第33話 境からの刺客
2000年5月。強志の部屋には、潮の匂いが染み付いた沖縄土産の貝殻と、使い古されたノート、そして埃をかぶった尾崎豊のCDが乱雑に置かれていた。高校卒業が目前に迫り、彼の心は作家になるという新たな夢と、未解決の過去の影との間で揺れ動いていた。
あの年の流行語大賞は、まるでこの時代の縮図のようだった。「おっはー」という軽快な挨拶がテレビから聞こえる傍らで、IT革命という言葉が、まるで未来の扉を開く呪文のように囁かれていた。強志は、ノートに綴る自分の物語を、いつかインターネットという新たな媒体に乗せて発信できる日が来るのだろうかと、漠然とした期待を抱いた。
シドニーオリンピックでQちゃんが金メダルを獲った時、日本中が熱狂した。常総学院の生徒たちも、クラスの誰もがその偉業に胸を熱くした。犬上は、テレビに映る小出監督の指導風景を食い入るように見つめ、技術教師という自身の夢を一層強く意識していた。彼の目には、Qちゃんの走りが、単なる勝利ではなく、緻密な計画とたゆまぬ努力の結晶として映っていたに違いない。
しかし、光ばかりの年ではなかった。**「官」対「民」**という言葉が象徴するように、社会の軋轢は強志のすぐそばにも存在していた。佐貫先生の死、そして「霞ヶ浦レクイエム」との因縁は、強志の心に暗い影を落としていた。正義感の強い教師が、なぜあんな形で命を落とさなければならなかったのか。それは、彼のノートに、まだ答えの見つからない問いとして残されていた。
そして、最も強志を苦しめたのは、**「一七歳」**という言葉が持つ重みだった。彼が赤堀龍二と対峙した時、そして沖縄で武装集団に襲われた時、暴力は常に彼の「17歳」という年齢と隣り合わせにあった。社会が「少年犯罪」という言葉で括ろうとするその闇は、強志自身の心の中にも、薄皮一枚隔てた場所に潜んでいるように感じられた。彼は、その闇を、そしてそれと戦う「自分」という存在を、作家としてどう描けばいいのか、日々模索していた。
友人の女子生徒たちは、放課後になると楽しそうにパラパラを踊り、厚底ブーツやヘアーエクステンションで着飾っていた。雑誌「S Cawaii!」が創刊され、高校を卒業した「オネギャル」たちが新しい時代のアイコンとして輝いていた。一方で、ユニクロのフリースが爆発的に流行し、誰もが気軽にファッションを楽しめるようになった。強志の愛車である**《ハリケーンGX》**も、犬上の手で修理され、今や強志の青春の象徴となっていた。
強志は、そんな時代の空気をノートに書き留めた。ファッション、音楽、社会情勢。全てが、彼が描こうとする物語の血肉となる。彼は、単なる事件の羅列ではなく、その時代を生きた人々の息遣いを、感情を、そして「17歳」という季節特有の危うさと希望を、自身の言葉で紡ぎたかった。
窓から差し込む5月の柔らかな光が、強志のノートを照らす。彼の指は、新しいページの冒頭で止まっていた。そこには、まだ題名も、最初の言葉も記されていなかったが、彼の心の中には、確かな物語の萌芽が息づいていた。
2000年5月。強志が、来るべき物語の始まりに思いを馳せていた、まさにその日のことだった。放課後の常総学院は、部活動に励む生徒たちの活気と、帰宅を急ぐ生徒たちのざわめきに満ちていた。強志は、犬上と校門を出たところで、異様な空気に気づいた。
普段はスクールバスや保護者の車が並ぶロータリーに、見慣れないバイクや改造された車が何台も停まっている。その周囲には、いかにもといった風体の男たちがたむろしていた。彼らの顔には刺青が見え隠れし、中には明らかに周囲を威嚇するような視線を向ける者もいる。
「おい、あれ……
境町は、常総学院から少し離れた町だが、昔から不良たちの間で勢力争いが絶えない場所として知られていた。まさか、それが常総学院にまで乗り込んでくるなど、前代未聞の事態だった。
異変に気づいた生徒たちが、次々と足を止める。校門付近にはあっという間に人だかりができ、緊張感が空気中に充満していく。そんな中、一台のセダンから、ひときわ大柄な男が降りてきた。全身に派手な刺青を入れ、眼光鋭いその男は、見るからにただ者ではない雰囲気を纏っていた。
「おい、常総学院のチビども!ちょっとツラ貸せや!」
男の咆哮が、静まりかえった校庭に響き渡った。数人の生徒が怯んで後ずさりする。しかし、強志は、その男の顔に、見覚えのある憎悪の影がちらつくのを感じた。
「……まさか、赤堀?」
強志は小さく呟いた。
男は、赤堀ではない。しかし、その背後に控える男たちの顔の中には、南栗橋の空き工場で見た幸手ファントムズのメンバーが混じっているようだった。
そして、その中に、土浦で強志を嘲笑した霞ヶ浦レクイエムの連中の姿も見える。彼らは、手にそれぞれ得物を構えていた。煌めく角材、鈍く光る鉄パイプ、そして、見るからに危険なメリケンサック。
「おい、犬上……」強志の声が震えた。
「やべぇよ、強志。これは……」犬上も顔を青ざめさせている。
強志は、胸の奥底で、かつてないほどの怒りが燃え上がるのを感じた。赤堀が、直接ではないにしろ、またしても自分たちの日常を脅かしに来たのだ。しかも、今度は境の不良たちまで引き連れて。
「お前ら、何の用だ!学校で騒ぎを起こすつもりか!」
教師たちが駆けつけ、境の不良たちと対峙する。しかし、その数と迫力に、教師たちも気圧されているようだった。
強志は、一歩、また一歩と、境の不良たちに近づいていく。犬上が慌てて彼の腕を掴んだ。「やめろ強志!無茶だ!」
しかし、強志の目は、まっすぐに境の不良たちを見据えていた。彼の脳裏には、沖縄での銃声、土浦での屈辱、佐貫先生の死がフラッシュバックする。これまでの全てが、この瞬間に繋がっているような気がした。
「……赤堀、どこだ……!」強志は、地面に響き渡る声で叫んだ。
境の不良たちの間で、ざわめきが起こる。先ほどの大柄な男が、強志の前に立ちはだかった。
「なんだ、チビ。俺が相手してやるよ」男がニヤリと笑い、手に持った鉄パイプをゆっくりと構えた。
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