第17話

わたしたちは、一度、死んだ。

そして、これから、生まれ変わるのだ。

より、強く、より、冷徹な、復讐の、女神として。


わたしの、ノートの、最後の、ページに、そう、書き記してから、どれくらいの、時間が、経っただろう。

高円寺の、アジトでの、潜伏生活は、まるで、終わりのない、緩慢な、拷問のようだった。

わたしたちは、嵐が、過ぎ去るのを、待っていた。

美咲さんが、そう、言ったから。

彼女は、ウロボロスと、警察幹部が、最も、油断しきった、瞬間を、待っているのだ、と。


しかし、その、「時」が、いつ、訪れるのか、誰にも、わからなかった。

六畳一間の、カビ臭い、密室。

窓は、固く、閉ざされ、カーテンも、開けることは、許されない。

わたしたちは、社会から、完全に、隔絶された、地下の、住人だった。

時間と、曜日の、感覚が、少しずつ、麻痺していく。

わたしたちの、世界は、この、六畳の、空間だけになった。


その、閉塞した、空間の中で、わたしたちの、関係性は、否応なく、変化していった。


響子さんの、肩の、傷は、裏社会の、医者の、おかげで、幸いにも、順調に、回復していた。しかし、彼女の、心に、刻まれた、傷は、もっと、深く、複雑だった。

彼女は、もう、以前のように、ただ、涼さんの、後ろについて、歩く、忠実な、犬ではなかった。

死の、淵を、覗いた、彼女の、目には、静かな、思索の、色が、宿っていた。

彼女は、アジトの、隅で、黙々と、本を、読むようになった。それは、これまで、彼女が、最も、軽蔑していたはずの、思想派の、メンバーたちが、残していった、フェミニズムの、入門書だった。


「……何、読んでんだよ、響子」

ある日、涼さんが、不思議そうに、彼女に、尋ねた。

「……別に」

響子さんは、短く、そう、答えるだけだった。

二人の、間には、微妙な、距離が、生まれていた。それは、決して、仲が、悪くなった、というわけではない。むしろ、逆だった。響子さんは、涼さんへの、依存から、脱却し、初めて、一人の、人間として、自立しようとしていた。そして、涼さんもまた、そんな、彼女の、変化を、戸惑いながらも、どこか、誇らしげに、見守っているようだった。

実践派の、女王と、その、右腕、という、単純な、主従関係は、終わりを、告げたのだ。

彼女たちは、新しい、対等な、関係性を、模索し始めていた。


それは、薊さんと、沙月さんの、関係も、同じだった。

薊さんは、父親を、破滅させる、という、長年の、宿願を、果たした後、まるで、抜け殻のようになっていた。彼女は、もう、難しい、理論を、語ることはなかった。ただ、静かに、窓の、外の、見えない、景色を、眺めていることが、多かった。

そんな、彼女に、寄り添っていたのが、沙月さんだった。

しかし、その、関係もまた、変わっていた。

沙月さんは、もはや、薊さんを、神として、崇拝してはいなかった。彼女は、傷つき、弱った、一人の、人間としての、薊さんを、ただ、静かに、支えようとしているように、見えた。

ある時、わたしは、沙月さんが、薊さんの、髪を、優しく、梳かしているのを、目撃した。その、光景は、あまりにも、穏やかで、そして、あまりにも、切なかった。

思想の、呪縛から、解き放たれた、二人の、魂が、初めて、人間的な、温かさで、触れ合った、瞬間だったのかもしれない。


そして、わたしと、小夜子さんと、美咲さん。

わたしたち、三人の、関係は、この、組織の、新しい、権力構造、そのものだった。


美咲さんは、絶対的な、司令塔だった。

彼女の、言葉は、常に、冷静で、的確で、そして、誰もが、逆らうことのできない、重みを、持っていた。彼女は、決して、感情的に、なることはなかった。ただ、冷徹に、状況を、分析し、最善の、一手を、導き出す。その、姿は、まるで、百戦錬磨の、将軍のようだった。


小夜子さんは、その、有能な、参謀だった。

彼女は、美咲さんの、立てた、戦略を、具体的な、戦術へと、落とし込み、そして、メンバー、一人一人に、的確な、指示を、与えた。彼女の、人心掌握術は、健在だった。彼女は、メンバーたちの、心の、機微を、巧みに、読み取り、時には、優しく、時には、厳しく、彼女たちを、導いた。アジト内の、秩序は、完全に、彼女によって、保たれていた。


そして、わたしは。

わたしは、その、二人の、間で、揺れ動いていた。

わたしは、美咲さんの、その、圧倒的な、カリスマ性と、革命家としての、崇高な、理想に、強く、惹かれていた。彼女の、隣に、いる時、わたしは、自分が、何か、大きな、歴史の、一部に、なっているような、高揚感を、感じた。

しかし、同時に、わたしは、小夜子さんの、その、悪魔的な、魅力からも、逃れることが、できなかった。彼女と、二人きりで、PCの、前に、座り、世界の、闇を、暴き出していく、あの、背徳的な、時間は、わたしに、倒錯した、快感を、与えた。


わたしは、光と、闇、その、両方に、仕える、巫女だった。

そして、その、危うい、バランスの上で、わたしは、かろうじて、自分を、保っていた。


わたしの、ノートは、日に日に、厚みを、増していった。

そこには、もはや、個人的な、告白は、記されていない。

そこにあるのは、ウロボロスという、巨大な、悪の、分析。

警察内部の、腐敗の、構造。

そして、わたしたちが、これから、仕掛ける、戦争の、詳細な、計画。

それは、もはや、聖書ではなかった。

それは、革命の、ための、設計図だった。



潜伏生活が、一ヶ月を、過ぎた頃。

ついに、敵が、動いた。


それは、一本の、電話から、始まった。

アジトに、新しく、設置された、暗号化された、電話が、鳴ったのだ。

電話に、出たのは、小夜子さんだった。


「……はい、こちら、小津」


彼女は、偽名を、使っていた。


しばらくの、沈黙。

受話器の、向こうの、相手は、名乗らない。

ただ、機械で、変えられたような、無機質な、声が、聞こえてくるだけだった。


「……君たちの、ことは、高く、評価している」

その、声は、言った。

「……先日の、斉藤健介の、件、見事な、手際だった。我々の、手を、煩わせることなく、邪魔者を、消してくれた」


わたしは、息を飲んだ。

ウロボロスからの、直接の、接触だ。


「……光栄です」

小夜子さんは、冷静に、答えた。


「そこで、君たちに、新しい、仕事を、頼みたい」

声は、続けた。

「……もちろん、報酬は、前回の、比では、ない。君たちが、一生、遊んで暮らせるだけの、金を、用意しよう」


「……内容は?」


「……ある、人物の、暗殺だ」


暗殺。

その、言葉に、部屋の、空気が、凍りついた。

わたしたちは、ついに、本物の、殺しを、請け負う、組織に、なろうとしている。


「……ターゲットは?」


「……神崎」


神崎。

あの、国会で、一条幹事長を、追及した、野党の、若手議員。

わたしたちが、利用した、あの、男。


「……彼は、知りすぎた。我々の、存在に、気づき始めている。これ以上、生かしておくわけには、いかない」


「……わかりました」

小夜子さんは、即答した。

「……お受けします。ただし、条件が、あります」


「何だ?」


「……あなたの、正体を、教えてください。わたしたちは、顔の、見えない、相手とは、取引しません」


その、あまりにも、大胆な、要求に、わたしは、耳を、疑った。


受話器の、向こうで、相手が、少しだけ、笑ったような、気配がした。


「……面白い。気に入ったよ、君」

声は、言った。

「……いいだろう。一度だけ、会ってやる。場所と、時間は、後で、指示する。ただし、来るのは、君、一人だ。他の、仲間を、連れてくれば、どうなるか、わかるな?」


「……承知しました」


電話は、切れた。


小夜子さんは、受話器を、置くと、わたしたちを、見渡した。


「……罠、ですね」

彼女は、静かに、言った。


「当たり前だ」涼さんが、言った。「一人で、行かせるわけには、いかねえ」


「でも、行くしか、ありません」小夜子さんは、首を、振った。「これは、彼らの、正体を、知る、唯一の、チャンスです」


「……危険すぎるわ」薊さんが、言った。「あなたは、組織の、頭脳。あなたを、失うわけには、いかない」


「……わたしが、行きます」


静かに、言ったのは、美咲さんだった。


「……え?」

誰もが、彼女の、顔を、見た。


「……彼らが、会いたいのは、この、組織の、リーダーでしょう?」美咲さんは、言った。「だったら、わたしが、行くのが、筋です。そして、これは、罠であると、同時に、好機でもある。彼らが、油断して、姿を、現す、この、機会を、逃す手は、ありません」


「……でも!」わたしは、思わず、言った。「危険すぎます!」


「大丈夫です」

美咲さんは、わたしを見て、微笑んだ。

「……わたしは、もう、独りでは、ありませんから」


彼女の、その、覚悟に、満ちた、瞳に、誰も、反対することは、できなかった。


こうして、わたしたちの、運命を、賭けた、最大の、ギャンブルが、始まった。

美咲さんが、一人で、敵の、本拠地に、乗り込む。

そして、わたしたちは、その、背後で、彼女を、援護し、そして、敵の、正体を、暴き出すのだ。


作戦は、かつてないほど、緻密に、練られた。

涼さんと、響子さんは、美咲さんの、護衛兼、バックアップとして、潜入ルートを、確保する。

薊さんと、沙月さんは、敵が、指定してきた、場所の、情報を、徹底的に、洗い出し、罠の、可能性を、シミュレートする。

そして、わたしと、小夜子さんは、司令室で、全ての、情報を、統括し、リアルタイムで、指示を、出す。


わたしは、ノートに、書き記した。


『最終戦争、開始』


もう、後戻りは、できない。

わたしたちは、この、闘いで、全てを、手に入れるか、あるいは、全てを、失うかの、どちらかなのだ。


決戦の、場所は、横浜の、港にある、古い、倉庫街だった。

夜の、闇に、包まれた、その場所は、まるで、巨大な、墓場のようだった。


美咲さんは、一人で、車を、降りた。

黒い、ドレスに、身を包んだ、彼女の、姿は、まるで、闇に、咲く、一輪の、花のようだった。

彼女の、耳には、超小型の、無線機が、仕込まれている。


『……聞こえますか、晶さん』

彼女の、声が、わたしの、イヤホンに、響く。

「……聞こえるわ、美咲。気をつけて」


彼女は、指定された、倉庫の、中へと、入っていった。

倉庫の、中は、がらんとしていて、薄暗い、電球が、一つ、灯っているだけだった。

その、中央に、一人の、男が、立っていた。

背広を、着た、初老の、男。

その、顔には、深い、皺が、刻まれ、その、目は、底なしの、沼のように、暗い。


「……よく、来たな、小津小夜子くん」

男は、言った。彼は、美咲さんのことを、小夜子さんだと、思っているのだ。


「……あなたが、ウロボロスの?」

美咲さんの、声は、震えていなかった。


「いかにも」男は、頷いた。「わたしが、この、国の、本当の、王だ」


その、尊大な、物言いに、わたしは、吐き気を、覚えた。


「……それで、神崎の、暗殺は、どうなっている?」


「その前に、約束を、果たして、いただきたい」美咲さんは、言った。「あなたの、正体を、教えてください」


男は、面白そうに、笑った。

「……いいだろう。どうせ、君は、ここから、生きては、帰れないのだから」


彼は、言った。

「……わたしの、名前は、一条、正宗」


その、名前に、わたしは、息を飲んだ。

そして、イヤホンを、通じて、アジトにいる、薊さんの、小さな、悲鳴が、聞こえた。


一条、正宗。

それは、薊さんの、父親の、名前だった。

彼が、ウロボロスの、首領?

失脚したはずの、彼が、なぜ、ここに?


「……驚いたかね?」

一条正宗は、楽しそうに、言った。

「……政治家など、わたしの、数ある、顔の、一つに、過ぎんよ。わたしは、この、国の、闇、そのものだ。そして、お前たちのような、生意気な、虫けらを、潰すことなど、造作もない」


彼は、手を、挙げた。

すると、倉庫の、暗闇から、何人もの、黒服の、男たちが、現れ、美咲さんを、取り囲んだ。


「……さて、ゲームは、終わりだ」

一条正宗は、言った。

「……お前たちの、アジトも、仲間の、顔も、全て、割れている。今頃、お前たちの、可愛い、仲間たちは、皆殺しに、なっているだろう」


その、言葉に、わたしの、血の気が、引いた。

これは、罠だったのだ。

最初から、わたしたちを、一網打尽にするための。


「……美咲! 逃げて!」

わたしは、絶叫した。


しかし、美咲さんは、動かなかった。

彼女は、絶望的な、状況の中で、ただ、静かに、微笑んでいた。


そして、言った。


「……ゲームは、終わり? いいえ、一条さん。ゲームは、今、始まったばかりですよ」


彼女が、そう、言った、瞬間。


倉庫の、外から、無数の、車の、ヘッドライトが、一斉に、倉庫の、中を、照らし出した。

そして、拡声器を、通した、大音量の、声が、響き渡った。


「――動くな! 警察だ! 全員、武器を、捨てて、投降しろ!」


警察?

どういうことだ?


わたしが、混乱していると、イヤホンから、小夜子さんの、冷静な、声が、聞こえてきた。


『……うまくいきましたね、晶さん。第二段階、成功です』


第二段階?


『……ウロボロスの、情報を、リークしたのは、裏社会の、組織だけでは、ありません。警察の、内部にも、リークしたんです。あなたの、お父様を、失脚させた、神崎議員の、ルートを使ってね。警察内部にも、まだ、正義感の、残っている、人間は、いた、というわけです』


そうか。

これも、全て、美咲さんと、小夜子さんの、計画だったのだ。

ウロボロスが、わたしたちを、罠に、かけようとしていることを、逆手に、取って、彼らを、一網打尽にするための、壮大な、罠を、仕掛けていたのだ。


倉庫の、中では、激しい、銃撃戦が、始まっていた。

黒服の、男たちと、突入してきた、警官隊との。


その、混乱の、中で、一条正宗は、顔面蒼白で、立ち尽くしていた。

自らの、王国が、崩壊していく、様を、信じられない、というように。


そして、その、彼の、前に、一人の、人物が、立った。


薊さんだった。

彼女は、いつの間に、ここに。


「……お父様」

彼女は、静かに、言った。

「……あなたの、ゲームは、終わりです」


「……あ、あざみ……。なぜ、お前が……」


「……あなたを、終わらせるために、来ました」


彼女の、手には、一丁の、拳銃が、握られていた。

それは、涼さんが、どこかから、調達してきた、ものだった。


「……さようなら、お父様」


乾いた、銃声が、響いた。


わたしは、目を、閉じた。


わたしたちの、聖書の、最終章は、こうして、幕を、閉じた。

父殺し、という、最も、根源的な、罪によって。


しかし、わたしたちの、物語は、まだ、終わらない。

わたしたちは、これからも、闘い続ける。

この、腐った、世界が、続く限り。


わたしは、ノートの、最後の、ページに、書き記した。


『――そして、わたしたちは、伝説になった』

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