第八部

今度は……俺が攻撃される番か。

「“察しがいい”から、いないんだよ。」

「それとも――人を見抜きすぎて、チャレンジする気すら失ったんじゃないですか?」

「……かもしれないな。」

彼女は、コーヒーを淹れ終えると、反対側のソファに――座った。

「あるいは――」

彼女は言葉を続けた。

「頭の中が、理論と不安でいっぱいすぎて……

それを理解してくれる誰かが、現れないだけじゃないですか?」

「君、精神科医でも目指してるのか、出原さん?」

「うん、もしそうなら――一番最初の患者は、絶対に先輩ですよ。」

……やられた。

彼女の言葉は、いつもそうだ。

まるで――ツボを正確に突いてくる狙撃手のように、ど真ん中に刺さる。

「君だって、そんなに俺と変わらないだろ。」

少しだけ反撃のつもりで言ってみたが……言った瞬間、

自分でも“言い訳”にしか聞こえなかった。

出原はただ、ふっと――微笑んだ。

その笑みは薄く、無駄のないものだった。

まるで、「認めてるようで、でも何かはまだ隠している」

……そんな曖昧な境界線に浮かぶ笑顔。

彼女はそのままキッチンへ向かい、コーヒーの準備に取りかかった。

もちろん、ボタンひとつの自動マシンなんかじゃない。

手挽きミルに、フレンチプレス、小型エスプレッソマシン、

さらには……温度計まで揃っていた。

……なんだこの装備は。

カフェ開く気か?

俺は、ジャケットを脱いだ。

リラックスしたいからじゃない。

ただ、少し……暑く感じたからだ。

いや、たぶん――緊張、だろうな。

体温が上がっていく……感覚。

だが、それはサーモスタットのせいではなかった。

彼女がコーヒーを準備している間、

スマホで……何かを素早く入力していた。

一瞬だけ、スッと画面に集中して打ち込んでいたその動きは――

SNSを眺めている感じではなかった。

……あれは、命令を送ってるような所作だった。

数分後、彼女は戻ってきた。

手には――二杯の温かいコーヒー。

そして、なぜか……

対面のソファでも、隣のソファでもなく――

俺の隣に、すっと腰を下ろした。

「お待たせしました。」

「いや……大丈夫。」

落ち着いてるフリをしながら、返す。

コーヒーを――一口。

苦味は……柔らかく、後からほんのりと甘みが追ってくる。

その温かさは、まるで――今夜の会話のように、

ゆっくりと体の内側に……染み込んでいく。

「どうですか? 味は。」

「……驚いた。

ワインっぽさと、キャラメルみたいな甘さがある。

こんな味……初めてだ。」

「ふふ、それもそのはず。

これは、“ヘレナ・コーヒー”ですから。」

その言葉を聞いた瞬間――

俺の身体は……ピンと強張った。

ヘレナ・コーヒー。

パナマ産の、超希少種。

極めて限定的な流通と、とんでもない価格で知られる――幻のコーヒー。

……一杯で、俺の家の家賃二ヶ月分は飛ぶ。

「君、なんで……こんな高いコーヒーを持ってるんだ?」

「それは、重要じゃないですよ、先輩。」

彼女は軽くそう言い、ふと――玄関の方を見やった。

「だって……」

ピンポーン。

チャイムが――鳴った。

彼女はすぐに立ち上がり、ドアを開けた。

一瞬だけ見えたのは……制服姿の男性。

セキュリティか、コンシェルジュか――判別できなかった。

何かを受け取り、すぐにドアを閉め、

彼女はそのまま……俺の方へ戻ってきた。

手には、着替えが入った袋。

「先輩はね、私が初めて部屋に連れてきた男なんですよ。

だから――シャワー浴びて、この服に着替えてから続きをしましょう。」

そう言って渡されたそれは……ただのパジャマじゃない。

どう見ても――高級ブランドのラウンジウェア。

……下手すれば、俺の部署の年間ボーナスより高いかもしれない。

俺はそれを見つめたまま……

“質問すべきか”、それとも“ベランダから逃げるか”――真剣に迷っていた。

「でも……本当にいいのか?」

そう聞くと、彼女の目が……わずかに細くなった。

その声は、静かで……でも研ぎ澄まされた刃のように――鋭かった。

「先輩。私の言葉……まだ“分かりにくかった”ですか?」

その瞬間――彼女の笑顔が浮かんだ。

数秒間、普通の男なら思考を停止するレベルの……“破壊力”を持つ微笑み。

俺はすぐに着替えを持ち上げて、浴室へ向かった。

怖かったわけじゃない。

……いや、少しは怖かったかもしれない。

扉を閉めた瞬間、まるで――別世界に来たような感覚に包まれた。

浴室の床は……床暖房付き。

シャワーには、俺の車のダッシュボードより――多いボタンが並んでいる。

ボディソープに至っては、もう“香り付きの液体”というより……

別の惑星から届いた合成アロマのような感触。

これを使ってるだけで……

自分の価値が、2ランクくらい上がったような錯覚さえした。

そこで、俺は――はっきりと理解した。

金持ちの「贅沢」とは、物の価値ではない。

それは……“現実のつましさ”を忘れさせるほどの、快適さそのものだ。

シャワーを終え、彼女から渡されたラウンジウェアに袖を通す。

生地は柔らかく、温かく……まるで空気すらも味方にしてくれているようだった。

一晩だけで、こんなにも快適な衣服を着られるのなら――

十年働いてきた自分の人生にさえ、ちょっと……文句を言いたくなった。

リビングへ戻ると、迎えてくれた光景は――

申し訳ないが、下手な世界経済危機のニュースよりも……危険なものだった。

伊豆原は……すでに着替えを済ませていた。

深い色の――シルクのナイトドレス。

脚を優雅に組み、ソファに腰掛けている。

薄く光を反射するその生地の上には……

視線のオートフォーカスが壊れたかのように――

どうしても戻ってしまう、「二つの山」。

彼女は、膝の上に開かれたノートパソコンを操作していた。

画面には……どう見ても、国家財政に関するデータの数々。

そして――俺の気配に気づくと、にやりと……

小悪魔のような笑みを浮かべて、こちらを見る。

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