第10話 現実を変える番だ
そして後に、彼の撮った1枚の写真が、ある殺人事件の発端となる。
小池強志。かつて部垂の劣等生。後に“焼き印の記録者(レコーダー)”と恐れられる渋谷ギャングの伝説が、今、始まろうとしていた。
彼の指先が、錆びたシャッターボタンを押し込んだ瞬間、渋谷の路地裏に潜む闇が、鮮明な光景として切り取られた。それは、ただのストリートスナップではなかった。そこには、うずくまるように倒れた男の姿と、その手首に深く刻まれた、不気味な焼印が写し出されていたのだ。
その夜、強志はいつものように、スクラップブックに写真を貼り付けていた。彼の部屋は、雑多な情報と写真で埋め尽くされ、まるで秘密の資料室のようだった。しかし、この一枚は、他のどの写真とも異なる、異様なまでの重みを放っていた。翌朝、ニュース速報が、昨夜渋谷で発生した殺人事件を報じた。被害者の特徴が、写真に写っていた男と完全に一致する。
強志の心臓が、ドクンと大きく鳴った。彼は、偶然にも事件の核心を捉えてしまったのだ。警察の捜査は難航し、事件は迷宮入りかと思われた。しかし、強志の持つ写真が、事態を一変させる。彼は、自分の写真が持つ意味と、それが渋谷の裏社会に深く根差す「焼き印」の存在を明るみに出す可能性を悟る。
最初は恐れと戸惑いだけだった。だが、彼の内にある記録者(レコーダー)としての本能が、彼を突き動かした。この写真を公開すれば、自分の身が危険に晒されることは明白だ。しかし、この真実を闇に葬ることは、彼にはできなかった。
彼は決意した。この「焼き印」の真実を追い、記録すること。それが、彼自身の存在意義となるのだと。渋谷の裏路地を舞台に、小池強志という名の伝説が、いま、静かに幕を開けようとしていた。彼の一挙手一投足が、この街の深淵を暴き出し、そして、彼自身を“焼き印の記録者”へと変貌させていく。
――1998年、夏の終わり。常総学園高校。
朝の読書の時間。教室は蝉の鳴き声が遠く聞こえる静寂に包まれていた。
小池強志は、一冊の文庫本を読んでいた。
『スローカーブを、もう一球』――山際淳司。
野球と人生を描いた名作。彼の中で、この本の世界はリアルで、痛みと優しさに満ちていた。
だが、その表紙には、出版社の試みでアニメ風にデザインされたキャラクターのイラストが描かれていた。小池にはどうでもいいことだった。内容がすべてだった。
そこに、担任の佐貫が現れた。五十手前の古い価値観の男。学ランを強要し、頭髪検査を毎月のように行う“生きた昭和”。
「小池、お前……それ、なんだ?」
「え……? 山際淳司のノンフィクションですけど」
「ふざけるなッ! アニメじゃないかこれは!」
「……違います。野球の話で――」
バッ
佐貫の手が本をつかんで奪い取った。パラパラとページをめくり、彼は「くだらん」と吐き捨てた。
「お前みたいなやつがいるから、部垂はバカにされるんだよ。読書の時間に“漫画”読むとはな。親に連絡するからな」
佐貫も小池と同じ、部垂出身なのだ。
その瞬間、小池の中で何かがプツンと切れた。
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読書の時間の終わり。現実は流れていた。
だが小池の脳内では、別の教室が始まっていた。
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妄想の中――
教室の蛍光灯がバチバチと明滅する。
佐貫の机の上に、没収された本がポツンと置かれている。
小池はゆっくりと立ち上がり、机の引き出しから銀色のナイフを取り出した。
「先生……」
佐貫が振り返る。小池の姿に息をのむ。だがもう遅い。
「もう一球、投げさせてやれよ」
ザシュ――!
ナイフが担任の胸を深く裂く。血が、教室の床に文字を描くように広がっていく。
> 【部垂をバカにするな】
佐貫は机にもたれかかるように崩れ落ち、その目は最後まで理解できないという色をたたえていた。
小池は、ゆっくりと没収された本を拾い、そっと表紙を撫でた。
「俺にとっては、これが聖書だったんだよ」
---
現実に戻る。
小池はただ黙って席に座っていた。
佐貫はその本を職員室へ持ち去り、小池の机の上には、白い紙が一枚。**「反省文、明日提出」**と殴り書きされていた。
小池はゆっくりとペンを取った。
しかしその紙に書かれたのは反省文ではなかった。
> 「次は、現実を変える番だ。」
彼の中で、ナイフとカメラと文字が、静かに融合し始めていた――
“言葉で殺す”、という新たな武器が、彼の中で芽生えつつあった。
そしてその週末、小池強志は再び渋谷へ向かう。
今度はナイフではなく、「物語」を携えて。
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