第七部

「……もうすぐ真夜中ですね。」

出原は、ふわりと立ち上がりながらそう呟いた。

「うちに泊まっていきませんか、先輩?」

「――え?」

その言葉を、頭の中で何度も再生した。

だが……毎回、結果は“エラー”だった。

「そんなに遠くないですよ。歩いてすぐです。」

「いや、俺なら……漫画喫茶かカプセルホテルにでも――」

それは、ただの自動反応だった。

断っているつもりも、受け入れているつもりもなかった。

ただ……“今、自分が何に巻き込まれているのか”

思考が、追いついていなかっただけだ。

――だが。

その言葉は、最後まで言い切る暇すらなかった。

「先輩、強制ですから。」

彼女は、囁くようにそう言いながら、

ゆっくりと俺のシャツの襟を――掴んだ。

……力強くはない。

……荒っぽくもない。

けれど、その動きの中にはどこか、

“国債の笑顔付き圧力”に似た空気があった。

目が合った。

そこに、“何か”を見た。

それは――危険だった。

長年、会社のルーチンと決算報告で麻痺していた俺の潜在的危機感が、

その一瞬だけ、久しぶりに――アラームを鳴らした。

「……わかった。でも、職場の人に見られないようにしてくれよ。」

「うふふ、大丈夫ですよ。

それに先輩の人生、もうすぐ――変わりますから。」

その笑い声は、甘くて綺麗だった。

だが同時に、背筋をくすぐるような――冷たさを含んでいた。

正直……今夜に何を期待しているのか、

……自分でも、分からなかった。

もしかしたら――

普通のワンルームかと思っていた。

インスタントラーメンの残り香と、

天井からぽたぽたと水を垂らす古いエアコン。

そんな光景を、勝手に想像していた。

でも――

出原真澄という“ファイル名不明のデータ構造”を

見くびった俺が……甘かったのかもしれない。

だが、それは――見事に裏切られた。

「先輩、着きましたよ。

あとは……このタワーに入るだけです。」

出原が指差した先には――

高層のタワーマンションがそびえ立っていた。

社内のランチタイムでよく耳にする、“冗談の定番物件”。

『宝くじ当たったら、あそこ住みたいよな』というやつだ。

俺は、そのビルを見た。

そして、出原を見た。

それから――もう一度、ビルを見た。

……世界が一瞬フリーズしたような感覚。

現実というブラウザを――リフレッシュしたくなった。

「冗談だろ?

ここって、東京でも屈指の……高級マンションじゃないか。

新人の君が――どうやってこんなところに?」

彼女は、何も答えなかった。

ただ、じっと俺を見て……そのまま、背中を“ぽん”と押してきた。

まるで、飛行機の通路で前に進まないキャリーバッグに――

イラついた乗客がするような、静かな力加減だった。

「とにかく歩いて。

……いま考えなくていいことは、考えないで。」

「いや、でも――さすがに」

「聞こえな~い♪ 歩いて歩いて~♪」

鼻歌まじりに言われ、俺は……ため息をついた。

分かっていた。

出原真澄との会話において、“論理”が機能するのは――

彼女が本気で話すモードの時だけ。

今は、完全に……“遊びモード”だ。

ビルのエントランスに近づくと、そこには――

信じられないほど厳重なセキュリティが待っていた。

制服を着た警備員、IDセンサー付きの自動ドア、

そして……住人の名前を優しく呼ぶAIボイス。

俺は思わず、「すみません、こんな場違いで」と――謝りたくなった。

ロビーの内装は、まるで……五つ星ホテル。

巨大なシャンデリア、革張りのソファ。

そこに残業明けの臭い靴で座るのは――

なんだか“罪”を感じるレベルだった。

「なあ、本当にここが君の家?

十二階の清掃室を間借りしてるとか、そういうオチじゃないよな?」

彼女は――答えなかった。

ただ、「地球は平らなの?」と聞いてくる幼稚園児に、

優しく接する先生のような目で……俺を見ただけだった。

エレベーターに乗る。

もちろんそのエレベーターも――

美しいダークウッドの内装に包まれ、

タッチパネル式の……デジタル操作盤付き。

会社のエレベーターが――明治時代の遺物に思えるほどだった。

出原は、その間ほとんど喋らなかった。

いつもなら、冗談か、挑発か、皮肉混じりの誉め言葉くらいは

飛んできそうなものなのに……今日は、妙に静かだった。

表情は穏やかだが――その沈黙が逆に、ざわつく。

そして、エレベーターが止まる。

……到着した。

彼女の“部屋”――いや、もう“部屋”なんてレベルじゃない。

ここは、俺が今住んでいる二階建てアパートのフロアを

軽く二つ三つ重ねたような……広さだ。

高い天井。柔らかな間接照明。

磨かれたフローリングに――

東京の夜景を望む大きな窓。

そして――明らかにカップラーメンのためには設計されていない、

スタイリッシュすぎるキッチン。

しかも、ベッドは……キングサイズだった。

……なんでだよ。

部屋を見渡しながら、俺の心は――

半分感心、半分恐怖に支配されていた。

確信に変わった。

出原真澄は、“普通の背景”の人間じゃない。

そして俺は……気づかぬうちに、何かに巻き込まれ始めている。

彼女はブレザーを脱ぎ、丁寧にハンガーにかけると、

軽やかな足取りで……キッチンへと向かった。

「どこでも好きなところに座ってくださいね。

コーヒーとお茶、どっちがいいですか?」

「コーヒーで。

……どうせ、君の目的は“長話”だろ?」

彼女は、くすりと笑った。

「ふふっ、さすが先輩。鋭いですね。

でも……不思議。

そんなに察しがいいのに、どうして彼女いないんですか?」

俺は、眉を上げた。

……ああ、なるほど。

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