第19話

わたしたちの、聖書の、新しい、章が、始まった。

それは、復讐の、物語ではなかった。

それは、希望の、物語だった。

たとえ、その、希望が、血に、塗れていたとしても。


株主総会という、白日の、下での、断罪劇から、半年が、過ぎた。

わたしたちが、白日の下に、姿を、現したのは、後にも、先にも、その、一度きりだった。

わたしたちは、再び、地下へと、潜った。

東京の、西の、奥深く、社会から、忘れ去られた、廃墟の、中で、息を、潜め、次の、闘争の、ための、牙を、研ぎ澄ませていた。


あの、一件で、世界は、確かに、少しだけ、変わった。

わたしたちが、標的にした、製薬会社は、その、社会的信用を、完全に、失墜させ、社長は、辞任に、追い込まれた。非合法な、臨床試験の、被害者たちには、莫大な、賠償金が、支払われ、彼女たちの、声は、初めて、社会に、届いた。

わたしたちは、確かに、勝利したのだ。


そして、その、勝利は、わたしたち、自身をも、変えた。

高円寺の、アジトで、互いに、疑心暗鬼に、陥っていた、あの頃の、脆さは、もう、どこにもなかった。

わたしたちは、幾多の、修羅場を、共に、くぐり抜け、そして、巨大な、敵を、打ち破った、という、共通の、成功体験によって、強固な、一枚岩の、組織へと、生まれ変わっていた。

そこには、もはや、思想派も、実践派も、なかった。

ただ、一つの、目的のために、自らの、全てを、捧げる、覚悟を、持った、戦士たちの、集団が、あるだけだった。


権力構造もまた、より、明確な、形を、とっていた。

美咲さんは、絶対的な、司令塔として、組織の、頂点に、君臨した。彼女の、言葉は、法であり、その、判断に、異を、唱える者は、誰も、いなかった。

小夜子さんは、その、冷徹な、参謀として、彼女を、支え、組織の、実務の、全てを、取り仕切った。

薊さんと、涼さんは、それぞれの、分野における、最高指揮官として、メンバーの、教育と、訓練を、担当した。

そして、わたしは。

わたしは、その、全ての、活動を、記録し、分析し、そして、時には、美咲さんの、相談相手となる、組織の、「目」であり、「記憶」であった。


潜入捜査官としての、任務を、成功させた、わたしは、仲間たちから、一定の、敬意を、払われるようになっていた。もう、誰も、わたしを、ただの、おとなしい、書記係だとは、思っていない。わたしもまた、この、闘争の、中で、自分の、武器を、見つけたのだ。


わたしたちは、静かな、しかし、充実した、日々を、送っていた。

午前中は、薊さんの、講義。午後は、涼さんと、響子さんの、戦闘訓練。夜は、美咲さんと、小夜子さんを、中心とした、作戦会議。

それは、まるで、革命家の、ための、学校のようだった。


しかし、その、穏やかな、日々の、水面下で、何かが、少しずつ、変わり始めているのを、わたしは、感じていた。

それは、ごく、些細な、変化だった。

しかし、その、変化は、やがて、わたしたちの、組織を、根底から、揺るがす、巨大な、亀裂へと、繋がっていく、予兆のようにも、思えた。



変化は、薊さんから、始まった。

父親を、自らの、手で、社会的に、抹殺した、彼女は、その、個人的な、復讐の、呪縛から、解放された、はずだった。

しかし、その、魂の、空白を、埋めるように、彼女は、より、純粋で、より、過激な、思想へと、傾倒していった。


彼女の、講義は、日に日に、その、難解さと、抽象度を、増していった。

彼女は、もはや、具体的な、社会問題や、フェミニズムの、歴史を、語ることはなかった。

彼女が、語るのは、言語と、権力の、関係性。

フーコー、デリダ、そして、ラカン。

彼女は、その、ポスト構造主義の、哲学を、武器に、この、世界の、全てを、解体しようとしているようだった。


「……わたしたちが、闘うべき、敵は、特定の、個人や、組織では、ない」

ある日の、講義で、彼女は、言った。その、目は、狂信者のように、爛々と、輝いていた。

「……真の、敵は、この、世界を、支配している、『言説』そのものよ。男性、女性、という、二元論的な、カテゴリー。正常と、異常を、分かつ、境界線。それら、全てが、権力が、作り出した、虚構の、檻なのよ。わたしたちは、その、檻、そのものを、破壊しなければならない。言葉を、超えた、言葉で。思想を、超えた、思想で」


その、あまりにも、抽象的な、言葉に、メンバーの、多くは、戸惑いを、隠せなかった。

特に、涼さんたち、実践派の、メンバーにとっては、それは、理解不能な、戯言にしか、聞こえなかっただろう。


「……また、始まったぜ、薊の、説教が」

涼さんが、ぼそり、と呟くのが、聞こえた。

響子さんは、黙って、腕を、組んでいる。彼女は、本を、読むようには、なったが、薊さんの、この、難解な、理論には、ついていけていないようだった。


そして、その、亀裂は、次の、ターゲットを、決める、作戦会議で、決定的な、ものとなった。


「……次の、標的は、彼女です」

その日、美咲さんが、テーブルの上に、置いたのは、一人の、女性の、写真だった。

年は、四十代後半。

知的な、眼鏡の、奥で、力強い、瞳が、こちらを、見つめている。

その、顔は、わたしも、テレビで、何度も、見たことがあった。


「……大河内、さつき……」

沙月さんが、驚きの、声を、あげた。


大河内さつき。

野党の、女性議員。

彼女は、元、人権派の、弁護士で、その、クリーンな、イメージと、歯に衣着せぬ、物言いで、国民から、絶大な、支持を、得ていた。

彼女は、女性の、社会進出を、訴え、選択的夫婦別姓や、同性婚の、法制化にも、積極的に、取り組んでいる、まさに、現代の、フェミニストの、アイコンとも、言うべき、存在だった。


「……彼女が、なぜ、ターゲットなんですか?」

わたしは、尋ねた。


「彼女は、偽物だからです」

美咲さんは、きっぱりと、言った。

「……彼女は、表向きは、女性の、味方の、ふりを、しながら、その、裏では、ウロボロスの、残党と、手を、結んでいる。そして、自らの、政治的、地位を、利用して、弱い、立場の、女性たちを、食い物にする、悪質な、NPO法人を、運営しているんです」


美咲さんが、提示した、資料は、衝撃的な、ものだった。

その、NPO法人は、DV被害者や、家出少女を、保護するという、名目で、彼女たちを、安価な、労働力として、搾取し、その、一部は、裏社会の、性産業へと、流されている、というのだ。

そして、その、利益の、一部が、大河内さつきと、ウロボロスの、残党へと、流れている、と。


「……なんという、偽善……」

涼さんが、怒りに、声を、震わせた。


「ええ」美咲さんは、頷いた。「彼女は、斉藤健介や、一条正宗よりも、さらに、たちが、悪い。なぜなら、彼女は、『正義』や、『女性解放』という、美しい、仮面を、被っているから。彼女の、存在は、真に、闘う、女性たちへの、最大の、裏切りです」


「……彼女を、断罪しなければならない」

誰もが、そう、思った。


しかし、その時、静かに、口を開いたのは、薊さんだった。


「……待ちなさい」


その、声は、冷たく、そして、どこか、悲しげだった。


「……本当に、そうかしら」

彼女は、言った。

「……彼女は、本当に、ただの、偽善者なのかしら」


「……どういう、意味ですか、薊さん」

小夜子さんが、訝しげに、尋ねた。


「……考えても、みなさい」薊さんは、続けた。「この、男性中心の、政治の、世界で、一人の、女性が、ここまでの、地位に、上り詰めることが、どれほど、困難なことか。彼女は、闘ってきたはずよ。何度も、裏切られ、傷つけられ、それでも、歯を、食いしばって。その、過程で、彼女は、悪魔に、魂を、売らなければ、ならなかったのかもしれない。生き残るために。そして、自らの、理想を、少しでも、実現するために」


「……だとしても、彼女の、やっていることは、許されない!」涼さんが、叫んだ。


「ええ、許されないわ」薊さんは、静かに、同意した。「でも、わたしたちが、彼女を、ただ、断罪し、抹殺することが、本当に、正しいことなのかしら。それは、結局、男性たちが、作り上げた、この、ゲームの、ルールの上で、踊らされているだけでは、ないの? 女同士で、潰し合い、足を、引っ張り合う。それこそ、家父長制が、最も、望む、光景だわ」


薊さんの、その、言葉に、部室は、静まり返った。

それは、わたしたちが、これまで、目を、逸らしてきた、問いだった。

わたしたちの、正義は、本当に、正しいのか?

わたしたちは、破壊するだけで、何かを、生み出すことが、できるのか?


「……では、どうしろと、言うんですか、薊さん」

美咲さんが、冷たい声で、尋ねた。彼女の、目には、薊さんの、その、逡巡が、ただの、感傷として、映っているようだった。


「……対話を、すべきよ」

薊さんは、言った。

「……彼女と、会って、話すべきだわ。彼女の、痛みと、わたしたちの、痛みを、ぶつけ合う。その先にしか、本当の、解決は、ない」


「対話?」涼さんは、鼻で笑った。「そんな、甘っちょろいことで、何が、変わるってんだよ」


「変わるわ」薊さんは、きっぱりと、言った。「変わらなければ、ならないのよ。わたしたちは、もう、ただの、破壊者では、いられない。わたしたちは、新しい、世界を、創造しなければならないのだから」


二人の、女王の、意見が、再び、真っ向から、衝突した。

しかし、それは、もはや、思想と、暴力の、対立ではなかった。

それは、「破壊」の、論理と、「創造」の、論理の、対立だった。


そして、その、対立を、静かに、見つめていた、小夜子さんが、口を開いた。


「……どちらも、一理、ありますね」

彼女は、言った。

「……では、こうしましょう。まず、わたしたちの、やり方で、彼女を、追い詰めます。潜入し、証拠を、掴み、彼女を、社会的に、抹殺する、一歩、手前まで」


彼女は、そこで、一度、言葉を切ると、薊さんを、見た。


「……そして、その、最後の、段階で、あなたが、彼女と、対話するんです、薊さん。完全に、丸裸にされ、逃げ場を、失った、彼女と。その時、彼女が、どのような、言葉を、語るのか。それを見極めてから、最終的な、処分を、決めても、遅くは、ないでしょう」


それは、あまりにも、巧妙な、妥協案だった。

そして、あまりにも、残酷な、提案だった。

相手を、完全に、無力化しておいてからの、対話。

それは、もはや、対話では、ない。

それは、尋問であり、調教だ。


しかし、薊さんは、その、提案を、受け入れた。

彼女には、それしか、選択肢が、なかったのだ。

自らの、理想を、少しでも、実現するためには、小夜子さんの、その、悪魔的な、ゲームの、ルールに、乗るしか、なかった。


わたしは、その、光景を、記録しながら、深い、絶望を、感じていた。

わたしたちは、変わった、と、思った。

でも、何も、変わってはいなかったのかもしれない。

わたしたちは、ただ、より、狡猾に、より、洗練された、方法で、他者の、魂を、支配しようとしているだけなのではないか。


わたしの、聖書は、希望の、物語に、なるはずだった。

しかし、その、ページは、また、黒い、インクで、塗りつぶされていく。



今回の、潜入任務は、わたしではなかった。

選ばれたのは、沙月さんだった。

彼女は、その、知的な、雰囲気と、完璧な、マナーを、武器に、大河内さつきが、主催する、政治資金パーティーに、ボランティアスタッフとして、潜り込むことに、成功した。


そして、わたしは、その後方支援と、情報分析を、担当することになった。


わたしは、沙月さんが、身につけた、超小型の、盗聴器から、送られてくる、音声を、ヘッドホンで、聞きながら、その、全てを、記録していく。


パーティー会場の、華やかな、音楽。

権力者たちの、下品な、笑い声。

そして、大河内さつきの、その、力強く、しかし、どこか、空虚な、演説。


『……わたしたちは、女性が、輝ける、社会を、作らなければなりません!』


その、言葉が、ヘッドホンから、聞こえてきた時、わたしは、強い、吐き気を、覚えた。


その夜、沙月さんは、見事に、任務を、果たした。

彼女は、大河内さつきの、側近の、一人に、取り入り、その、信頼を、勝ち取ることに、成功したのだ。

そして、その、側近から、NPO法人の、裏帳簿が、隠されている、金庫の、場所と、その、暗証番号を、聞き出すことに、成功した。


わたしたちは、勝利を、確信した。


しかし、その、時、わたしは、まだ、気づいていなかった。

これが、ウロボロスの、残党が、仕掛けた、巧妙な、罠の、始まりである、ということに。


そして、この、任務が、わたしたちの、仲間の一人を、永遠に、失う、悲劇の、序章となる、ということを。


わたしたちの、聖書の、ページが、また、一枚、血で、汚されようとしていた。

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