第20話

わたしたちの、聖書の、ページが、また、一枚、血で、汚されようとしていた。

わたしは、その、予感に、全身を、支配されながら、ヘッドホンから、聞こえてくる、沙月さんの、息遣いに、ただ、耳を、澄ませていた。


決行は、政治資金パーティーの、深夜。

大河内さつきが、事務所を、空にする、ほんの、数時間。

沙月さんは、側近から、聞き出した、暗証番号を、使い、事務所の、金庫室へと、忍び込んでいた。

その、様子は、彼女が、身につけた、超小型の、カメラと、マイクを、通じて、リアルタイムで、アジトへと、送られてくる。


モニターに、映し出された、暗い、廊下を、進む、沙月さんの、主観映像。

わたしは、自分の、心臓の、音が、ヘッドホンから、聞こえてくる、彼女の、足音と、重なって、どく、どく、と、嫌な、リズムを、刻むのを、感じていた。


『……金庫室に、着いたわ』

沙月さんの、囁き声が、響く。

『……これから、開ける』


わたしは、息を、飲んだ。

隣では、小夜子さんが、冷静な、目で、モニターを、見つめている。

美咲さんは、司令塔として、部屋の、中央で、腕を、組んで、立っている。

薊さんは、目を、閉じて、まるで、祈るように、動かない。

涼さんと、響子さんは、いつでも、飛び出せるように、アジトの、ドアの、前で、待機していた。


モニターの、中で、沙月さんの、白い、指が、金庫の、ダイヤルを、回していく。

一つ、また一つと、数字が、合わさっていく、その、クリック音が、わたしの、鼓膜を、打つ。


そして、最後の一つ。


カチリ、と、軽い、音がした。

重い、鉄の、扉が、ゆっくりと、開かれていく。


その、瞬間だった。


『――よく、来たわね』


ヘッドホンから、聞こえてきたのは、沙月さんの、声ではなかった。

それは、大河内さつきの、声だった。


モニターの、映像が、激しく、乱れた。

沙月さんの、短い、悲鳴。

そして、何者かに、突き飛ばされたような、衝撃音。


カメラは、床に、叩きつけられ、天井の、蛍光灯だけを、虚しく、映し出している。


「罠だ!」

涼さんが、絶叫した。


「沙月さん!」

薊さんが、目を見開き、モニターに、駆け寄る。


しかし、もう、遅かった。

ヘッドホンからは、複数の、男たちの、下品な、笑い声と、沙月さんの、くぐもった、呻き声だけが、聞こえてくる。


『……まさか、本当に、来るとはね』

大河内さつきの、冷たい、声が、響く。

『……ウロボロスの、残党から、聞いてはいたけれど。あなたたち、思ったよりも、愚かね』


ウロボロス。

やはり、これは、彼らが、仕掛けた、罠だったのだ。

わたしたちが、大河内さつきを、標的にすることを、予測し、そして、彼女を、餌として、わたしたちを、誘き寄せたのだ。


『……あなたを、泳がせて、正解だったわ、氷川沙月さん』

大河内の、声には、勝利を、確信した、者の、余裕が、あった。

『……あなたの、おかげで、あなたたちの、アジトの、場所も、おおよそ、見当が、ついた。今頃、部隊が、向かっているはずよ。あなたたちは、ここで、終わり』


「……くそっ!」

涼さんが、壁を、殴りつけた。

わたしたちは、完全に、包囲されている。


『……でも、その前に』大河内は、続けた。『あなたには、少し、遊んでもらうわ。わたしたちの、やり方でね。あなたたちが、溝口にしたことの、お返しよ』


男たちの、卑しい、笑い声。

そして、布が、引き裂かれる、音。

沙月さんの、絶叫。


「やめろ……! やめて……!」

薊さんが、モニターに、向かって、叫ぶ。その、顔は、絶望に、歪んでいた。


わたしは、もう、聞いていられなかった。

ヘッドホンを、引きちぎるように、外した。

胃の、中身が、逆流してくる。

わたしは、床に、蹲り、激しく、嘔吐した。


これは、地獄だ。

わたしたちが、作り出した、地獄が、今、わたしたちに、返ってきたのだ。


その、時だった。


『――薊さん』


ヘッドホンを、つけたままだった、小夜子さんの、耳にだけ、届いたのだろう。

それは、沙月さんの、最後の、声だった。

途切れ途切れの、しかし、凛とした、声。


『……聞こえる……? 薊さん……。わたしの、最後の、言葉を、聞いて……』


小夜子さんは、何も、言わずに、ヘッドホンの、音量を、最大に、上げた。

部室に、沙月さんの、声が、響き渡る。


『……わたしは、ずっと、間違っていた……。わたしは、あなたの、思想を、愛していたんじゃない。わたしは、ただ、あなた、という、人間に、恋を、していただけだった……。あなたの、その、強さに、その、孤独に、惹かれて……。だから、わたしは、あなたの、言葉を、絶対の、真理だと、信じようとした。でも、違った……』


彼女は、そこで、一度、息を、吸った。

苦しそうな、呼吸音。


『……本当に、世界を、変えるのは、冷たい、理論じゃない……。あなたの、言う通りよ、薊さん……。それは、痛みを知り、それでも、誰かと、手を、繋ごうとする、その、意志なのよ……。わたしは、最後に、それに、気づけた……。だから、もう、思い残すことは、ない……』


「沙月さん……! 何を、言うの……!」

薊さんが、泣き叫ぶ。


『……薊さん、あなたは、間違ってない。あなたの、その、感傷こそが、この、腐った、世界を、変える、唯一の、希望よ。だから、どうか、その、心を、失わないで……。破壊の、先にある、創造を、見せて……。わたしに……』


その、言葉を、最後に、彼女の声は、途切れた。


そして、ヘッドホンから、聞こえてきたのは、一つの、乾いた、銃声だった。


沙月さんは、自ら、命を、絶ったのだ。

敵に、屈し、陵辱される、その前に。

自らの、尊厳を、守るために。

そして、薊さんに、最後の、メッセージを、託すために。


部室は、死んだような、静寂に、包まれた。

薊さんは、その場に、崩れ落ち、子供のように、声を、あげて、泣いた。

彼女の、神は、死んだ。

いや、違う。

彼女の、一番の、理解者が、彼女の、腕の中で、死んだのだ。


涼さんも、響子さんも、唇を、噛み締め、その、目に、涙を、浮かべていた。

派閥など、関係なかった。

わたしたちは、ただ、一人の、大切な、仲間を、失ったのだ。


わたしは、ノートを、見つめていた。

わたしの、聖書は、希望の、物語に、なるはずだった。

しかし、その、最初の、ページは、仲間の、血で、真っ赤に、染まってしまった。


その、絶望的な、沈黙を、破ったのは、美咲さんだった。


彼女は、泣いていなかった。

その、顔は、能面のように、無表情だった。

しかし、その、瞳の、奥では、地獄の、業火が、燃え盛っていた。


「……撤収します」

彼女は、短く、言った。

「……ここは、もう、危険です。第二のアジトへ、移動します」


「……待って」

薊さんが、顔を、上げた。その、目は、涙で、真っ赤だったが、そこには、新しい、光が、宿っていた。

それは、憎悪でも、絶望でもない。

それは、沙月さんが、最後に、託した、希望の、光だった。


「……わたしも、闘うわ」

彼女は、言った。

「……もう、言葉だけでは、ない。この、身体で。この、痛みで。わたしは、沙月が、信じた、新しい、世界を、この手で、創造する」


彼女は、立ち上がった。

その、姿は、もはや、観念的な、思想家ではなかった。

それは、仲間の、死を、乗り越え、自らの、血と、肉体で、闘うことを、決意した、本物の、革命家の、姿だった。


しかし、その、薊さんの、前に、小夜子さんが、静かに、立ちはだかった。


「……その、気持ちは、わかります、薊さん」

彼女は、言った。その、声は、氷のように、冷たかった。

「……でも、あなたの、その、感傷は、今の、私たちにとっては、危険です。それは、組織を、破滅に、導く、ただの、弱さでしかない」


「……なんですって?」

薊さんの、目が、鋭くなる。


「……氷川沙月さんの、死は、悲劇です」小夜子さんは、続けた。「しかし、それは、予測可能な、リスクでした。戦争に、犠牲は、つきものです。わたしたちは、その、一つ一つの、犠牲に、心を、痛めている、暇は、ない。もっと、大局的に、物事を、考えなければならないんです」


「……あなた……!」

薊さんの、全身から、怒りが、立ち上る。

「……沙月の、死を、ただの、リスクだと、言うの……! あなたには、心がないの……!」


「ありますよ」

小夜子さんは、静かに、微笑んだ。

「……でも、わたしの、心は、この、闘争に、勝利するために、最適化されているだけです。感傷や、同情といった、不必要な、感情は、とうの昔に、切り捨てました」


二人の、女王が、真っ向から、対立する。

破壊の、先にある、創造を、信じる、薊さん。

勝利の、ために、全てを、切り捨てる、小夜子さん。


そして、その、対立を、静かに、見つめていた、美咲さんが、最終的な、審判を、下した。


「……小夜子さんの、言う通りです」


その、一言が、全てを、決定づけた。


「……薊さん。あなたの、気持ちは、痛いほど、わかります。でも、今は、非情に、ならなければ、ならない。沙月さんの、死を、無駄にしないためにも、わたしたちは、勝たなければならないんです。そのためには、一切の、感傷は、不要です」


美咲さんは、司令塔として、組織の、合理性を、選んだのだ。

薊さんの、その、人間的な、痛みごと、切り捨てることを。


「……そう」

薊さんは、力なく、呟いた。

その、瞳から、光が、消えていくのを、わたしは、見た。

彼女は、再び、独りに、なったのだ。

この、冷たい、合理性だけが、支配する、世界で。


わたしは、思った。

これが、わたしたちの、組織の、正体なのだ、と。

わたしたちは、ウロボロスと、闘っている、つもりだった。

でも、わたしたちは、いつの間にか、ウロボロスと、同じ、怪物に、なってしまっていたのではないか。

目的のためなら、仲間さえも、駒として、切り捨てる、冷酷な、システムに。


わたしの、聖書は、どこで、道を、間違えたのだろう。

希望の、物語は、どこへ、行ってしまったのだろう。


わたしは、ノートの、新しい、ページを、開いた。

そして、震える手で、書き記した。


『氷川沙月、死亡。享年、二十二歳。彼女は、星になった。しかし、その、光は、もう、わたしたちには、届かない』


わたしたちの、組織に、走った、決定的な、亀裂。

それは、もはや、修復不可能な、深さに、達していた。


わたしたちの、本当の、地獄は、まだ、その、入り口に、過ぎなかったのかもしれない。

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