第15話
わたしたちの、本当の、地獄が、始まった。
でも、その、地獄の、中に、確かに、一筋の、希望の、光が、差し込んでいるのを、わたしは、感じていた。
わたしたちの、
それは、もはや、ただの、破壊ではなかった。
それは、生き残るための、そして、未来を、作るための、聖なる、闘争だった。
美咲さんの、その、あまりにも、大胆で、あまりにも、冷徹な、計画は、その日の、うちに、実行へと、移された。
高円寺の、六畳一間が、わたしたちの、作戦司令室となった。
壁に、貼られた、ホワイトボードには、新宿二丁目の、詳細な、地図と、タイムスケジュール、そして、複雑な、暗号で、書かれた、メンバーの、役割分担が、記されている。
空気は、張り詰め、誰もが、自らの、役割を、再確認し、その、瞬間に、備えていた。
作戦は、三つの、チームに、分かれて、同時に、進行する。
第一班、接触・救出チーム。
リーダーは、もちろん、橘涼さんだった。彼女と、数人の、旧実践派の、メンバーが、この、最も、危険な、任務に、就いた。彼女たちの、目的は、ただ一つ。ウロボロスの、監視の、目を、かいくぐり、新宿二丁目で、潜伏しているであろう、野々村響子さんに、接触し、彼女を、安全な、場所へと、保護すること。
涼さんは、作戦会議の後、一度だけ、短く、言った。
「……響子は、おれが、必ず、連れ戻す。あいつを、死なせるわけには、いかねえ」
その、瞳には、かつての、王の、プライドと、そして、仲間への、深い、愛情が、宿っていた。彼女は、もはや、ただの、暴力装置ではなかった。彼女は、守るべき、もののために、闘う、戦士だった。
第二班、偽装工作チーム。
リーダーは、一条薊さん。彼女と、氷川沙月さんたち、旧思想派の、メンバーが、この、汚れ仕事を、引き受けた。彼女たちの、任務は、美咲さんが、立案した、あの、恐るべき、計画を、実行すること。つまり、響子さんの、死体を、偽装するための、身代わりの、死体を、手に入れること。
薊さんは、アジトの、隅で、一本の、電話を、かけていた。相手は、おそらく、彼女の、父親が、懇意にしていたという、裏社会の、医者だろう。
「……ええ、わたしは、一条の、娘です」
彼女の、声は、感情を、一切、排した、ビジネスライクな、ものだった。
「……お願いしたい、仕事が、ありますの。少々、汚い、仕事ですけれど、報酬は、弾みますわ。ええ、詳細は、後ほど……」
電話を、切った、彼女の、横顔は、能面のようだった。彼女は、自らが、最も、憎んでいた、家父長制の、その、最も、醜悪な、部分と、今、手を、結ぼうとしている。その、自己矛盾を、彼女は、どう、乗り越えようと、しているのだろうか。わたしには、想像も、つかなかった。
そして、第三班、司令・情報分析チーム。
それが、わたしと、小夜子さん、そして、美咲さんの、役割だった。
わたしたちは、アジトに、残り、各チームからの、情報を、集約し、作戦全体の、指揮を、執る。
美咲さんは、司令塔として、冷静に、盤面を、見つめている。
小夜子さんは、その、参謀として、PCを、駆使し、リアルタイムで、変化する、状況を、分析し、予測する。
そして、わたしは、その、全てを、記録する。
わたしたちの、闘争の、一瞬、一瞬を、未来へと、伝えるために。
わたしは、ノートの、新しい、ページを、開いた。
そして、そこに、こう、書き記した。
『ウロボロス殲滅作戦、フェーズ1、開始』
わたしたちの、戦争が、始まった。
*
最初に、動きがあったのは、涼さんたちの、接触・救出チームからだった。
彼女たちは、夜の、闇に、紛れて、新宿二丁目の、街へと、消えていった。
アジトには、無線機から、聞こえてくる、断片的な、報告だけが、届く。
『……こちら、涼。二丁目に、入った。いつもより、空気が、重い。見張りが、いるな』
涼さんの、低い、声。
その、声だけで、現地の、緊張感が、伝わってくる。
『……どこに、いるんだ、響子……』
涼さんは、かつて、自分たちの、庭だった、その、街を、今は、敵地として、進んでいる。
ネオンの、光が、猥雑に、きらめく、その、裏側で、見えない、敵の、視線が、光っている。
小夜子さんが、PCの、キーボードを、叩きながら、言った。
「……響子さんが、経営しているという、バー。名前は、『ノックアウト』。場所は、仲通りから、一本、入った、路地裏の、雑居ビルの、二階。常連客しか、寄り付かない、小さな、店です。おそらく、そこに、いるはず」
「……店の、周りに、見張りは?」美咲さんが、尋ねた。
「います」小夜子さんは、即答した。「ビルの、向かいの、コインパーキングに、一台の、黒い、セダン。中に、二人。おそらく、ウロボロスの、人間です」
「……涼さんたちだけで、大丈夫かしら」薊さんが、心配そうに、呟いた。
「大丈夫ですよ」小夜子さんは、言った。「涼さんは、プロですから。こういう、修羅場は、慣れています」
その、言葉通り、数十分後、無線機から、涼さんの、声が、聞こえてきた。
『……裏口から、侵入した。今、店の、中に、いる。……いたぞ、響子だ』
その、声には、安堵と、そして、わずかな、驚きが、含まれていた。
『……どうした、涼さん。響子さんの、様子は?』小夜-子さんが、問いかける。
しばらくの、沈黙の後、涼さんの、声が、聞こえた。
『……あいつ、一人で、飲んでやがる。カウンターの、中で。……少し、痩せたな。でも、目は、死んでねえ。……おれたちの、知ってる、響子の、ままだ』
その、言葉に、わたしは、胸を、撫で下ろした。
彼女は、生きていた。
そして、まだ、闘う、意志を、失ってはいなかったのだ。
次に、始まったのは、説得だった。
涼さんは、響子さんに、自分たちが、何のために、来たのかを、説明しなければならない。
殺しに、来たのではない、と。
助けに、来たのだ、と。
しかし、それは、困難を、極めた。
『……帰れ、涼』
無線機から、聞こえてきたのは、響子さんの、低い、拒絶の、声だった。
『……おれは、もう、あんたたちの、仲間じゃねえ。裏切り者だ。今更、どんな、ツラして、戻れるってんだよ』
「響子……」
『……それに、おれは、もう、逃げねえ。ここで、ケリを、つける。ウロボロスの、連中が、来るのを、待って、一人でも、多く、道連れにしてやる。それが、おれの、最後の、喧嘩だ』
彼女は、死ぬ、覚悟を、決めているのだ。
自らの、罪を、償うために。
『……馬鹿野郎!』涼さんの、怒声が、響いた。『死んで、何に、なるってんだ! 生きて、闘うんだよ! おれたちと、一緒に!』
『……もう、おれには、闘う、資格は、ねえんだよ!』
二人の、魂が、激しく、ぶつかり合っている。
わたしは、ただ、祈るような、気持ちで、無線機に、耳を、傾けていた。
その、膠着状態を、打ち破ったのは、美咲さんの、一言だった。
彼女は、無線機の、マイクを、掴むと、静かに、しかし、はっきりと、言った。
「……野々村さん、聞こえますか。斉藤美咲です」
その、名前に、無線機の、向こうの、空気が、変わった。
「……あなたが、裏切った、おかげで、わたしたちは、一度、全てを、失いかけました。でも、その、おかげで、わたしたちは、新しい、闘い方を、見つけることが、できました。あなたの、過ちは、結果的に、わたしたちを、強くしたんです」
美咲さんは、続けた。
「……だから、もう、自分を、責めるのは、やめてください。あなたは、裏切り者なんかじゃ、ない。あなたは、わたしたちの、革命の、きっかけを、作った、重要な、仲間です。だから、帰ってきてください。わたしたちには、あなたの、力が、必要なんです」
その、言葉は、薊さんのように、理論的でもなく、涼さんのように、感情的でもなかった。
しかし、そこには、全てを、包み込むような、不思議な、説得力が、あった。
彼女は、響子さんの、罪を、許し、そして、その、存在を、肯定したのだ。
長い、長い、沈黙が、流れた。
やがて、無線機から、聞こえてきたのは、響子さんの、嗚咽だった。
彼女の、固く、閉ざされていた、心が、ついに、溶け出した、瞬間だった。
『……わかったよ……。帰る。あんたたちと、一緒に、闘う』
その、言葉に、アジトの中は、安堵の、ため息に、包まれた。
第一段階、成功。
しかし、問題は、ここからだった。
どうやって、ウロボロスの、監視の、目を、欺き、彼女を、連れ出すか。
その時、動いたのは、薊さんだった。
「……涼、聞こえる?」
彼女は、冷静な、声で、言った。
「……これから、そっちに、向かわせる。わたしの、手駒を。彼らが、陽動を、仕掛けるわ。その、隙に、響子を、連れて、脱出しなさい」
手駒?
わたしは、驚いて、薊さんを、見た。
彼女は、静かに、頷いた。
「……父が、失脚した後、路頭に、迷っていた、連中よ。金で、雇ったわ。彼らは、プロ。騒ぎを、起こすことにかけては、ね」
彼女もまた、自らの、武器を、用意していたのだ。
家父長制の、残滓を、利用して。
数分後、二丁目の、街が、にわかに、騒がしくなった。
無線機からは、パトカーの、サイレンの音、人々の、悲鳴、そして、何かが、破壊される、音が、聞こえてくる。
薊さんの、手駒が、派手な、陽動作戦を、開始したのだ。
『……今だ! 行くぞ!』
涼さんの、緊迫した、声。
そして、無線は、再び、沈黙した。
わたしは、ただ、祈ることしか、できなかった。
*
涼さんたちが、響子さんを、連れて、アジトに、戻ってきたのは、それから、一時間後のことだった。
響子さんは、ひどく、痩せていたが、その、目には、確かに、光が、戻っていた。
彼女は、わたしたち、一人一人の、顔を、見ると、深く、深く、頭を、下げた。
「……すまなかった」
その、一言に、全ての、思いが、込められていた。
涼さんは、そんな、彼女の、肩を、無言で、叩いた。
その、光景に、わたしは、胸が、熱くなった。
しかし、感傷に、浸っている、時間は、なかった。
すぐに、第二段階、偽装工作チームの、報告が、入った。
「……こちら、薊。ブツは、手に入れたわ」
無線機から、聞こえてきた、彼女の、声は、いつも通り、冷静だった。
「……例の、医者に、大金を、積んでね。身元不明の、女性の、死体を、一体、用意させた。身長、体格、髪の色、響子に、よく、似ているわ。これなら、ごまかせる」
死体。
その、言葉の、おぞましい、響きに、わたしは、吐き気を、覚えた。
わたしたちは、ついに、一線を、越えてしまったのだ。
「……これから、処理を、開始する」薊さんは、続けた。「響子が、経営していた、バーで、火事を、起こす。そして、その、焼け跡から、彼女の、ものと、思われる、焼死体が、発見される。そういう、筋書きよ。警察の、上層部には、医者を通じて、手を、回してある。彼らも、面倒な、ことには、関わりたくないはず。これで、ウロボロスも、彼女が、死んだと、信じるでしょう」
完璧な、計画。
あまりにも、完璧すぎて、恐ろしいほどの。
わたしは、ノートに、その、事実を、書き記しながら、指が、震えるのを、止められなかった。
わたしたちが、編纂している、この、聖書は、一体、どこへ、向かっているのだろう。
その夜、新宿二丁目で、小さな、火災が、あった、と、翌朝の、ニュースは、小さく、報じていた。
原因は、漏電。
焼け跡から、身元不明の、女性の、遺体が、一体、発見された、と。
事件性は、ない、と、警察は、判断したらしい。
わたしたちは、ウロボロスの、目を、欺くことに、成功したのだ。
そして、わたしたちは、響子さんから、彼女が、知ってしまった、ウロボロスの、秘密を、聞き出すことができた。
彼女が、六本木の、クラブで、目撃したのは、ウロボロスの、メンバーと、警察庁の、最高幹部との、密会の、現場だった。
そこで、交わされていたのは、日本の、裏社会を、根底から、揺るがすほどの、巨大な、麻薬取引の、計画だった。
そして、響子さんは、その、幹部の、顔を、見てしまったのだ。
「……そいつの、顔、おれは、知ってる」
響子さんは、震える声で、言った。
「……昔、柔道の、全国大会で、来賓として、来ていた。テレビでも、何度も、見たことがある。間違いねえ。日本の、警察の、トップの、一人だ」
その、名前に、わたしは、息を飲んだ。
敵は、わたしたちが、想像していたよりも、遥かに、巨大で、そして、根深い、場所に、いたのだ。
「……どうするんですか、これから」
わたしは、美咲さんに、尋ねた。
彼女は、しばらく、黙って、考えていた。
そして、やがて、顔を上げて、言った。
「……決まっています」
その、瞳には、かつてないほど、強い、決意の、光が、宿っていた。
「……戦争を、仕掛けます」
彼女は、言った。
「……ウロボロスと、そして、この、腐った、国家権力、そのものに。わたしたち、闘争サークルが、宣戦布告するんです」
それは、もはや、ただの、レジスタンスではなかった。
それは、革命の、始まりだった。
わたしは、ノートの、最後の、ページを、開いた。
そして、そこに、新しい、章の、タイトルを、書き記した。
『第十五章 宣戦布告』
わたしたちの、地獄は、まだ、終わらない。
いや、むしろ、これから、始まる、この、闘争こそが、わたしたちが、生きる、唯一の、意味なのかもしれない。
わたしは、ペンを、握りしめた。
この、物語の、結末を、この、目で見届ける、その、日まで。
わたしは、書き続ける。
わたしたちの、聖なる、闘争の、記録を。
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