第31話 四面楚歌
2000年5月。
強志は、高校の卒業を間近に控え、進路に悩んでいた。沖縄での出来事以来、彼は日記をつけ始め、自分の見たもの、感じたことを文字に起こす習慣がついていた。あの修学旅行での「敵襲」は、結局、一部の過激派によるものと報じられたが、その背後にある真の意図や、赤堀との繋がりは闇の中に葬られたままだった。しかし、強志の心には、あの時の恐怖と、それを乗り越えて「言葉」で世界を表現したいという強い衝動が、深く刻み込まれていた。
ある日の放課後、強志は図書館の片隅で、静かにノートに向かっていた。彼のノートには、沖縄での銃声、土浦での屈辱、そして南栗橋でのデモの様子が、彼自身の言葉で綴られていた。それは、単なる記録ではなく、彼の内面で渦巻く感情や問いかけが、生々しく表現されたものだった。
「何書いてんだ、強志?」
声をかけてきたのは、犬上だった。彼は手に技術科の教科書を持ち、少し疲れたような顔をしている。技術教師を目指す犬上は、放課後も熱心に勉強を続けていた。
「別に……ただ、思ったことを書いてるだけだよ」 強志は、ノートを隠すように閉じた。
犬上は、強志の様子を見て、どこか察したように微笑んだ。「そうか。でもさ、お前、最近顔つきが変わったよな。なんか、前よりもっと、ちゃんと自分のこと考えてるって感じ」
強志は少し照れたように笑った。「そうかな。でも、犬上もな。技術教師の夢、本気なんだな」
「当たり前だろ。お前が作家になるなら、俺は教師になって、お前みたいな変な奴らを量産してやるよ」犬上は冗談めかして言ったが、その瞳の奥には、確固たる決意が宿っていた。
その夜、強志は自室で、再びノートを開いた。沖縄での出来事を書き終えた後、彼はふと、あの土浦での屈辱的な記憶を呼び起こした。徳川家康と笑われたあの瞬間。羞恥と怒りが込み上げてくる。しかし、今回は、その感情をただ吐き出すだけでなく、 なぜ自分がそのような状況に陥ったのか、そしてそこから何を学ぶべきなのかを、冷静に分析しようと試みた。
ペンを走らせるうちに、強志は気づいた。あの時の恐怖は、確かに彼の心を深く傷つけたが、同時に、彼に「弱さ」と向き合う機会を与えてくれたのだと。そして、その弱さを知ることで、彼は他者の痛みや葛藤に、より深く共感できるようになった気がした。
「……これが、俺の書くべきものなのかもしれない」
強志は、自分の内側から湧き上がる衝動に導かれるように、ペンを走らせ続けた。それは、単なる事件の記録ではない。彼自身の成長の軌跡であり、混沌とした世界の中で、彼が見つけた「光」の物語だった。
窓の外では、新緑が風に揺れている。2000年5月の柔らかな日差しが、強志のノートを優しく照らしていた。彼の作家としての第一歩は、この静かな夜に、確かに踏み出されたのだった。
2000年5月に起きた主な出来事を、日本国内と海外の両方から紹介する。
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🇯🇵 日本国内の主な出来事(2000年5月)
● 有珠山が再噴火(継続中)
背景:3月末から続いていた有珠山の噴火は5月も活動を継続しており、住民の避難生活も長期化。
影響:道路・鉄道の寸断、観光産業に打撃。
● 郵便番号7桁化の周知強化
概要:1998年に始まった郵便番号の7桁化が本格定着期に入り、5月は総務庁が改めて全国的な広報を実施。
● 衆議院解散への動きが加速
背景:森喜朗首相体制が不安定で、与党内でも不満が高まりつつあり、6月の衆議院総選挙(実際には6月25日実施)に向けた動きが水面下で始まる。
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🌍 世界の主な出来事(2000年5月)
● プーチン大統領が正式就任(ロシア)
日付:5月7日
概要:ウラジーミル・プーチンがエリツィン後継としてロシア大統領に正式就任。
● イギリス・ロンドンで市長選(初)
日付:5月4日
概要:ロンドン市長職が創設され、ケン・リビングストンが初代市長に選出。
● 南北首脳会談の準備(朝鮮半島)
概要:南北朝鮮が6月の歴史的な首脳会談(6月13日)に向けて交渉を加速。5月は具体的な準備段階に。
その翌週、強志は進路指導室の前で立ち尽くしていた。廊下の壁には、進学・就職に関する案内がずらりと並んでいる。だが彼の目には、どの選択肢もぼんやりとしか映らなかった。
教室に戻ると、数学の補習が始まっていた。担当は、小柄で丸メガネの中野教諭。黒板に数式がずらりと並ぶ中、強志のノートには“√”や“Σ”の記号が、まるで異国の文字のように並べられていた。
「ここまでは分かるか?」
中野がふと目をやる。強志はうなずいたふりをして、視線をそらした。
(……やっぱり、俺には向いてないのかもしれない)
数学や物理は、どうしても身体に馴染まなかった。理屈では分かる。だが、その「法則」を実感できない。数字が感情を持たないことが、逆に不安だった。
放課後、犬上がまた声をかけてきた。
「お前、補習中ずっと難しい顔してたな。物理、苦手だろ?」
「バレたか。いや……なんかさ、正解があるっていうのが、苦手なんだよ」
「逆じゃねぇの? 正解がある方が楽じゃん」
「でも俺、正解より、“何を考えたか”を書きたいのかもな」
犬上は少し考えてから、ポンと肩を叩いた。 「じゃあお前、正解がなくてもいい世界を選べばいいじゃん。文章ってそうだろ? “式”じゃなくて“詩”を書くんだよ、お前は」
その言葉に、強志の胸の奥で何かがかすかに震えた。
その夜、自室で強志はふたたびノートを開く。 物理の教科書を脇に置いたまま、ペンを走らせる。
《速度や加速度のことよりも、人の心の動きのほうが、よほど予測できない。
だけどその分、書き甲斐がある。
言葉は自由だ。式よりも不確かで、でも、だからこそ俺にとって意味がある。
この混沌の中で、書くことでしか立っていられない人間がいたっていいじゃないか》
ページの端にふと書き添えた。
「正解のない世界で、生きていく」
高校生活の終わりが見えてきた5月の夜。
有珠山のニュースは連日テレビで流れ、煙を上げる火山の映像が、不安定な時代の空気を象徴していた。衆議院選挙の噂、ロシアの新しい大統領、朝鮮半島の緊張と期待――すべてが遠くで起きているようで、どこかで強志の人生にも影を落としているような気がした。
(この世界は、言葉で切り取るに値する)
そんな確信だけが、彼の心の中にあった。
外では、季節外れの風がカーテンを揺らしている。
ノートのページが、音もなくめくられた。強志の“まだ書かれていない物語”が、そこに広がっていた。
了解です。以下に続きを描きます。
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数日後――。
強志は、ひどい咳と寒気で布団にくるまっていた。微熱だと思っていた症状はどんどん悪化し、学校を休んだ三日目、医者から「インフルエンザA型だね」と告げられた。
(何だよ、今さら……)
卒業を控えたこの時期に、まるで何かに取り憑かれたかのように体が言うことを聞かなくなる。外では五月晴れの空の下、友人たちが進路や将来について話しているはずなのに、自分だけ取り残されたような気がして、心細かった。
熱に浮かされながら、彼は布団の中でノートを抱えた。
《身体が壊れると、心も脆くなる。だが、そういう時こそ本音が出る。 “何になりたいか”じゃない。“どう生きたいか”だ。》
そんな一文を書き留めると、彼はそのまま眠りに落ちた。
*
回復後、強志は自動車学校に通い始めた。
親からは「大学行かないなら、せめて免許くらい取れ」と言われていたし、友人の犬上からも「書くにしても、移動手段は必要だろ」と半ば強引に背中を押された。
しかし――思った以上に難しかった。
学科の問題は「ちゃんと読めばわかる」と言われたが、交通標識の形すらごっちゃになる。実技では、クラッチ操作でエンストを繰り返し、教官に眉をひそめられた。
「お前、文系ってやつか?」
助手席の教官にそう言われたとき、強志は苦笑いを浮かべながら答えた。
「……たぶん、そっち側の人間っす」
(アクセルとブレーキのどっち踏んでいいか迷うって、人生みたいだな)
教習所の帰り道、自転車を押しながら夕暮れの道を歩く。水田に映る夕日がオレンジ色に揺れていて、少し肌寒い風が頬をなでた。
道の脇では、田植えを終えたばかりの苗が、まだ頼りなく風に揺れている。
強志は立ち止まり、思わずメモ帳を取り出した。
《踏み出したばかりの苗は、風に倒されやすい。
でも、根を張れば強くなる。
俺の根は、言葉なんだと思う。》
その夜、帰宅してから久しぶりに日記を開いた。インフルエンザで中断していたページをめくると、そこには荒い文字で「風邪」とだけ書かれていた。
強志はその文字をなぞるように指で撫で、ゆっくりと書き始めた。
《病んで、焦って、笑われて、それでも書きたくなる衝動は、どこから来るのだろう。
俺はまだ、「何者」にもなれていない。
だけど、「誰かのようになりたい」とも思わない。
俺は俺を、書いていくんだ。》
小さな卓上ランプの光の下で、文字が静かに紙の上に降りていく。
有珠山のニュースは相変わらず流れ続け、世界は大きく揺れ動いている。けれどこの小さな部屋の中では、ただ一人の少年が、まだ答えのない問いに向かって、静かに「言葉」で歩き出していた。
彼の物語は、まだ始まったばかりだった。
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