第14話
野々村、響子。
その、名前が、小夜子さんの、唇から、紡ぎ出された、瞬間。
高円寺の、アジトの、空気は、完全に、凍結した。
いや、違う。
それは、凍結というよりは、真空だった。
音も、光も、感情さえも、全てが、その、名前に、吸い込まれていく。
響子さん。
あの、不器用で、誰よりも、まっすぐで、そして、涼さんのことを、誰よりも、愛していた、彼女。
あの日、泣きながら、この場所を、去っていった、彼女。
彼女が、なぜ。
わたしたちの、次の、標的。
排除、すべき、敵。
わたしの、頭は、思考を、停止した。
ノートの、上に、置いていた、わたしの、ペンが、かたり、と音を立てて、床に、落ちた。
最初に、動いたのは、涼さんだった。
「……ふざけんじゃ、ねえぞ」
その声は、地獄の、底から、響いてくるようだった。
彼女の、身体から、これまで、抑え込まれていた、純粋な、剥き出しの、殺気が、立ち上る。それは、もはや、闘争の、ための、闘気ではなかった。それは、ただ、目の前の、不条理な、現実を、破壊し尽くすための、暴力の、衝動そのものだった。
彼女は、小夜子さんの、胸ぐらを、掴み上げた。
小夜子さんの、小さな、身体が、宙に、浮く。
「……てめえ、今、なんて、言った? もう一度、言ってみろ。誰を、殺すって?」
涼さんの、目は、血走っていた。
彼女は、本気で、小夜子さんを、殺しかねない、勢いだった。
しかし、小夜子さんは、動じなかった。
首を、締め上げられ、呼吸が、苦しいはずなのに、彼女の、表情は、変わらない。
それどころか、その、瞳は、憐れみを、帯びて、涼さんを、見つめていた。
「……橘さん。わたしを、殺しても、何も、解決しませんよ」
彼女は、かすれた、声で、言った。
「……これは、わたしが、決めたことでは、ありません。これは、『ウロボロス』の、命令です。逆らえば、わたしたち、全員が、消される。あなたも、わたしも、そして……野々村響子さんも」
その、冷たい、事実に、涼さんの、腕の、力が、わずかに、緩んだ。
そうだ。敵は、小夜子さんではない。
敵は、もっと、巨大で、底知れない、何かだ。
「……だからって、響子を、殺すってのかよ!」
涼さんは、絶叫した。「仲間だろうが! かつては、おれたちの、ために、一緒に、闘った、仲間だろうが!」
「『かつて』は、そうでしたね」
今度は、薊さんが、冷たく、言い放った。彼女は、壁に、もたれかかったまま、その、光景を、静観している。
「……しかし、彼女は、わたしたちを、裏切った。週刊誌に、情報を、売り渡したのは、彼女よ。その、結果、わたしたちは、全てを、失いかけた。彼女は、もはや、仲間ではない。ただの、裏切り者、そして、リスク要因よ」
「……黙れ!」涼さんは、薊さんを、睨みつけた。「てめえに、響子の、何が、わかる!」
「わかるわよ」薊さんは、静かに、続けた。「彼女は、あなたへの、個人的な、愛情と、忠誠心から、組織全体の、利益を、損なう、という、最も、愚かな、過ちを、犯した。感情に、流され、大局を、見誤る。それは、闘争主体として、最も、未熟な、あり方だわ。そのような、不安定な、存在を、これ以上、生かしておくことは、組織にとって、危険でしかない。排除するのは、合理的、判断よ」
薊さんの、言葉は、どこまでも、冷たく、そして、正しかった。
理論的には。
しかし、その、正しさは、人の、心を、持たない、機械の、正しさだった。
わたしは、震えが、止まらなかった。
この、人たちは、本気で、響子さんを、殺す、つもりなのだ。
つい、この間まで、一緒に、笑い、語り合い、そして、傷つけ合った、仲間を。
ただ、組織の、ための、合理的な、判断として。
「……ふざけんじゃねえ……」
涼さんの、全身から、殺気が、溢れ出す。
「……お前ら、全員、ぶっ殺してでも、おれは、響子を、守る」
一触即発。
わたしたちの、組織は、内部から、崩壊しようとしていた。
ウロボロスが、望んだのは、これだったのかもしれない。
わたしたちを、互いに、殺し合わせ、自滅させること。
その、張り詰めた、空気を、切り裂いたのは、これまで、ずっと、黙っていた、美咲さんの、声だった。
「……待ってください」
彼女は、静かに、立ち上がると、涼さんと、薊さんの、間に、立った。
その、小さな、身体は、二人の、女王の、前に、立つと、あまりにも、か弱く、見えた。
しかし、その、声には、誰にも、逆らうことのできない、力が、こもっていた。
「……仲間割れを、している、場合では、ありません。敵は、外に、いるんです」
彼女は、まず、涼さんを、見つめた。
「……涼さん。あなたの、気持ちは、わかります。響子さんは、あなたにとって、大切な、存在でしょう。だからこそ、感情的に、なっては、いけない。今、あなたが、ここで、暴走すれば、それこそ、敵の、思う壺です。響子さんを、本当に、守りたいのなら、冷静に、なってください」
次に、彼女は、薊さんを、見つめた。
「……薊さん。あなたの、言うことも、わかります。組織にとって、響子さんが、リスクであることは、事実かもしれません。でも、わたしたちは、機械では、ありません。人間です。合理性だけで、全てを、割り切れるほど、強くは、ない。そして、その、弱さこそが、わたしたちの、強さにも、なりうるはずです」
そして、彼女は、小夜子さんを、見た。
「……小夜子さん。あなたも、同じです。これは、ただの、ゲームでは、ない。人の、命が、かかっているんです。駒を、動かすように、人を、扱ってはいけない」
彼女は、三人の、女王、それぞれを、的確に、そして、容赦なく、批判した。
その、言葉は、誰よりも、この、場の、力学を、そして、一人一人の、魂の、本質を、見抜いていた。
三人の、女王は、何も、言い返せなかった。
彼女たちは、初めて、自分たちよりも、さらに、高次元の、視点を持つ、存在に、直面したのだ。
「……では、どうしろと、言うの」
薊さんが、絞り出すように、言った。
「決まっています」
美咲さんは、きっぱりと、言った。
「……響子さんを、守ります。そして、ウロボロスを、叩き潰します。両方、やるんです」
その、言葉に、わたしは、既視感を、覚えた。
小夜子さんが、かつて、言った、言葉。
『なぜ、両方、やらないんですか?』
しかし、美咲さんの、言葉の、重みは、全く、違っていた。
小夜子さんの、それが、ゲームを、楽しむ、支配者の、言葉だったとすれば、美咲さんの、それは、修羅場を、くぐり抜けてきた、当事者の、覚悟の、言葉だった。
「……馬鹿なことを」沙月さんが、吐き捨てるように、言った。「そんなこと、できるはずがない。相手は、ウロボロスなのよ」
「できます」
美咲さんは、静かに、しかし、力強く、言った。
「……彼らが、わたしたちを、利用しようと、しているのなら、逆に、わたしたちが、彼らを、利用すれば、いい。彼らの、依頼を、受ける、ふりを、して、響子さんに、接触します。そして、彼女を、保護し、同時に、彼女が、何を、知ってしまったのかを、聞き出すんです。それが、ウロボロスの、弱点を、突く、手がかりに、なるはずです」
「……しかし、どうやって、彼らの、目を、欺くの? 響子さんの、『排除』を、実行したと、見せかけなければ、わたしたちは、消されるわ」薊さんが、言った。
「……偽装すれば、いいんです」
美咲さんは、こともなげに、言った。
「……響子さんの、死体を、偽装するんです。彼女と、よく、似た、体格の、身元不明の、死体を、どこかから、調達し、事故に、見せかけて、処理する。そして、その、証拠写真を、ウロボロスに、送る。彼らは、まさか、わたしたちが、そんなことまで、するとは、思わないでしょう」
その、あまりにも、冷徹で、大胆な、計画に、わたしは、言葉を、失った。
死体を、調達する?
そんな、ことが、本当に、可能なのか?
「……問題は、どうやって、死体を、手に入れるか、ですね」
小夜子さんが、冷静に、言った。彼女は、もはや、美咲さんの、計画の、実現可能性を、検討する、参謀の、一人に、なっていた。
「……心当たりが、あるわ」
静かに、言ったのは、薊さんだった。
「……わたしの、父が、懇意にしていた、裏社会の、医者が、いる。彼は、非合法な、堕胎手術や、死体の、処理も、請け負っていた。父が、失脚した今、彼は、新しい、パトロンを、探しているはず。金で、動く、男よ」
「……よし」
今度は、涼さんが、言った。彼女の、目には、決意の、光が、宿っていた。
「……響子との、接触は、おれが、やる。あいつが、一番、心を、許すのは、おれだ。二丁目は、おれの、庭だ。誰にも、気づかれずに、あいつを、連れ出す」
次々と、パズルの、ピースが、埋まっていく。
絶望的な、状況の中で、一条の、光が、見え始めていた。
「……決まり、ですね」
美咲さんは、静かに、宣言した。
「……これは、わたしたちの、組織の、存亡を、賭けた、最大の、ミッションです。失敗は、許されない。いいですね?」
誰も、反対しなかった。
わたしたちは、再び、一つになったのだ。
今度こそ、本当の、意味で。
それぞれの、思惑や、エゴを、超えて、ただ、仲間を、守るという、一点において。
わたしは、ノートに、新しい、ページを、開いた。
そして、そこに、作戦の、概要を、書き記していく。
わたしの、文字は、もう、震えてはいなかった。
わたしもまた、この、闘争の、当事者だった。
わたしには、記録するという、役割が、ある。
その夜、わたしは、美咲さんと、二人で、アジトの、屋上に、いた。
「……ありがとう」
わたしは、彼女に、言った。
「……あなたが、いなければ、わたしたちは、終わっていた」
「……礼を、言われるような、ことは、していません」
美咲さんは、静かに、首を、振った。
「……わたしは、ただ、わたしが、生き残るために、最善の、選択を、しただけです。そして、そのためには、皆さんの、力が、必要だった。それだけのことです」
「……あなたは、怖くないの?」
わたしは、尋ねた。
「……相手は、ウロボロスなのよ」
「怖いです」
彼女は、はっきりと、言った。
「……でも、わたしは、もう、逃げないと、決めたんです。父から、逃げなかったように。この、理不尽な、世界から、目を、逸らさないと、決めたんです」
彼女の、その、小さな、横顔に、わたしは、強い、光を、見た。
「……晶さん」
彼女は、わたしを、見た。
「……あなたは、どうして、闘うんですか?」
その、問いに、わたしは、答えられなかった。
わたしには、彼女のような、明確な、理由が、ない。
復讐心も、革命の、思想も、仲間を、守るという、強い、意志も。
わたしは、ただ、流されて、ここに、いるだけなのではないか。
小夜子さんに、見出され、美咲さんに、導かれ、ただ、その、強い、光に、惹かれて、ついてきただけなのではないか。
「……わたしは……」
わたしは、言葉に、詰まった。
「……わからなくても、いいんです」
美咲さんは、優しく、微笑んだ。
「……答えは、きっと、闘いの、中に、あります。わたしも、そうでしたから」
彼女は、わたしの、手を、握った。
その、手は、温かかった。
小夜子さんの、氷のような、手とは、違う、人間の、温かさだった。
「……一緒に、見つけましょう。晶さんが、闘う、理由を」
その、言葉に、わたしは、涙が、こぼれそうになった。
わたしは、独りじゃなかった。
わたしには、仲間がいる。
そして、わたしには、この、聖書の、続きを、書き記す、という、使命が、ある。
わたしたちの、本当の、地獄が、始まった。
でも、その、地獄の、中に、確かに、一筋の、希望の、光が、差し込んでいるのを、わたしは、感じていた。
わたしたちの、
それは、もはや、ただの、破壊ではなかった。
それは、生き残るための、そして、未来を、作るための、聖なる、闘争だった。
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