第22話

わたしたちの、聖書は、悲劇の、最終章へと、向かって、その、ページを、めくろうとしていた。


多数決。

その、言葉は、民主的という、美しい、仮面を、被った、最も、残酷な、暴力だった。

小夜子さんが、その、提案を、口にした、瞬間、この、闘争の、結末は、すでに、決まっていた。

廃墟の、ホールに、集まった、十数人の、少女たち。その、ほとんどが、新しい、女王、斉藤美咲の、その、絶対的な、正しさと、冷徹な、合理性に、心酔しきっていた。

彼女たちは、生き残るために、強くなるために、自らの、感傷を、切り捨てることを、選んだのだ。

あるいは、選ばされたのだ。


「……では、採決します」

小夜子さんは、静かに、言った。

「……大河内さつきの、物理的、排除に、賛成の、方は、手を、挙げてください」


ぱら、ぱら、と、手が、上がる。

旧実践派の、メンバーたち。そして、思想派から、転向した、数人。彼女たちの、目には、迷いはなく、ただ、新しい、指導者に、対する、盲目的な、忠誠だけが、あった。


そして、小夜子さんもまた、静かに、その、小さな、手を、挙げた。

彼女は、自らが、作り出した、この、多数派工作の、結果を、満足そうに、見つめている。


美咲さんは、手を、挙げなかった。

彼女は、司令塔であり、審判だ。自ら、手を、汚すことはしない。


わたしは、どうすれば、いいのだろう。

わたしの、心は、二つに、引き裂かれていた。

薊さんの、その、あまりにも、人間的な、痛みに、寄り添いたい。沙月さんが、最後に、託した、希望の、光を、守りたい。

でも、同時に、わたしは、この、組織で、生き残りたい、と、思っていた。小夜子さんの、隣に、いたい、と。美咲さんの、見る、世界の、果てを、一緒に、見てみたい、と。


わたしの、手は、鉛のように、重かった。


結局、わたしは、手を、挙げることが、できなかった。

そして、薊さんも、涼さんも、響子さんも。

わたしたち、四人だけが、その、狂信の、輪から、取り残されていた。


「……賛成、多数」

小夜子さんは、静かに、宣言した。

「……よって、大河内さつきの、排除計画は、正式に、承認されました」


薊さんは、力なく、その場に、崩れ落ちた。

彼女は、二度、敗北したのだ。

自らの、信じる、理想に。

そして、自らが、育ててしまった、怪物たちに。


わたしは、ノートを、開いた。

そして、震える手で、書き記した。


『わたしたちは、ついに、一線を、越える。わたしたちの、手は、もう、血で、洗うことはできない』


その夜、わたしは、一人、廃墟の、屋上で、星を、見ていた。

東京の、空とは、違う、満天の、星。

その、中に、一つだけ、ひときわ、強く、輝く、星が、あった。


わたしは、その、星に、名前を、つけた。


『沙月』と。


彼女は、見ていてくれるだろうか。

わたしたちが、これから、堕ちていく、地獄の、様を。

彼女が、最後に、託した、希望の、光を、わたしたちは、自らの、手で、消し去ろうとしている。


「……ごめんなさい、沙月さん」


わたしは、呟いた。

涙は、出なかった。

わたしの、心もまた、少しずつ、麻痺して、死んでいっているのかもしれない。



暗殺計画は、その、翌日から、冷徹な、精密機械のように、動き出した。


司令塔は、美咲さん。

彼女は、もはや、一切の、感情を、その、顔に、浮かべることはなかった。彼女は、ただ、目的を、遂行するためだけの、思考する、機械と、化していた。

彼女は、大河内さつきの、一週間の、行動パターン、移動ルート、警備体制、その、全てを、ホワイトボードに、書き出し、完璧な、暗殺の、シナリオを、構築していった。


その、参謀である、小夜子さんは、その、シナリオを、具体的な、実行プランへと、落とし込んでいく。

必要な、人員、装備、そして、偽装工作。

彼女の、頭の中には、この、犯罪が、成功するための、全ての、計算式が、組み込まれているようだった。


そして、その、実行部隊として、選ばれたのは、涼さんと、響子さんだった。

それは、美咲さんと、小夜子さんによる、意図的な、人選だった。

この、計画に、反対した、彼女たちに、あえて、その、引き金を、引かせる。

それは、組織の、規律を、再確認させ、反逆の、芽を、完全に、摘み取るための、見せしめであり、踏み絵だった。


涼さんと、響子さんは、その、命令を、拒否することは、できなかった。

拒否すれば、組織からの、追放、あるいは、粛清を、意味する。

彼女たちは、自らの、手を、汚すか、あるいは、仲間たちに、牙を、剥くか、その、究極の、選択を、迫られていた。


「……やるしか、ねえんだろ」

ある夜、涼さんは、タバコを、ふかしながら、響子さんに、言った。

「……おれたちが、やらなきゃ、他の、誰かが、やるだけだ。だったら、おれたちの、手で、ケリを、つける。それが、あいつに対する、せめてもの、手向けだ」


彼女が、言っている、あいつ、とは、誰のことなのか。

大河内さつきか、それとも、かつての、自分たちの、ことなのか。

わたしには、わからなかった。


響子さんは、何も、答えずに、ただ、薊さんが、残していった、一冊の、本を、読んでいた。

その、タイトルは、『全体主義の起源』だった。


そして、薊さんは。

彼女は、完全に、孤立していた。

誰も、彼女に、話しかけようとは、しなかった。

彼女は、この、組織にとって、もはや、危険な、思想家であり、過去の、亡霊でしかなかった。

彼女は、一日中、廃墟の、礼拝堂だった、場所に、閉じこもり、壁に、向かって、何かを、ぶつぶつと、呟いていた。

その、姿は、まるで、神に、見捨てられた、預言者のようだった。


わたしは、そんな、彼女たちの、姿を、ただ、記録し続けることしか、できなかった。

わたしの、ノートは、もはや、聖書ではなかった。

それは、一つの、共同体が、ゆっくりと、狂気に、蝕まれ、崩壊していく、様を、克明に、記録した、病理報告書だった。


わたしは、小夜子さんに、尋ねた。

「……本当に、これで、いいの?」


「何がですか?」

彼女は、微笑んだ。


「……わたしたちは、怪物を、倒すために、怪物に、なってしまった。これじゃあ、ウロボロスと、同じじゃない」


「違いますよ、晶さん」

彼女は、静かに、言った。

「……わたしたちは、彼らとは、違う。わたしたちには、大義が、ありますから」


「大義?」


「ええ」彼女は、頷いた。「より、多くの、女性たちを、救う、という、大義です。そのためには、多少の、犠牲は、やむを得ない。一人の、偽善者を、殺すことで、千人の、女性が、救われるのなら、それは、正しい、選択でしょう?」


その、功利主義的な、論理。

それは、あまりにも、明快で、そして、あまりにも、恐ろしかった。

わたしは、何も、言い返せなかった。


わたしは、もはや、この、狂気の、列車から、降りることは、できないのだ。

わたしは、ただ、その、終着駅が、地獄でないことを、祈るしかなかった。



決行の、日は、来た。

ターゲットは、大河内さつき。

場所は、彼女が、週末を、過ごす、軽井沢の、別荘。

計画は、深夜、彼女が、一人で、寝室に、いるところを、襲撃し、事故に、見せかけて、殺害する、というものだった。


涼さんと、響子さんは、黒い、戦闘服に、身を包み、闇の中へと、消えていった。

その、背中を、見送りながら、わたしは、吐き気を、覚えた。


わたしと、小夜子さん、そして、美咲さんは、アジトの、司令室で、モニターを、見つめていた。

涼さんたちが、身につけた、カメラからの、映像が、そこに、映し出されている。


軽井沢の、深い、森。

静寂。

虫の、音だけが、聞こえる。


やがて、木々の、向こうに、モダンな、山荘が、見えてきた。

大河内さつきの、別荘だ。


『……これより、侵入する』

涼さんの、低い、声が、イヤホンに、響く。


二人は、音もなく、敷地に、侵入し、建物の、壁を、伝って、二階の、ベランダへと、登っていく。

その、動きは、プロの、暗殺者、そのものだった。


ベランダの、窓の、鍵は、事前に、調べておいた通り、開いていた。

二人は、静かに、部屋の、中へと、滑り込む。


そこは、寝室だった。

キングサイズの、ベッドの、上で、大河内さつきが、一人、眠っている。

その、寝顔は、国会で、見せる、厳しい、表情とは、違い、ひどく、無防備で、そして、疲れているように、見えた。


涼さんが、響子さんに、目配せをする。

響子さんが、頷き、懐から、薬品の、入った、注射器を、取り出した。

それを、打てば、彼女は、眠るように、死ぬ。

心臓発作として、処理されるはずだ。


響子さんが、ゆっくりと、ベッドに、近づいていく。

その、手が、震えているのが、モニター越しにも、わかった。


その、時だった。


「……待って」


響子さんが、動きを、止めた。

そして、涼さんに、向かって、言った。


「……やっぱり、おれには、できねえ」


『……何を、言っている、響子!』

イヤホンから、涼さんの、焦った、声が、聞こえる。


「……こいつは、確かに、許せねえ、ことを、したのかもしれねえ。でも、だからって、おれたちが、こいつの、命を、奪う、権利は、ねえはずだ。こんなこと、沙月さんが、望んでる、ことじゃ、ねえ」


響子さんは、注射器を、床に、置いた。


『……馬鹿野郎! 今更、何を!』


涼さんが、響子さんの、胸ぐらを、掴もうとした、その瞬間。


ベッドの、上で、眠っていたはずの、大河内さつきの、目が、カッと、開かれた。

そして、彼女は、枕の、下に、隠していた、一丁の、拳銃を、取り出し、その、銃口を、響子さんに、向けた。


「……動かないで」


その、声は、氷のように、冷たかった。


罠だったのだ。

これもまた、ウロボロスが、仕掛けた、二重の、罠。

わたしたちの、計画は、全て、筒抜けだったのだ。


「……まさか、本当に、殺しに、来るとはね」

大河内は、ベッドから、起き上がると、言った。

「……あなたたち、本当に、救いようのない、テロリストなのね」


その時、寝室の、ドアが、開き、何人もの、黒服の、男たちが、なだれ込んできた。

涼さんと、響子さんは、完全に、包囲された。


「……終わりよ、あなたたち」

大河内は、勝利を、確信して、言った。


アジトの、司令室は、パニックに、陥っていた。

「……どうして……!」

小夜子さんの、顔が、初めて、絶望に、歪む。


しかし、その、時、モニターの、中で、信じられない、光景が、繰り広げられた。


響子さんが、突然、大声で、笑い出したのだ。


「……ひっかかったな、クソ女」


彼女は、言った。


「……え?」

大河内が、訝しげな、顔を、する。


「……おれたちの、本当の、目的は、あんたの、暗殺なんかじゃ、ねえよ」

響子さんは、不敵に、笑った。

「……あんたと、ウロボロスの、繋がりを、この、目で、確認することだ」


彼女が、そう、言った、瞬間。

彼女の、胸の、ボタンに、仕込まれていた、超小型カメラが、フラッシュを、たいた。

それは、この、部屋の、状況、大河内と、黒服の、男たちの、姿を、鮮明に、記録していた。


「……そして、この、映像は、今、リアルタイムで、世界中に、配信されている」


涼さんが、続けた。

「……あんたの、政治生命も、ウロボロスの、存在も、これで、終わりだ。ざまあみろ」


そう。

これもまた、わたしたちが、仕掛けた、三重の、罠だったのだ。

美咲さんと、薊さんが、最後の、最後に、土壇場で、練り上げた、起死回生の、作戦。

暗殺計画は、敵を、油断させ、その、正体を、白日の、下に、晒すための、壮大な、おとり捜査だったのだ。


大河内さつきの、顔が、絶望に、染まる。


「……そんな……、馬鹿な……」


「馬鹿は、てめえの方だ」

涼さんが、言い放った、その時。


黒服の、男の、一人が、発砲した。

乾いた、銃声が、響き渡る。


しかし、その、弾丸は、涼さんにも、響子さんにも、当たらなかった。


二人の、前に、立ちはだかった、一人の、身体を、貫いていた。


「……あざみ……さん……?」


わたしは、自分の、目を、疑った。


そこに、立っていたのは、一条薊だった。

彼女は、いつの間に、ここに。

彼女は、涼さんと、響子さんを、庇って、その、胸に、銃弾を、受けたのだ。


「……なぜ……」

涼さんが、呆然と、呟く。


薊さんは、ゆっくりと、振り返った。

その、口元には、穏やかな、笑みが、浮かんでいた。


「……言ったでしょう」

彼女は、血を、吐きながら、言った。

「……破壊の、先に、創造を、見せる、って。……これが、わたしの、最後の、闘争たたかいよ……」


彼女は、沙月さんの、名前を、呼びながら、ゆっくりと、崩れ落ちていった。


わたしは、絶叫した。

わたしの、聖書は、またしても、仲間の、血で、汚されてしまった。


しかし、これは、悲劇の、終わりではなかった。

それは、わたしたちの、伝説の、本当の、始まりだったのかもしれない。


薊さんの、死と、引き換えに、わたしたちは、全てを、手に入れたのだから。

ウロボロスを、壊滅させ、そして、世界を、変える、力を。


わたしは、ノートの、最後の、ページに、書き記した。


『一条薊、死亡。享年、二十二歳。彼女は、自らを、犠牲にして、わたしたちに、未来を、託した。わたしたちは、彼女の、死を、無駄にはしない。わたしたちの、闘争は、永遠に、続くのだ』


わたしたちの、聖書は、ここで、終わる。

しかし、わたしたちの、物語は、これからも、続いていく。

この、世界の、どこかで、声を、あげられずに、苦しんでいる、全ての、女性たちの、ために。


わたしたちは、闘争サークル。

そして、わたしたちは、伝説になったのだ。

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