第九部

もし、この瞬間に……一歩でも間違えれば――

この先の展開は、完全に“放送コード”の向こう側になるだろう。

「先輩、飲み物や食べ物は……好きに冷蔵庫から取っていいですよ。

でも、取ったら――早くこっちに来てくださいね?」

声色は軽い。

だが、その空気は――完全に“支配”のそれだった。

「……はい。」

俺は、まるで――カンニングを見つかった高校生のように、素直に返事した。

冷蔵庫を開けると、そこは……もはや宝箱だった。

手作りの高級チーズ、ボトル詰めの高級ジュース、

“紹介制”のスイーツ店から取り寄せたであろう――デザート。

そして、缶ビール数本。

どれも……俺の週五の帰宅交通費より高いことだけは、確信していた。

俺は缶ビールを二本と、スナックと、ボトル入りのミルクを持ってリビングに戻った。

あたかも、こんな生活に慣れているかのような顔で。

……つい30分前に自動ソープディスペンサーに感動していたとは、誰にも言えない。

ソファに腰を下ろした――その瞬間だった。

「先輩、そのビール――没収です。」

伊豆原が、テーブルに置いたビールを……素早く二本、無言で奪った。

声のトーンが変わっていた。

もはやからかいではない。完全に――“要求”だった。

一瞬、俺は子供の頃――インスタントラーメンを食べすぎて母に叱られたときの記憶がよみがえった。

彼女は……静かに眼鏡を外し、テーブルの上に置く。

そして――脚を組み替え、俺をじっと見つめた。

まるで、被告人の言い訳を聞く――検察官のような眼差しだった。

「先輩、正直に答えてください。

この国の未来の経済は……本当に“増税”だけで持ちこたえられると思いますか?」

……なにこれ。

今夜は一体、どこまで――狂っていくんだ。

目の前には、セクシーなナイトドレス姿の美女がいる。

豪華な部屋。

深夜。

そして、テーマは……“財政政策”。

これはもう――デートでも、勧誘でもない。

“地獄の性格診断テスト”だ。

……だが、俺は答えなければならない。

なぜなら――伊豆原真澄の前で嘘をつくことは、

バカに見られるよりも遥かに……悪い選択だからだ。

「まるで――国家戦略室の委員みたいな質問だな。」

そう皮肉交じりに言うと、彼女は……ふっと笑った。

その笑みが――答えだった。

この女、本当に“何か”を……知っている。

「まあ、いいだろう。確かに、政府は増税だけじゃない。いろいろ試してきたさ。」

彼女は黙って……俺の言葉の続きを待った。

その沈黙が――どんな答弁よりもプレッシャーだった。

「大規模な財政出動、超低金利……むしろマイナス金利すら。

そして量的緩和――日銀が国債を“狂ったように”買い集める。」

「その結果? ……世界の覇者アメリカまでもが、それを真似した。」

俺の言葉に、伊豆原は――再び微笑んだ。

だが、それは……満足げな笑みではなかった。

ああ、それを言うと思った。

そう言わんばかりの……静かな確信を帯びた笑みだった。

彼女はソファに体を預け、脚を軽く――組み直す。

何気ない動作一つひとつが……俺の目を試すかのように、美しく、危険だった。

「それで、先輩。

その政策群……本当に“成功”したと思いますか?」

俺は……肩をすくめた。

「まあ、“生き延びる”ためには、な。

だが、“前に進む”ためには――違う。」

「高齢化で増える社会保障費、だから増税。

でも若者の購買力は低下してる。……消費は伸びない。」

「このループだよ、伊豆原。

俺たちは――経済を救っているわけじゃない。ただ、延命してるだけだ。」

伊豆原は、ゆっくりと……息を吸った。

その目が――まるで鋭利なナイフのように、俺を射抜いてくる。

「じゃあ、もし――その“時間稼ぎ”が限界に達したら?」

……今度は――俺が笑った。

静かに……だが、確かに。

「その時は日本は、“静かなる破滅”の教科書として――

現代経済史に名を刻むだろう。」

……沈黙。

空調の微かな音と、ビールをまだ飲ませてもらえない――

俺の喉の乾きだけが、部屋に残る。

「もう、先輩ったら。」

彼女の声色は、やわらかかった。

けれど、それは……優しさではない。

むしろ、相手の防御をゆっくりと溶かし――

核心を貫くための布石。

動作も、それを物語っていた。

背筋を軽く伸ばし、片手で――肩に落ちた髪を整える。

その一連の動きだけで……俺の中の“警報”は、不自然な沈黙を始めた。

そして、彼女が次に口にした言葉は――

経済学の教科書よりも深く、俺の記憶に……刻み込まれた。

「批判的な経済学者みたいな口ぶりね。

でも、先輩なら分かってるでしょう?」

「需要が落ち込み、投資が冷え、成長が止まる。

それはもう……テクニカルな問題じゃない。」

「今のインフレも――国家の安定という幻想を守るための、“演出”よ。」

そう言いながら、伊豆原は――

ソファの前に置かれたノートパソコンに……手を伸ばした。

その姿勢の変化に合わせて、彼女のナイトドレスがわずかに――揺れる。

そのシルエット……正直言って、経済危機の図よりもインパクトがある。

視線と理性の――板挟み。

俺の脳内で、激しい議論が……始まった。

「クラッシュバブルを礼賛した過去の世代――

その幻想が、現代日本人にとっての“伝染病”になってるのよ、先輩。」

そして、彼女は――俺を見た。

その目は、突き刺すようでいて……どこか魂を掴むようでもあった。

……もし彼女が女優なら、世界はすでに――彼女のものだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る