能に近いんじゃないかな。実は十二年前、私達はイフリートの召喚士と共にアレキサンダー街道を経由せずにオルト国を渡り奇襲を行ったんだけど……あれは酷かったね。まず――」


 マーナ兵達が渡り歩く暗闇の森林。そこを照らす一筋の光。そしてその光の元に佇む人型魔獣。異形の顔面に棒切れの体を携え、指差すはグレア。顔から汗が吹き出し、手足の震えは止まらない。呼吸もどこかに忘れてしまい、叫びだそうにも肺が上手く動かない。そして強烈に意識するは、迫りくる『死』。

 動かなければ死ぬ。動かなければ死ぬ。動かなければ――。

 そして気付いた時には、グレアの横にいたマーナ兵の上半身が消えていた。腰から下だけになっており、その断面からは黒くくすんだ血が滲み出している。それでも自らが死んだ事に気付いていないのか、足だけになってもその場に直立したままだ。

 「……ぇ」

 ただ茫然と困惑するグレア。そんな彼女を嘲笑うかの様にして、全ての目玉を彼女に向けている魔獣。立ち尽くす死体に、その場にいる皆の心にまで侵食してきた暗黒。その魔獣は何もする事無くグレアを見つめており、プス、プス、と時折空気の抜けた音の様な笑い声を出している。その事に気付いた瞬間、グレアは悟った。

 生態ピラミッドがあるとして、その頂点に君臨するのは人間ではない事を。その頂を貪っているのは、彼ら魔獣であると言う事を。

 このまま皆、あの魔獣に蹂躙され死ぬのだろう――そう覚悟したグレアの背後、そこから飛び出してきたのは、二本の角を生やした焔の蜥蜴。鋭利な爪をそれぞれ六本ずつ携えた四足歩行で、頭から突き出たその角は真っ赤で巨大。万物を切り裂きそうな鋭い目付きに、黒く焦げ切ったその皮膚。そして何よりも全身から常に湧き出ている獄炎の焔は、ただ傍に近寄るだけで発火してしまいそうな程に灼熱だ。

 その名は、召喚獣・『イフリート』。

 その召喚獣はグレアの背後から飛び出すと同時にその手で魔獣をいとも容易く叩き潰してしまった。そのまま間髪入れずに手の平と地面の隙間から炎が漏れ出ると、金属同士が激しく擦れ合う様な甲高い魔獣の声がその手の平の下から聞こえてきた。それでもイフリートの炎は止まる事を知らず徐々に火力が強まっていき、それと共に小さくなっていく奇声の声音。手の平と地面の隙間で炎は花びらの様に開いては閉じ、遂に一度爆発したかの様に炎が溢れ出した。その暗闇の森を炎が満たし、それを契機に魔獣の声も一切聞こえなくなった。

 その後も魔獣が出現するたびに召喚士がイフリートを召喚し魔獣を蹴散らしたが、それでも彼らがネストを横断しオルト国に到着した頃には、彼らの数は当初の六割ほどになっていた。残りの四割はネストの中で魔獣に殺されたか、暗闇の中でその姿を消してしまったのだ。

 そして生き残ったマーナ兵が襲撃したのはオルト国の南南西に位置する工業都市・ミフュース。周辺を城壁に囲まれ、その都市の大きさはオルト国内でも三本の指に入る程度。だが城壁を爆破してその街に侵入した際、マーナ兵を真っ先に出迎えたのはオルト兵ではなかった。

 召喚獣・『タイタン』。

 体長六十メートルの全身を岩石に覆われた巨人。体全体が溢れ出んばかりの筋肉質で、黄鉄鉱にも似た色の岩が全身に。人間の目と口に相当する部分には深い窪みがあるのみで、その目からは常に黄色の光が放出されている。マーナ兵達がミフュースを襲撃したのは月光に照らされた闇夜であった為、そのタイタンには全身に真っ黒なシルエットが重ねられていた。

 そんなタイタンが地面に巨大なその手を叩きつけると、小指球の辺りにマーナ兵だった者の肉塊がベッタリと。苺の果汁絞りの様にしてタイタンの腕を伝い、その肘から零れ落ちた血肉が地面を赤く染める。イフリートを使ったとしても余りあるその実力差を前に、ハリスは撤退の命令を余儀なくされた。そしてマーナ国へ引き返す道中のネストにて、生き残った内の約八割が魔獣に襲われ死亡、もしくは行方不明となった。


 「……分かっただろう?例え召喚獣を引き連れたとしても、生きて帰ってこれる確率は一割にも満たないんだ」

 グレアのその様な話を聞きいたエス達は言葉を失っていた。いつの間にか彼らの足も止まっており、ただ俯き無理矢理に現状を呑み込む。

 彼女の話を聞いていた所太陽がその身を徐々に隠し始め、空には陰影のグラデーションが出来上がっていた。一度赤茶色の木々が騒めくと、秋の夜風は少し冷たい。

 「あの時、疲弊し切った私達は冷静な判断を下す事が出来ず……フィリアも失った。もっとも彼女は魔獣や召喚獣に殺されたんじゃなくて、一般人に殺されたんだけどね」寂しそうなその顔にフッと笑みを溢すと、「でもまあ、悪い事だけではなかったんだ。次の要塞攻略でその成果を示すよ」


 事件はその日の夜に起こった。

 夜の暗がりに紛れ、侵入するはこの基地にある中枢の建物。それは軍事基地の中心に位置しており、その周辺を帯電した鉄格子に囲まれている。その為通常であればスライド式のゲートを通るしか内部に入る手段は無いが、まあ『こんな方法』もあると言う事だ。そのせいで姿がバレないようにと着こんだ鼠色のフード付きの服が随分と土塗れになってしまったが。それを掃いながら目指すは目的の書類が置いてあるであろう部屋。もう既に目星も付けており、その部屋の鍵も首尾良く入手している。

 その部屋に入ってみると、そこは大小様々な棚と書類で構成された迷路の様であった。扉以外の三面の壁には木製の棚があり、また床に置かれている大量の資料は天井近くまで積み上がっている。この中から目的の物を探すのは流石に骨が折れそうだが、根気良く探すとしよう。

 取り敢えず左の棚から――ここには無い。次は正面の棚――ここにも無い。今度は右の棚。ここになければ文字通り山積みになっているあそこを漁らなければならないが――あ、多分これだ。

 急いで目を通してみると、かなり私の都合の良いように事が進んだ様子だ。これ以上面倒な事は考える必要は無く、後は要塞攻略の際に計画通りに進めればだけだ。よし、ならば最後に――。

 「誰だ、お前?」

 ホッと安堵していた鼠色のフードの背後、そこから鈍いランプの光を当てながらそう呟いたのは巡回に来たマーナ兵だった。フードが顔を見られないようにそっと振り向いてみると、短い金髪の強面な男がその部屋の入口に。彼は初めの内こそ酷く怯えた表情をしていたが、しばらく待っても侵入者が何も喋ろうとしない事に痺れを切らしたのだろうか、その右手にあったランプを地面に置き両手をそのフードの人物の方に向けると、

 「フードを下ろし、両手を上げ、ゆっくりとこっちへ振り向け」

 覚悟を決めた顔でそう言った。しかしフードは何もせず、ただ顔が見えない角度でしゃがみ込んでいるのみだ。

 何なんだこの侵入者は。大方要塞攻略に関する資料を窃盗しに来たのだろうが、どうして何の意思を見せない?いや、まあその方が良い。このままこいつを縛り上げて――。

 マーナ兵がそう思考していた時には既に、そのフードは彼の元へと駆け始めていた。そして伸ばした右手をマーナ兵の胸に押し付けると、その手を中心として紫の魔法陣の様な物が徐々に浮き上がった。一つの円の外側にもう一つの円。その二つの円の間には何かの文字が。その魔法陣から放たれた光は見る見る内に大きくなっていき、それが最高潮に達した瞬間に放たれたのは真っ白な光線。ドン、と腹の底に溜まる音と共にそのマーナ兵の胸を貫いた。彼の胸にぽっかりと開いた穴を通してその奥にある廊下の窓に目を移すと、そのフードは窓を突き破り建物を抜け、どこかに姿を消してしまった。

 「これは……」

 その事件が起こった日の翌日、中枢の建物を取り囲むフェンスの内側に小柄な人がギリギリ通れる程度の大きさの穴が発見された。そしてその穴を辿っていくと、そこはエス達九十三期生達が住まう寮であったのだ。


 「事件を振り返るとこんな感じだったよね。勿論マーナ軍事基地の外から誰かが侵入してきた、と言う可能性もあるけど……まあ、この基地が如何に堅固であるかは皆も良く知っているでしょ?」

 場面は戻り会議室。その部屋は自ずと口が閉じてしまう様な空気が充満しており、目を合わせる事すらはばかられてしまう。そんな中口を開いたのは、白の髪を後ろに流して目元をキリっとさせた『フェルト』であった。

 「まあ確かに、外からスパイがやってきたと言うよりかはアイツ等の中にいると考えた方がより現実的ではあるな……でもさ、そんなにうだうだ考えなくても、そいつには隠しようの無い特徴があるだろ?」

 グレアは同調する様に頷くと、

 「うん、例の穴からは『あの召喚獣』の非常に強い残穢が確認出来たからね」その場の全員を見渡すと、「今回の事件の犯人はバハムートの継承者だ。その力を使って穴を掘り、人を殺した」

 彼女がそう言い切ると、その場には再びしばらくの間沈黙が満ちた。この事についてより詳細に話さなければならないと分かっていながらも、どうしても口を噤みたくなってしまう。そんな空気間の中、野太い溜め息をわざとらしく吐いたのはスキンヘッドの男だった。彼は褐色の肌と筋肉質な体を持っており、腕や脚の太さは流石軍人と言った所だ。そんな彼に向かってグレアは、

 「……どうしたんだい?ブーモ」

 「何だよ、お前等。さっきから『スパイ』だとか『事件の犯人』だとか遠回しな言い方をしやがって。もう分かってんだろ?今回の事件の犯人……メシアとか言う奴だろ?」

 「違う!」

 グレアはそう叫ぶと同時に両手を机に叩き付けて体を前へと。ブーモはそんな様子の彼女を冷笑するかの様にフンと笑うと、

 「何が違う?あの小さな穴を通れる程の小柄な肉体に、魔獣を操るとか言う意味不明な力。そんな良く分からない力を持ってる時点で落とすべきだって俺は言ってたんだけどな」もう一度わざとらしく溜め息を付き、「それにお前も知っているよな?マーナの民が召喚士になった時点でそいつらは固有の魔法を失う。だから召喚士が自らの正体を隠したいなら魔法を扱えないって嘘を付くしかないんだが……メシアは一般的な魔法を使えると言っていたか?」

 グレアは狼狽した顔付きを見せると、

 「……魔法は発現していないって言っていた。でもブーモ、もし自分がスパイで尚且つ魔獣を操る力があるって時、君は馬鹿正直に自らの力について喋るかな?少なくとも私はそんな事しない。隠すだろうね」

 「知らねえよ。何らかの事情があったんだろ?そもそも、九三期生の中で魔法が発現してねえ奴は三人だけなんだぞ?その中に絶対にバハムートの継承者がいる。メシアと、エスと、後は確か――」


 「アーネール……私の話、ちゃんと聞いてる?」

 その会議の翌日。グレアはいつもの六人をその会議室に呼び出して情報漏洩事件についての話をしている。アーネールを覗く五人の表情からは衝撃と驚愕、憎悪の感情を読み取れるのだが彼女だけはその話の間、どことなく心ここに在らずと言った雰囲気だったのだ。彼女はその様なぼんやりとした顔をサッと真剣な物に直すと、

 「え……ああ、すみません。最近あんまり眠れてなくて……オルトのスパイがマーナ軍事基地中枢に侵入してきたんですよね」

 「ああ、そうだ。俺とメシアの住処を焼き払ったバハムートの継承者が、俺達の中にいるって事だ。多分、俺達の事を追ってきたんだろうな」

 そう話に割り込んできたのはエス。彼は淡々とした口調でそう言ったが、その胸の奥で燃え滾る深い憎悪と殺意の感情が彼の顔から明らかに見て取れた。グレアは皆の頭にぼんやりと浮かんでいるであろう疑問を見透かしたかの様にして口を開いた。

 「言っておくけど作戦の中止はしないからね。作戦の一部の変更はするけど、要塞攻略を行うこと自体は決定事項だから。この進撃にはマーナ軍の未来が掛かっているんだよ」

 本当に大丈夫なのだろうか?もしかしたらオルト軍にはもう全てが筒抜けなのではないのだろうか――?

 グレアの発言を以てしても、いや、彼女の発言があったからこそ皆の中にあった漠然とした不安が少しずつ巨大になっていった気がした。グレアはその場の空気を取り繕う様な上辺の言葉を幾つか口にしたが、その様な物は彼らの片方の耳からもう片方の耳へと通り抜けていってしまった。

 情報共有が終わった後、エスがその部屋のカーテンと窓を開けた時に覗かせた空模様は、正直に言って相当悪い物であった。空全体がどんよりとした陰鬱で重鈍な雲で満たされており、今にも天から涙が降り出してきそうだ。


 重たい煙の様な空模様は、要塞攻略決行時も同様であった。

 最悪な天気を見上げるエス。彼から少し離れた位置にある丁度良いサイズの岩に腰掛けるアーネール。そんな二人を遠くの木にもたれ掛かりながら監視しているブーモ。九三期生二人とその上官一人がグループを組み、要塞を見守ると言うのが彼らに課せられたミッションだったのだ。

 三人がいる場所はアトラス要塞の隣に位置するなだらかな丘の中腹部分。そこからでも十分に要塞内で起こっている事は手に取る様に分かる。アトラス要塞は周辺を城壁に囲まれており、大きさは彼らがいる地点から余裕で一望できる程度。その要塞の内部では鉄製の鉄骨が複雑に入り乱れており、工場地帯の様にも子供用の迷路の様にも見えてくる。定期的に赤く点滅するライトを側面に付けた建物に、その煙突からモクモクと湧き出る煙。今の所グレア達はまだ作戦の実行段階に入っていないのだろうか、何の動きも見て取る事が出来ない。

 もしこのまま永遠に何も起こらなければ、自分達は永遠にここにいる事になるのだろうか――等とどうでも良い事をぼんやと考えていたエス。そんな彼に向かって、アーネールは語り掛けた。

 「エスはまだ……」

 彼女の言葉は不意にそこで途切れてしまった。と言うのも、彼女はその場の中で最も緊張していたからだ。アーネールは俯いたまま両手を互いに組んで岩に座っているが、その手は酷く震えており、膝もそれと共鳴するかの様にして僅かに振動している。彼女の先の発言は非常に早口で、その事から彼女の唇も自分ではどうしようもない程に震えているのであろう事は、アーネールが俯いたままでも分かった。彼女は一度大きく息を吐くと今度はゆっくりとした口調で、

 「……エスはまだ、自分の家族を探しているの?」

 そう言われた時になって、彼女が話しかけているのは自分である事にエスはやっと気が付いた様子だ。彼は彼女の方に振り返ると、イマイチ要点が掴めないと言いたげな口調で、

 「ああ、そりゃな。と言ってもこの三年間で何の手掛かりも手に入らなかったけどな……」

 「エスはまだ、バハムートの召喚士の事を殺したい程に憎く思っているの?」

間髪入れずにそう言ったアーネール。エスは彼女が何を言いたいのか分からない事に対して僅かにイラつくと、彼の頭がズキズキと鳴り始めた。彼はそんな感情をアーネールにはぶつけたくなかったのだろうが、それでも若干強い語り口で、

 「まあ、そうだよ。なあアーネール、俺は今そんな事を話す気分じゃ――」

 「じゃあさ、あなたの探している人とあなたの憎んでいる人がもし同一人物だったら、あなたはどうする?」

 それでも話を止めようとしないアーネール。彼の脳内を這い回る頭痛も大きくなり、エスの中の彼女に対する感情が明確に強くなった。このままではいけない。エスは一度、大きく深呼吸をして彼女に語り掛けた。

 「……アーネール、申し訳ないけど、俺は今そんな馬鹿げた話をする気分じゃないんだ」

 『馬鹿げた話』。エスがそう言った時、俯いたままのアーネールの瞳がハッと開かれた。彼女の両手の震えはいつの間にか止まっており、何が可笑しかったのだろうか、彼女はクックックッと気味の悪い笑みを溢すと、

 「馬鹿げた話か……フフッ、そうだよね。馬鹿げてるよね。そう思うよね……」

 エスとアーネールの間をゆっくりとした温い風が通り過ぎると、アーネールの髪が揺れだした。ゆらり、ゆらり、と。彼女は未だに笑っているのだろうか、その肩は小刻み震え続けている。先程エスとアーネールの間を通り抜けた風が周りの木々に移動した様で、彼らもアーネールの様に枝葉をゆらりと揺らしている。笑うアーネールに、嗤う木々。

 「……だから何言ってるんだよ……」

 エスは怒りを通り過ぎて半ば呆れた様な口調でそう言うと、再び要塞の監視を始めた。

 未だに小さな動き一つ見て取る事が出来ず、煙突から湧き出る煙を除いて時が止まった様にも見える要塞。いい加減動きの一つでもあれば、この感情もいつの間にかどこかに飛んでいくのだろうが――そう思ったエスの後ろ。そこでアーネールは遂に笑う事を止めたのだろう。その肩の揺れがスッとなくなった。

 そして――。

 「私がバハムートの召喚士であなたのお姉ちゃんなの」

 アーネールが確固たる口調でそう言った。

彼女はそう言うと徐に立ち上がったその傍ら、その言葉を聞いた瞬間彼女に向かって走り出したのはブーモ。彼の右手にはナイフが握られており、何をしようとしているのかは一目瞭然だ。ブーモは彼女の目の前に来ると同時に身を屈み、そのナイフで狙うは彼女の顎下。一秒後にはアーネールの命を終わらせているかもしれないブーモに向かって、彼女が選択した行動は至極簡潔な物であった――彼の顔を鷲掴み、光線を放つ。その光線が放たれる直前の彼の顔面には、バハムートが光線を放つ直前に出現する紋様が浮き上がっており、そこから放たれたのはバハムートの光線と全く同じ色と音をした魔法。

 「……は?」

 首から上を失い、どさりと地面に落とされたブーモだった物体。体全体に何の力も入っておらず、両肩の間からは壊れたポンプの様に真っ赤な液体が噴き出ている。

 「アー……ネール……?」

 立ち尽くし、ただひたすらに困惑しているエスの横をゆっくりと通り抜け、アーネールが見つめるはアトラス要塞。彼女はそれを見て何を思ったのだろうか、十秒程たっぷりと無表情に見つめると、徐に人差し指を要塞の方に向けた。

 「ねえ、バハムート、あの要塞を破壊して」

 そう発言したアーネールの口調は、先程よりも更に確固とした物であった。

 どんよりとした雲に、生暖かい風。要塞から連続的に湧き出る煙に、息を呑み二人の動向を見守る木々。二人のすぐ近くで血の水溜まりを作り続ける死体に、定規を引いたかの様にしてキッパリと割れ始めた雲。その隙間から漏れ出る神聖な光に、それに紛れて降臨してくるそのドラゴン。体中にびっしりと生えた紫色の鱗に、巨大なフォルム。長くて鋭い尻尾に、背中から生え出る二枚の大きな翼。鋭利な爪牙を携えたその両脚に、自らの胸でクロスに組まれたその両腕。ある程度の高度まで降下すると遂に開いたその口に、その奥から溢れ出る眩い光。その口の周りに浮き上がる円形の紋様に、そこを通って放たれた光線。光の柱の中に包まれるアトラス要塞に、その後に遅れてやってくる頭の中で何度も聞いた爆撃音。未だに茫然とするエスに、そんな彼の顔を真っ赤に照らす要塞の熱。

 「……もう一度言うね」

 今現在、ほんの瞬きの直前までアトラス要塞の形を成していた瓦礫の集合体を取り囲んでいるのは、真っ赤に燃え盛る炎。真っ黒な煙がそこら中から湧き上がり、要塞から遠くにいるはずのエスの耳元にまで悲鳴が聞こえてくる。エスが口をポカンと開けてその光景に見入っていると、要塞からの灼熱で顔面が溶け出してしまいそうに熱い。今にも張り裂けんばかりに心臓が暴れ回り、顔中を汗が覆う。

 「私がバハムートの召喚士で、あなたのお姉ちゃんなの」

 炎に塗れたアトラス要塞。その光景を見てエスの脳内にフラッシュバックするは、三年前のあの時の記憶と感情。何も出来ずに逃げ回る事しか出来なかったあの日の少年の、悲痛な叫びと行き場のない憎悪。今、エスの胸の内であの瞬間の感情が、これ以上無い程の鮮度を持って再び回帰してきた。

 唐突に自らの正体を現したアーネール。ただひたすらに困惑するエス。彼ら二人の間にバハムートがドスンと降下し、周囲に舞い散る土埃。アーネールがバハムートの体に手を伸ばすと、二人の間にバチッと電気の様な物が一瞬走ったが、エスはその事に疑問を持てる程冷静ではなかった。

 燃え盛る炎。崩れ落ちる瓦礫。

 ぶっ殺してやる。全員、全員この手で。エスの中でその様などす黒い声が聞こえてきた時には、彼はアーネールに向かって駆けていた。両の手で握り締める剣の力が彼女に近づくにつれて増していき、そして――。

 バハムートのうめき声が、辺りに木霊した。

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