第2話 エルデン王国 クルス北区
エルデン北部、クルツ北区。
法も秩序も、とうに落ちた。
崩れかけた高架、焦げ跡の残る壁。 燃える家があっても、誰も振り返らない。
路地裏には、顔を隠した者たちが集い、 薬と血とに命を預けていた。
だがこの街は、同時に── 名も、素顔もいらない者たちの、最後の隠れ蓑でもある。
生き延びる術だけが、すべてだった。
レインは、ひび割れた建物の陰に身を潜めていた。
ナギとエルデンを訪れたあの時、耳にした噂。
「セレノア人が、クルスに出入りしているらしい」
戻って三日。ようやく掴んだ情報は──
倉庫街の17番裏、今夜。 王国と、この街の闇が、接触する。
「……始めるか」
ぽつりと呟くと、レインの姿は夜の帳に紛れていった。
鉄の階段を登る足音が、夜の空気に沈んでいく。
屋上の防犯灯は、点るよりも、消えかけている時間の方が長い。
先にそこに立っていた男の前で、女はフードを外した。
藍色の髪、赤みを帯びた瞳。
エルデンではまず見かけない色素に、男の視線がわずかに動く。
「刻印を」
男の声に女は黙って左手首を差し出す。 浮かび上がるのは、C-68の文字。
「ご苦労だったな。"R"」
男は書類を手渡しながら、乾いた声で言った。
「我々の諜報員が、セレノア王国の人間とギャングの接触を確認した。次の取引現場も特定済みだ」
「……セレノア」
唇の動きとともに、女の眉がわずかに動く。
「取引を潰せ。ただし、王国の者だけを確保しろ」
「ギャングとの接触は禁止ってこと?」
「当然だ。こちらの顔が割れるわけにはいかない」
女は書類に目を落とす。 描かれた人物像。時間。場所。だが──
「中身が、書かれてないけど」
「不明だ。ただ…碌なものじゃないのは確かだろうな」
「助っ人もなし、と」
期待のこもらない声で女が呟く。
「その目があれば難しくもないだろう」
それきり男は背を向け、階段を降りていった。
「面倒だなあ…」
女はしばらくその背を見送り、夜空を仰いだ。
廃棄された貯蔵庫跡。
壁は崩れ、鉄骨だけが剥き出しになっている。
夜の湿気のなかで、焦げた匂いが鼻を刺す。
女──“R”は、時間よりも早くその場に身を潜めていた。
やがて現れたのは、十人ほどの男たち。
肩に錆びた刃。
その目に光はなく、笑いの代わりに咳が混じっている。
遅れてやって来たのは、明らかに異質な二人の男。
整った服装。 帽子の下に覗く藍色の髪──セレノアの人間だった。
「よぉ、王国の坊ちゃん。相変わらず育ちだけは良さそうだな」
乾いた笑いに包まれながらも、男は動じない。
「こちらが例の品だ。十二、契約分だ」
ギャングのひとりが箱を開ける。
黒い布に包まれた、艶のある鉄、銃だった。
(ギャングごときにあんな数の銃を…?)
「……前回といい、このまま貰っちまいたくなる出来だな」
銃を手に取るギャングの男が、構えながらぼやく。
「んで、薬の手配は?」
「それは配送完了後の話だ。」
「チッ……気に食わねぇ口ぶりだな」
柱越しに女は静かに左目で感情を視る。
ギャングのリーダーらしき男から灰色が混じったような濁った緑色が滲む。
(……疑いの色。これがいいかな)
女が視線を一点に集中すると、やがてギャングのリーダーが落ち着かない様子で片足を鳴らしはじめた。
まるで、心のざわつきがそのまま足元に漏れ出しているようだった。
「……なあ、本当に薬のルート、あるんだよな?」
「当然だ。契約は交わしているだろう」
「契約なんて、意味がねぇ。こっちは命張ってんだぞ」
「報酬は、仕事が終わってからだ」
「今すぐ半分出せ」
やがて場には、明確な不穏の気配が立ち込めていた。 ──あと、ひと押し。
その時だった。
錆びた扉が軋み、闇にひとつの影が差し込んだ。
黒い外套をまとった男が、無言で現れる。
誰もが、視線を向ける。 その男の瞳はまっすぐに、場の空気を切り裂いていた。
「……なんだァ?」
苛立った声が飛ぶ。
男は一歩、前へ出る。 その声は、場に似つかわしくないほど、静かだった。
「取引をやめて帰るなら……俺は、何もしない」
一拍の沈黙。 それを鼻で笑う声が破る。
「何言ってんだ、コイツ」
「やっちまえ!!」
怒声とともに、男たちが一斉に動いた。
刃。鈍器。銃。 粗野な武器が、ひとつの影に襲いかかる。
男──レインは、瞬時に一人目の鳩尾を鞘で突いた。
呻き声はあがらない。ただ、崩れる音だけが響く。
二人目が銃を構える。
それを見ることなく、レインは踏み込み、膝を砕き、銃を蹴り上げる。
宙に浮いた銃には触れず、そのまま肘で喉元を打ち抜いた。
振り返りざま、鞘の柄でこめかみを殴打。
倒れる音に混じって、誰かの叫び声が裂ける。
「な、なんだこいつ……!」
「撃て! 撃ち殺せ!!」
銃声が響く。 だが、レインの姿はそこにはなかった。
壁沿いをすり抜け、足音を弾くように踏み出す。
三人、四人──次々と倒れていく。
混乱の隙に、セレノアの男たちは逃げの姿勢を取った。
「なんなの…最悪」
それを見た女が、舌打ちしながら飛び出した。
最も近いギャングの腕を蹴り上げ、銃を奪う。
一閃で足元を撃ち抜き、逃げる王国の男を壁に叩きつける。
フードが落ち、女の顔が露わになる。
「まさか……お前……」
銃口が頭に向けられる。 引き金にかけた指を、後ろから制する声。
「やめろ」
振り返らずに言う声が、空気を切った。
「嫌だと言ったら?」
「止める。力づくで」
女は、数秒の間ののち、ため息をついて銃を下ろす。 レインはそれを見届けて、剣を収めた。
「…あなたのせいで私の仕事が台無し…なんてことしてくれたの」
「お前も、やってただろ」
「あなたがいなければ穏便に終わらせるつもりだった」
「俺も話し合いで済むなら、それでよかった」
「それ本気?戦う気しかなかったじゃない」
どちらも、視線を外さない。 だが確かに、息は緩やかになっていた。
レインは木箱の中を確認し、銃を一丁ずつ袋へ入れていく。
「セレノアは……この銃を、どこへ運ばせるつもりだったんだ?」
「知らない。でも、"エルデンから銃が入ってきた"なんて話になったら、その時点で、戦争の火種でしょうね」
七つ目の銃を袋に入れかけた時、女が銃を構えた。
銃口は、レインを向いている。
「……本当は、これ全部、監視局に渡すつもりだった。それは、もういいけど。残りは私に頂戴」
「何のために?」
「任務は失敗。こいつらを殺さないなら顔も割れる。……監視局には、もういられない。生きるためにそれが必要よ」
レインは、真正面からその目を見る。
「生きられる場所を紹介する。これは、渡せない」
その言葉に、嘘はなかった。
女は、ゆっくりと銃を下ろす。
「…なら別にいいけど。あなたこそ何かに使うわけ?」
レインは袋を背に、扉へ向かう。
「誰にも渡らないほうがいい。これがあるだけで、人は争う」
立ち止まり、振り返る。
「また忘れるところだった。俺は、レインだ」
「何急に」
「お前は?」
「……リリア」
「わかった。リリア、ついてこい」
リリアはレインの背を追って扉からでた。
道を進めて数日。
レインの背中を見失わないように距離をとって、リリアがついていく。
山道を進む途中、空気が焦げる匂いが鼻を掠めた。
レインが煙に気づいたのは、山の中腹。
視線を凝らし、次の瞬間には走り出していた。
倒れた荷車。焼けた荷物。横たわる身体。
リリアが駆け寄った時、レインはひとりの少女のそばにいた。
息は浅く、瞳は虚ろ。だが、まだ生きていた。
「……何か持ってるか」
無言で包帯を投げ、リリアは周囲を確認し始めた。
冷たくなった母親の体。刃の跡が残る男の胸。
奪われたものも、争った者も、もう残っていない。
レインは少女の手を取り、包帯を巻きながら、脈を確かめる。
少女は、うわごとのようにかすかに呟いた。
「……だれか……いるの……」
「──ああ。もう大丈夫だ」
リリアは静かに少女の感情を視た。
黒に近い紫。不安と恐怖。 けれど、その奥に── 淡く、にじむような黄緑。
人が来たことへの安堵だった。
そっと、感情を増幅させていく。 少女の口元が、ほんの少しだけゆるんだ。
「ありが……とう……おにい、さ……」
その声が途切れると同時に、体から力が抜けた。
レインは黙って額に手を添え、瞳を閉じさせる。
少女の遺体を、道の端に移す。 レインは膝をつき、手を胸元で重ね、目を伏せた。
「……なに、してるの?」
「故郷の祈りだ。死んだあとの世界で、幸せに在れと──願う」
「死んだら、感情も記憶も消えるだけ。大切なもののそばに行けるわけでも、天に昇るわけでもない。死んだ先なんて、ただの“無”よ。願ったって意味ない」
レインは顔を上げず、静かに応える。
「意味があるか、ないかじゃない。 ……願いたいと思ったら、そうすればいい」
沈黙し、リリアは、目を伏せる。
そして、レインの小さく祈りの形をまね、少し震えた声で、ぽつりと呟いた。
「……私は…願わなかった。あの人は最後まで、私の幸せを思ってくれてたのに……」
レインの声が、静かに届く。
「なら、そいつの死の先は無じゃねえよ。そいつの想いが、お前の中に残ったんだろ」
もう一度、静寂。 そのあとで、リリアは顔を上げて言った。
「……もしそうなら。私はまだ、生きないと」
谷あいの、木々に包まれた静かな場所。
そのまま二人は少女たちから背を向け、今度は並んで歩き出した。
「聞いてなかったね。あなたの異能ってなんなの?」
「忘白…記憶を消す」
「へえ…便利そう。ピンポイントに消せるの?」
少し興味を持った様子でリリアが問う。
「負荷なしに消せるのは直前の記憶10分程度だ」
「そんなものか。記憶なんて覗くだけで負担強そうだもんね」
少し落胆したようにリリアが肩を落とす。
「お前は感情を操ってるのか?」
「私のは煽情…見た感情を選んで増大させるだけ。減らしたり消したりはできない。…できるなら、いい能力だったと思うけど」
「能力は使い方次第だ。さっきのお前もそうだろ」
「…気づいてたんだ。それでもやっぱり、私は逆の能力だったらいいのになって思うよ。そしたら辛いことも不安も、恐怖も…全部なくせるんだから」
「…」
リリアはそれ以上言葉を続けなかった。
レインもまた、何も返さない。
ただ、二人の歩く足音だけが、夜の山道に小さく響いていた。
風は止まり、木々は黙りこくっている。
遠くで虫の声がして、すぐに消えた。
やがて視界の先に、ぽつりと灯りが見えてくる。
「……ここ?」
リリアが足を止めて尋ねる。 レインは短く頷き、足を速めた。
扉の向こうから、人の気配が近づいてくる。
木製の扉が、軋む音とともに開いた。
現れたのは──二人の女性だった。
ひとりは、柔らかな金髪に淡い緑の瞳。
もうひとりは、褐色の肌に白髪を結んだ女。
金髪の女性が、穏やかに微笑んだ。
その視線はリリアに向けられた瞬間だけ、ほんの一瞬だけ止まり── それでも、変わらずに優しかった。
「……おかえり、レイン。今回は早かったわね。無事でよかった」
その言葉に、リリアの目がわずかに揺れる。
もう一人の白髪の女性が、元気よく手を差し出してくる。
「はじめまして!私はキトよ。で、こっちの美人がリーヴァ。よろしくね!あなたの名前は?」
問われて、リリアは少しだけためらい──答える。
「……リリア」
キトが屈んで顔を覗き込む。
「肩に力入りすぎ! 誰も食べたりしないから、安心してよ〜」
リリアの表情は、困惑しているように見えた。
家の中からは、誰かの話し声と、湯気の匂い。
けれど、それはリリアにはあまりに柔らかすぎた。
「……私は、いい。雨風しのげる場所があればそれで」
言いながら、倉庫の方を指差す。
「……あれ、借りていい?」
「えっ、倉庫!?」
キトが素で声を上げた。
「ダメなら…牛舎でもなんでもいいけど」
「臭いわよ!? どっちにしてもひどいでしょ!」
「……中に入るのが嫌なのね?」
そう察したリーヴァが、静かに応える。
「なら、倉庫でもいいわ。…でも、何かあったら、すぐ言うのよ」
リリアは、かすかに頷いた。 レインはそれに何も言わなかった。
「レイン、行きましょう?子どもたちがご飯の用意を手伝ってくれてるの」
リーヴァとキトが中へ入っていく。
戸口が閉じられ、音が消える。
リリアはしばらく、その扉を見つめていた。
「ちょっと想定外だったな。こんな場所だなんて」
力さえあれば生き残れる。
そんな場所で自分だけを頼りに生きるのは、気が楽だった。
ここは、そうではない。誰もが尊重され、思いあって、助け合いながら生きる場所なんだろう。
「……私がいていいような場所じゃないな」
そう呟いてから、リリアは背を向けて、倉庫に歩き出した。
raison -レゾン- @KLYY
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