第18話

乾いた、銃声が、響いた。


横浜の、古い、倉庫街。潮風と、錆の、匂いが、混じり合った、その、空間で、一つの、神話が、終わりを、告げた。

一条正宗。この国の、闇、そのものだった、男。

彼が、自らの、娘の、手によって、断罪される、その、光景を、わたしは、瞼の、裏に、焼き付けながら、意識を、失いそうになっていた。


警察隊の、怒号。

黒服の、男たちの、悲鳴。

砕け散る、ガラスの、音。


全てが、混じり合い、わたしの、頭の中で、不協和音を、奏でる。

わたしたちの、計画は、成功したのだ。

しかし、それは、わたしたちの、勝利ではなかった。

それは、ただ、巨大な、悪が、別の、巨大な、悪に、取って代わられただけの、権力移動の、儀式に、過ぎなかったのかもしれない。


『――晶さん、聞こえますか。撤収します』


イヤホンから、聞こえてきたのは、小夜子さんの、氷のように、冷静な、声だった。


『……でも、薊さんが……』


『彼女なら、大丈夫です。涼さんたちが、ついています。さあ、早く。わたしたちの、仕事は、まだ、終わっていません』


わたしは、その、声に、導かれるように、立ち上がった。

混乱の、中、わたしたちは、まるで、幽霊のように、その、場所から、姿を、消した。

警察も、ウロボロスの、残党も、誰も、わたしたちの、存在に、気づいてはいなかった。

わたしたちは、この、事件の、中心に、いながら、誰にも、認識されない、透明な、存在だった。


そして、その、夜。

わたしたちは、伝説になった。



あれから、三ヶ月が、過ぎた。


高円寺の、あのアジトは、もう、ない。

わたしたちは、東京の、西の、さらに、奥深く、山の中に、潜んでいた。

そこは、かつて、ある、新興宗教団体が、使っていたという、廃墟だった。電気も、水道も、通っていない、打ち捨てられた、場所。

しかし、わたしたちにとっては、ここが、新しい、城だった。

社会から、完全に、隔絶された、わたしたちだけの、王国。


世界は、わたしたちが、引き起こした、激震に、揺れていた。

一条正宗の、逮捕と、その後の、謎の、死。(公式には、拘置所での、自殺と、発表された)

斉藤健介の、失脚と、裁判。

そして、政界と、警察内部を、巻き込んだ、ウロボロス・スキャンダル。

テレビや、雑誌は、連日、その、話題で、持ちきりだった。


しかし、誰も、その、事件の、裏に、わたしたちが、いたことなど、知らない。

わたしたちは、歴史を、動かした、名もなき、テロリストだった。

あるいは、革命家だった。


この、三ヶ月で、わたしたちの、組織は、大きく、変わった。

大学の、サークルだった頃の、面影は、もう、どこにもない。

わたしたちは、より、洗練され、より、冷徹な、戦闘集団へと、生まれ変わっていた。


小夜子さんと、美咲さんの、指導の下、わたしたちは、新しい、訓練を、始めた。

それは、もはや、「告白と、聞くこと」の会のような、生ぬるい、ものではなかった。


午前中は、思想教育。

薊さんが、教官となり、わたしたちに、より、高度な、フェミニズム理論、政治哲学、そして、革命の、歴史を、叩き込んだ。

父親殺し、という、大罪を、犯した、彼女は、その、罪悪感を、振り払うかのように、憑かれたように、言葉を、紡いだ。その、言葉には、もはや、個人的な、憎悪の、影はなかった。そこにあるのは、この、腐った、世界を、根底から、変革するための、純粋な、知性の、炎だけだった。

沙月さんは、その、薊さんの、一番の、理解者として、彼女を、支え続けていた。二人の、間には、もはや、神と、信者の、関係ではなく、同じ、地獄を、見た、戦友としての、静かな、絆が、生まれていた。


午後は、戦闘訓練。

涼さんと、響子さんが、教官だった。

響子さんの、肩の、傷は、完全に、癒え、彼女は、以前よりも、さらに、強く、そして、賢くなっていた。

彼女たちは、わたしたちに、ただの、喧嘩ではない、プロフェッショナルな、戦闘技術を、教えた。格闘術、ナイフの、使い方、そして、銃の、分解と、組み立てまで。

涼さんは、言った。

「……言葉だけじゃ、自分は、守れねえ。思想だけじゃ、仲間は、救えねえ。最後に、必要なのは、自分の、身体を、武器に、変える、覚悟だ」

彼女たちの、訓練は、過酷を、極めた。

毎日、誰かが、泣き、誰かが、倒れた。

しかし、誰も、逃げ出さなかった。

わたしたちは、皆、わかっていたからだ。

この、力がなければ、わたしたちは、生き残れない、ということを。


そして、夜。

それは、わたしと、小夜子さんと、美咲さんの、時間だった。

わたしたちは、司令室と、名付けられた、一番、奥の、部屋で、世界の、情報を、分析し、次の、作戦を、練った。


ウロボロスは、首領を、失い、大きく、弱体化した。しかし、その、残党は、まだ、社会の、至る所に、根を、張っている。

わたしたちの、闘いは、まだ、終わっていなかった。


「……次の、ターゲットは、これです」

ある夜、美咲さんが、一枚の、資料を、テーブルの上に、置いた。

それは、大手、製薬会社の、内部資料だった。

「……この、会社は、ウロボロスの、資金源の、一つ。そして、開発中の、新薬の、臨床試験で、多数の、女性に、深刻な、副作用が、出ていることを、隠蔽しています。被害者の中には、命を、落とした、人も、いる」


「……また、権力者の、隠蔽か」

涼さんが、吐き捨てるように、言った。


「ええ」美咲さんは、頷いた。「そして、この、会社の、社長は、警察庁の、新しい、幹部と、癒着している。法では、裁けない、悪です。だから、わたしたちが、裁くんです」


「……どうやって?」薊さんが、尋ねた。


「方法は、これまでと、同じです」美咲さんは、答えた。「内部から、情報を、盗み出し、証拠を、掴む。そして、それを、武器に、彼らを、社会的に、抹殺する。必要であれば、物理的な、制裁も、加える」


「……潜入する、ということですか?」わたしは、尋ねた。


「その通りです」小夜子さんが、微笑んだ。「そして、その、潜入任務に、最も、適した、人材が、わたしたちの中には、います」


全員の、視線が、一人の、人物に、集まった。


わたしだった。


「……わたしが?」


「ええ、晶さん、あなたです」小夜子さんは、言った。「あなたは、この、中で、最も、一般人に、近い、外見と、雰囲気を持っている。そして、何より、あなたは、人の、心を、読むのが、うまい。あなたは、スパイとして、最高の、素質を、持っているんですよ」


わたしが、スパイ?

冗談では、なかった。

彼女たちは、本気だった。


わたしは、恐怖を、感じた。

わたしは、記録する、人間だ。

闘争の、前線に、立つ、人間では、ない。


しかし、わたしは、断れなかった。

美咲さんの、その、絶対的な、信頼に、満ちた、瞳。

小夜子さんの、その、期待に、満ちた、笑顔。

そして、仲間たちの、その、固唾を、飲んで、わたしを、見つめる、視線。


わたしは、もう、逃げることは、できなかった。

わたしも、この、闘争の、最前線に、立つ、兵士なのだ。


「……わかりました」

わたしは、震える声で、答えた。

「……やります」


その、瞬間、わたしの中で、何かが、変わった。

観測者としての、わたしが、死に、当事者としての、わたしが、生まれた、瞬間だったのかもしれない。



わたしは、その、製薬会社に、派遣社員として、潜入することになった。

偽造された、経歴と、身分証明書。

それは、薊さんの、父親の、残した、負の、遺産の一つだった。


わたしは、再び、社会の、中に、戻った。

満員電車に、揺られ、オフィスビルに、通う、日々。

それは、かつての、わたしが、夢見ていた、しかし、決して、手に入れることのできなかった、「普通」の、生活だった。


しかし、わたしは、もはや、「普通」の、人間ではなかった。

わたしは、スパイだった。

わたしの、目的は、この、会社の、心臓部に、潜り込み、その、腐った、秘密を、暴き出すこと。


わたしは、経理部に、配属された。

そこで、わたしは、持ち前の、真面目さと、几帳面さで、すぐに、上司の、信頼を、勝ち取った。

誰も、わたしが、元、闘争サークルの、メンバーであり、地下に、潜る、テロリスト組織の、一員であることなど、夢にも、思わないだろう。


わたしは、夜ごと、会社の、サーバーに、ハッキングを、試みた。

アジトの、小夜子さんと、連絡を、取り合いながら。

それは、危険な、綱渡りだった。

一度でも、ミスをすれば、全てが、終わる。


そして、潜入から、一ヶ月が、過ぎた頃。

わたしは、ついに、目的の、ファイルに、たどり着いた。

『プロジェクト・リリス』と、名付けられた、極秘ファイル。

そこには、新薬の、非合法な、臨床試験の、おぞましい、記録が、全て、記されていた。

副作用に、苦しむ、女性たちの、名前。

そして、闇に、葬られた、死亡者の、リスト。


わたしは、その、データを、全て、コピーした。

そして、その夜、わたしは、アジトに、戻り、皆に、報告した。


「……よく、やったわ、晶」

美咲さんが、わたしの、肩を、抱いた。

その、言葉に、わたしは、涙が、出そうになった。

わたしは、初めて、自分の、力で、何かを、成し遂げたのだ。


「……さて、第二段階です」

小夜子さんが、言った。

「……この、証拠を、どう、使うか。ただ、マスコミに、リークするだけでは、足りない。もっと、効果的に、彼らを、社会的に、抹殺する方法を、考えなければ」


その時、口を開いたのは、薊さんだった。

「……わたしに、考えが、あるわ」


彼女の、提案は、こうだった。

この、会社の、株主総会に、乗り込むのだ、と。

そして、全ての、株主と、マスコミの、前で、この、証拠を、突きつける。

会社の、トップを、公の、場で、断罪し、その、社会的、信用を、完全に、失墜させるのだ。


それは、あまりにも、大胆で、演劇的な、計画だった。

まさに、思想家である、彼女らしい、やり方だった。


「……面白い」

涼さんが、言った。

「……大観衆の、前で、社長の、ツラに、泥を、塗ってやるってわけか。気に入ったぜ」


計画は、承認された。

わたしたちは、再び、一つになった。

それぞれの、能力を、結集し、巨大な、敵に、立ち向かうために。


決戦の、場所は、都内の、一流ホテルで、開かれる、株主総会の、会場。

わたしは、今度は、経理部の、一員として、その、会場に、潜り込むことになった。


わたしは、ノートに、書き記した。


『わたしたちの、闘いは、もはや、地下の、ものではなくなった。わたしたちは、光の、下で、闘うのだ。そして、世界に、知らしめるのだ。わたしたちが、ここに、いる、ということを』


わたしは、もう、何も、怖くなかった。

わたしには、仲間がいる。

そして、わたしには、闘う、理由が、ある。


わたしの、聖書の、新しい、章が、今、始まろうとしていた。

それは、復讐の、物語ではなかった。

それは、希望の、物語だった。

たとえ、その、希望が、血に、塗れていたとしても。

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