raison -レゾン-
@KLYY
第1話 ガルマ共和国 ミロシュ村
大陸南方に位置するガルマ共和国。その北西、山間の小さな集落──ミロシュ村には、一つの“掟”があった。
割れた窓から朝の光が差し込む。 石造りの床と壁。埃が、光に照らされて舞っていた。
赤茶色の髪の少年、ナギは、小皿に載ったパンの切れ端にそっと手を伸ばした。 向かいには、母親が座っている。 湯気のない器を両手で抱えたまま、彼を見ようともしない。
「……ナギ。ずれてるわよ」
その声は、まるで糸の切れかけた人形のように力なく響いた。 ナギはびくりと肩を震わせ、慌てて左目にかかる布を直す。
「……ごめんなさい」
かすれた声で謝ると、母は返事をしないまま器を見つめ続ける。 やがて、ぽつりとつぶやいた。
「いいのよ、ナギ……だって今日は……やっとなの……これで、やっと……普通になれる……」
ナギは黙ってうなずいた。 その瞬間、母の肩が小さく震える。 頭を押さえ、何かを振り払うように立ち上がった。
「やめて……ナギ……その音……また鳴ってる……!」
ナギは目を見開いた。自分では何もしていない。 だが、キィィィィィ──と、耐え難い金属音が母の耳に響いている。 母は椅子から崩れ落ち、耳を塞ぎながら叫んだ。
「思ってることがあるなら言って!!……お願い、それはやめて……!」
「ちが、ぼくなにも……」
声は届かない。 母の中では、まだ音が鳴り続けていた。
「……でも、いいのよ……今日で終わるんだから……もう、終わるのよ……お父さんだって、きっと……」
ナギは、俯いたまま小さく拳を握りしめた。
──同じ頃。 南の山道を、一人の男が歩いていた。 膝丈の外套のフードを深くかぶり、その顔は半分ほどしか見えない。
獣道の途中、小さな岩山の麓に、一体の石像が立っていた。 雨に晒され色褪せた少年の像。その左目は、くり抜かれたように窪んでいる。
男は足を止め、しばしその像を見つめた。 やがて道を外れ、岩と草の間を縫うように進んでいく。
──その先に、屋根の崩れた建物が現れた。 壁の一部も落ち、日差しが差し込んでいる。 見捨てられたようなその場所へ、男は錆びた扉を押し開けた。
漂うのは、乾いた草と土の匂い。 焼けた壁が光を反射し、室内はぼんやりと霞んで見える。 隅には、痩せ細った老人がいた。
段差に腰を下ろし、褐色の肌には乾いた布が巻かれている。 左目のあったはずの場所には、暗い空洞だけが残っていた。
「……よそ者だな」
声は乾いていたが、怯えはなかった。
「ああ」
男が答え、フードを上げる。 黒髪と、淡い黄の色素を帯びた瞳。 老人は、その左目に目をとめた。
「見慣れない色だな。北から来たか?……それに、その左目」
男の左目には、瞳孔の外にもうひとつ、淡い円が浮かんでいた。
「お揃いってわけじゃなさそうだな」
男の言葉に、老人は鼻を鳴らした。
「この村に、神に背いた者が歩ける場所はない。今すぐ出ていくがいい」
「ただの寄り道だ。長居はしねえよ」
男は足元を見る。崩れた石、ひび割れた床、染みついた古い血。
「……ここは一体なんだ」
「浄化の儀が行われていた場所だ。十歳になった罪人を“救済”するためのな」
「何が救済だ、くだらねえ。……あんたの目も、そのせいか」
老人は静かにうなずいた。
「取れば普通に生きられると思った。……愚かだったよ」
風が軋んだ梁を鳴らす。
「異能を捨てても、周囲の視線は変わらなかった」
男はしばらく黙っていた。
「……今は、その儀式は行われてないのか」
「いいや。村の中央で続いている。鐘が鳴ったら、その合図だ。……最後に聞いたのは、随分前だが」
その時。 遠くの空に、鐘の音が鳴り響いた。
老人はわずかに顔を背け、男はフードを深く被り直す。
「……馬鹿なことは考えるな」
「俺のやることは、俺が決める」
「次は、お前の鐘が鳴るぞ」
風が吹き抜ける中、男は背を向けた。
「足を止める理由にはならねえな」
村の中心には、煉瓦と白い石を積み上げて作られた教会があった。
屋根は厚い土で塗り固められ、日差しを遮るように小さな窓が高い位置に穿たれている。
午前の鐘が鳴ると、村の者たちがぞろぞろと集まり始めた。
ざらつく風の中、目を細めながらも皆、静かに祈りを捧げる。
乾いた空気に混じって砂埃が立ち上り、強い日差しが白壁に反射して眩しかった。
やがて、再び鐘が鳴り響く。
澄んだ音が高く空に伸び、儀式の始まりを告げた。
教会内部の正面には壇上があり、白布をかけた石台と、金属の鈍い輝きを湛えた古びた儀式具が整然と並んでいる。
壇に立つのは、髪を後ろで束ねた年老いた儀式者だった。
暗い肌に深く刻まれた皺が、砂漠の岩のような厳かさを醸している。
その身には、風通しのよい白布の儀式衣がまとわれていた。
「本日は、“穢れ”からまた一人の子が救われる日。神は等しくその慈悲を授けたまわん……」
ナギは、大人たちに導かれるまま壇上へと進む。
足元の石畳は熱を含み、裸足で進むナギの足裏を焼くように照り返していた。
それでも、後戻りはできなかった。
椅子に腰掛けうつむいた顔を上げると、母親が村人に囲まれている。
目に巻かれた白布の頭巾の下に、安堵の笑みを浮かべている。
「もう、大丈夫……あの子も…私も…これでやっと普通になれる……」
儀式者が、金属製の器具を手に取った。
「恐れることはない。その目を手放せば、すべてが終わる……」
「ひっ……」
ナギが身を震わせると、その左目が痙攣するように揺れ始め、やがて、耳を裂くような鋭い金属音が響いた。 キィィィィィ……。
それは、耳ではなく、脳に直接響いてくるような音だった。
「この音はなんだ!?」
「呪いだ……。見たこともない強力な呪いだ……!」
「早く、その目を取れ!」
祭壇の下が騒然とする。 儀式者も動揺を隠せず、叫ぶように言った。
「救いを拒むとは……なんて哀れな……!」
さっきまで静かに祈りを捧げていた人々が、一斉に糾弾の声を上げ始める。
「やめて……やめてください……っ」
ナギは必死に声を出すが、誰にも届かなかった。 そのときだった。
教会の扉が、ギィ……と重く軋んで開いた。
乾いた風が吹き込み、石の床に敷かれた白布がふわりと舞う。 そこに立っていたのは、フードを被った一人の男だった。 門を守っていたはずの護衛は、もう動かない。
「誰だ、お前! 侵入者か!!」
怒号が飛ぶ中、男は祭壇の様子を一瞥し、静かにフードを上げた。 左目の瞳孔の外側に浮かぶ、淡い光の輪。
それは神の印のようにも、忌まわしい呪いの残滓のようにも見えた。
「おい……こいつの目……」
「まさか……」
「悪魔だ……っ!」
男は何も言わず、壇上へと歩み出た。
「出て行け! いや、ここで死ね!!」
数人の村人が怒声とともに立ちはだかる。 だが──次の瞬間。
一人目は、男の手が動くより早く、抜かれていない鞘で鳩尾を突かれた。呻き声を上げ、膝から崩れ落ちる。
二人目は叫びかけた刹那、その鋭い視線を真正面から受け、まるで魂を吸い取られたようにその場に立ち尽くした。
三人目は拳を振り上げるが、軽く捌かれ、石の床に無様に転がった。
「だ、誰か! 守人を呼べ!!」
「わ、私、行きます!」
一人の若い女性が扉に向かって駆け出そうとする。 だが、男が一瞥すると、女性はよろめき、躓いて倒れた。
「え……ここ、どこ……? どうして……なにが起きてるの……?」
混乱の中、恐怖は伝播する。
「だめだ! 隠れろ! あれは本物の悪魔だ!!」
人々が後退りする中で、ナギはただ、男の姿を見つめていた。
その男は壇上のナギに向け、まっすぐに手を差し出した。
「……俺と来るか、ここに残るか。お前が選べ」
ナギの視線が、その手と、母のほうを交互に行き来する。
そのとき、懐かしい声が響いた。
「ナギ……! お願い……! 行かないで! 戻ってきて……!」
母が、自らの手で白布を外し、震える手をナギに向ける。 けれど、その足は、まるで床に縫い付けられたように動かなかった。
男が母に視線を向ける。 それだけで、母は肩をすくめ、声を詰まらせた。
「……すべてお前が決めることだ」
男がナギに静かに告げた言葉に、ナギの胸がぎゅっと締めつけられる。
思い出が、脳裏に溢れるように流れ込んできた。
熱を出した夜、母は冷たい布を何度も取り替えてくれた。
「大丈夫。ナギは特別な強い子なのよ」
優しい声。夜が明けるまで隣にいてくれた温もり。
転んだとき、膝をついてくれた母の笑顔。
「血が出ても、泣かなかったのね。えらい、ナギはがんばり屋さんだね」
その笑顔が、世界でいちばん好きだった。
ほんとうは、母といたかった。
でも──もう気づいている。
どれだけ願っても、あの日々は戻らない。
ナギは震える手で、男の手を取った。
「……ぼく、行くね。 お母さん……こんな目で生まれてきて、ごめんなさい。 お母さんから笑顔を奪って、ごめんなさい……」
「ナギ……そんな……行かないで……。私には、あなたしか……」
ナギはもう、振り返らなかった。
扉を出た瞬間、風が一段と強く吹き抜けた。
空は青く高く、乾いた草がざわめく。 彼はもう、あの鐘の音が鳴る場所へは戻らない。
村を離れてからも、ナギと男──レインは、ひたすら歩き続けた。
草原、岩場、丘陵地帯。 時に風に震え、時に野盗に見つかりかけて道を変えた夜もあった。
ナギは、火を起こす術を覚え、水場を探せるようになった。
けれど、時折、夢の中で鐘の音が鳴ると、眠れなくなった。 焚き火を囲んだ夜、ナギはじっとその炎を見つめていた。
「……眠れねえのか」
男が本を閉じ、ぽつりと声をかける。
ナギは、小さくうなずいた。
「俺もだ」
ナギは何か言おうとして、言葉を探す。
──そうだ、まだ言ってなかった。
「……助けてくれて、ありがとうございます」
男は驚いたように、ちらりとこちらを見た。
「……何もできてねえよ。死ぬまで面倒見れるわけでもない。あの村の状況を変えたわけでもねえし、お前の母親がどうなったのかも……」
「でも、僕は──救われたんです」
その言葉に、男はほんの少しだけ目を細めた。
「……そうか」
「……あの、あなたのこと、なんて呼べば……?」
ナギが恐る恐る尋ねると、男は少し驚いたように口を開いた。
「……言ってなかったか? …なかったか…悪い、俺はレインだ」
「ふふ……レインさんって、たまに抜けてますよね」
「あ? そんなことはねえ」
ナギは、その言い方にクスリと笑った。 自然に笑えたことに、自分でも少し驚きながら。
食料を手に入れるため、レインとナギは小さな市場に立ち寄った。
「ここはエルデンって国の辺境だ。この国は、異能者を左手首の番号で管理している。手首は見せないようにしろ」
「……わかりました」
市場はにぎわい、行商人の呼び声と、干し肉や果物の香りが空気に混じって漂っていた。 茶色い髪と明るい肌をした人々が多いが、髪や肌の色が異なる者もいて、いろんな土地から人が集まっていることがわかる。
レインはフードも被らず、人波の中を堂々と歩いていく。 ナギは少し緊張しながらも、その背を追いながら周囲を見回した。
そのとき、すれ違った子どもが、ふとナギたちの左目に気づき、怯えたように母親の背中に隠れた。
ナギは思わず、手に持っていた干し果実を胸の前に抱きしめた。
レインは、異能者でない者とも自然に言葉を交わしている。
ナギはその姿を見つめながら、無言のままついていった。
市場を抜け、木々に囲まれた静かな道に出たとき、レインが口を開いた。
「どこであれ、異能とそうでない者は対立を重ねてきた。今も、対等とは言えないことが多い」
ナギは立ち止まって、彼の背を見つめる。
「……そうなんですね。 ぼく、村から出たことがなかったから、知らないことばかりで……。この目って一体、なんなんでしょう」
「それは、お前が決めたらいい」
「……じゃあ、レインさんにとっては?」
レインはしばし黙り、前を見据えたまま答えた。
「俺にとっては──力だ。やるべきことをするためのな」
その背は、遠くを見つめていた。
それから三週間、野営を続けた。
空の青は日ごとに薄くなり、風には乾いた草の匂いが混じる。 ある日、丘を越えた先に、小さな建物が点々と見えてきた。 木造の柵、よく整えられた畑、その向こうに崖があり、ちらりと海がのぞく。
人の営みのある、穏やかな場所だった。
「……着いたぞ」
レインの声は変わらず静かだったが、どこか柔らかさがあった。
門をくぐったそのとき、ひとりの少女が勢いよく駆けてきた。
「レイン!! また全然帰ってこなかったじゃん! ……あれ? あなたははじめましてよね? こんにちは! 私はリスだよ! よろしくね!!」
ナギは目を見開く。 そこにいたのは、「無能の人」だった。
「……こんにちは。ナギです」
少女の大きな声に気づいたのか、周囲の家から人々が集まってきた。 肌や髪の色はばらばらで、さまざまな土地から来た人々であることがわかる。
そしてその中心にいるのが、きっと──レインなのだ。
「おかえり、レイン。怪我はない? ……あら、かわいい子。はじめまして、私はリーヴァよ。よろしくね」
金髪に明るい緑の瞳をした女性が、ふわりと微笑む。
「……はじめまして。ナギっていいます」
「まさかガルマから連れてこられたのか? 遠かっただろ。……腹、減ってないか? オレの食べかけでよかったらあるぞ。ほら」
自分に似た肌色の、大柄な男がパンを差し出す。
「ちょっと、ベア! 食べかけはないっすよ!」
隣の赤髪の青年が慌ててたしなめた。
「いや、まだ一口しか食ってねぇ。ほら、遠慮すんな」
ナギは戸惑いながら、パンを受け取った。
その手が少し震える。
「……あの……あり、がと……ぅっ……ござ……」
ぽた、ぽた、と涙が落ちた。
誰も、異能があるかないかを気にせず、ただ優しく迎えてくれた。
そんな経験は、初めてだった。
「ええっ、大丈夫? 泣いちゃった……ベアがちゃんとしたパンあげないから……!」
「えっ、ええっ!? す、すまん……どうしたらいいんだ……!」
少女と青年が冷たい視線をベアに向ける中、リーヴァがしゃがんで、ナギの背をそっと撫でた。
「違うわよ、ベア……。 大丈夫。今日からここが、あなたの家だからね」
ナギは、泣きながら、小さくうなずいた。 胸の奥で、暖かな生活の始まりを確かに感じていた。
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