第13話

Xデーの、朝が、来た。


東京の、空は、白く、濁っていた。まるで、これから、この、街で、起ころうとしている、汚濁に、満ちた、出来事を、予感しているかのように。


高円寺の、アジトには、異様な、静けさが、支配していた。

誰も、口を、開かない。

ただ、テレビの、前に、全員が、集まっている。

テレビの、画面には、国会議事堂の、中継映像が、映し出されていた。

今日の、午後、予算委員会で、薊さんの、父親の、政敵である、野党の、若手議員、神崎が、質問に、立つことになっていた。

それが、わたしたちの、攻撃の、狼煙だった。


わたしの、隣には、美咲さんが、座っていた。

彼女の、横顔は、いつもと、変わらず、穏やかだった。しかし、その、膝の上で、固く、握りしめられた、彼女の、小さな、拳が、白く、なっているのを、わたしは、見逃さなかった。


小夜子さんは、わたしたちの、後ろに、立っていた。

彼女は、まるで、全てを、見通しているかのように、静かに、微笑んでいる。彼女は、この、新しい、ゲームの、盤面を、楽しんでいるのだ。


薊さんは、部屋の、隅で、壁に、もたれかかり、目を、閉じていた。

彼女は、何を、思っているのだろう。

自らの、手で、父親を、破滅させる、この、瞬間に。

長年の、憎悪の、果てに、彼女が、見る、景色は、どのような、ものなのだろう。


涼さんは、腕を、組み、仁王立ちになって、テレビを、睨みつけていた。

彼女の、身体からは、いつでも、飛び出していけるような、抑えきれない、闘気が、発散されていた。彼女にとって、言葉による、闘争は、まだ、慣れない、ものなのだろう。


そして、わたしは。

わたしは、ノートを、開いていた。

この、歴史的な、一日を、一瞬たりとも、取りこぼさないために。

わたしは、聖書の、編纂者。

この、世界の、終わりと、始まりを、記録する、者。


午後、一時。

テレビの、画面の中で、神崎議員が、質問席に、立った。

彼は、まだ、若いが、その、目には、鋭い、光が、宿っていた。


「――議長!」


彼の、張りのある、声が、議事堂に、響き渡る。


彼は、最初は、当たり障りのない、質問から、始めた。

経済政策、外交問題。

しかし、それは、全て、前座だった。

巨大な、獲物を、追い詰めるための、巧妙な、罠。


そして、ついに、その、時が、来た。


「――さて、次に、わたしは、一条幹事長の、政治資金の、問題について、お伺いしたい」


その、言葉に、議事堂が、ざわめいた。

アジトの、空気も、一気に、緊張する。


神崎議員は、一枚の、書類を、掲げた。

それは、わたしたちが、リークした、証拠の、一部だった。


「――ここに、一条幹事長の、政治団体が、斉藤建設という、一企業から、長年にわたり、多額の、そして、違法な、政治献金を、受け取っていたことを、示す、資料があります。さらに、その、見返りとして、斉藤建設は、数々の、公共事業を、不当に、受注していた。これは、明白な、贈収賄であり、談合であります!」


爆弾が、投下された。


議事堂は、大騒ぎになった。

与党席から、ヤジが、飛ぶ。

野党席から、怒号が、上がる。

フラッシュが、一斉に、たかれる。


テレビの、画面には、答弁席に、立つ、薊さんの、父親の、顔が、大写しに、なっていた。

彼は、日本の、政治を、裏で、牛耳ってきた、怪物。

その、顔は、いつも、自信に、満ち、尊大で、あったはずなのに。

今、その、顔から、血の気が、引いていくのを、わたしは、見た。

彼は、動揺を、隠そうと、しているが、その、目は、明らかに、泳いでいる。


「……そのような、事実は、断じて、ありません」


彼は、震える声で、そう、答えるのが、精一杯だった。


しかし、神崎議員の、追及は、止まらない。

彼は、次から、次へと、決定的な、証拠を、突きつけていく。

裏帳簿の、コピー。

密談の、録音テープの、一部。


薊さんの、父親は、もはや、何も、答えられなくなった。

彼は、ただ、蒼白な、顔で、立ち尽くしているだけだった。

怪物の、メッキが、剥がれ落ちていく、瞬間。


そして、同じ、時刻。

街の、キオスクや、コンビニの、店頭には、一冊の、週刊誌が、並んでいた。

わたしたちが、情報を、リークした、あの、フリージャーナリストが、書いた、特集記事。


見出しは、こうだった。


『地元名士・斉藤健介の、仮面を剥ぐ! 実の娘への、性的虐待と、政界汚職の、おぞましき、深層!』


記事には、美咲さんの、告白と、あの、ビデオテープの、存在。

そして、薊さんの、父親との、長年の、癒着関係が、克明に、記されていた。


二つの、爆弾が、同時に、炸裂したのだ。

政治の、世界と、世間の、世界。

その、両方で。


斉藤健介と、一条幹事長。

二人の、怪物は、もはや、逃げ場を、失った。

彼らが、長年、かけて、築き上げてきた、権力と、名声の、城は、音を立てて、崩れ落ちていった。


わたしたちは、勝ったのだ。


アジトの中は、静まり返っていた。

誰もが、テレビの、画面に、釘付けになっている。

やがて、国会中継が、終わり、ニュース番組に、切り替わった。

速報の、テロップが、流れる。


『一条幹事長、辞任の意向』

『斉藤建設社長、斉藤健介氏に、逮捕状』


その、文字を、見て、初めて、部室の中に、歓声が、上がった。


「やった……!」

「ざまあみろ!」


メンバーたちは、抱き合い、涙を、流し、勝利を、分かち合っていた。

思想派も、実践派も、関係なく。


わたしは、その、光景を、ノートに、記録しながら、不思議な、気持ちに、なっていた。

確かに、嬉しい。

達成感も、ある。

でも、それ以上に、わたしの、心を、支配していたのは、言いようのない、虚しさと、そして、恐怖だった。


わたしたちは、巨大な、悪を、打ち破った。

でも、そのために、わたしたちもまた、悪に、なってしまったのではないか。

脅迫、窃盗、情報操作、そして、暴力。

わたしたちは、正義の、名の下に、あらゆる、罪を、犯した。


その、罪の、重さが、ずしり、と、わたしの、肩に、のしかかってくるようだった。


わたしは、ふと、三人の、女王を、見た。


涼さんは、いつの間にか、ビールの、缶を、開けて、うまそうに、飲んでいた。その、顔には、満足げな、笑みが、浮かんでいる。彼女にとって、難しいことは、どうでもいいのだ。ただ、敵を、倒した。その、事実だけが、重要なのだ。


薊さんは、部屋の、隅で、一人、静かに、泣いていた。

それは、喜びの、涙なのか、悲しみの、涙なのか、わたしには、わからなかった。

長年の、憎悪から、解放された、安堵と、しかし、自らの、手で、父親を、破滅させた、罪悪感。その、二つの、感情が、彼女の、中で、渦巻いているのだろう。


そして、小夜子さんは。

彼女は、テレビの、画面を、見つめたまま、静かに、微笑んでいた。

その、笑みは、勝利を、喜ぶ、ものではなかった。

それは、自らの、計画が、完璧に、遂行されたことを、確認する、チェスプレイヤーの、笑みだった。

彼女は、次の、一手を、もう、考えているのだ。


最後に、わたしは、美咲さんを、見た。

この、革命の、本当の、主役。

彼女は、泣いていなかった。

笑っても、いなかった。

ただ、無表情で、テレビの、画面を、見つめていた。

その、瞳の、奥の、色が、わたしには、読み取れなかった。

彼女は、復讐を、果たして、何を、得たのだろう。

そして、何を、失ったのだろう。


わたしたちの、祝宴は、その夜、ささやかに、行われた。

しかし、溝口を、リンチした、あの夜のような、狂乱は、なかった。

誰もが、この、勝利の、意味と、その、代償の、重さを、感じていたからだ。


わたしたちは、確かに、世界を、少しだけ、変えたのかもしれない。

でも、その、代償として、わたしたち自身もまた、変わってしまったのだ。

もう、以前の、わたしたちでは、いられない。



数日が、過ぎた。

世間は、一条・斉藤スキャンダルで、持ちきりだった。

テレビも、新聞も、雑誌も、連日、この、事件を、報じ続けた。

斉藤健介は、逮捕され、彼の、会社は、倒産した。

一条幹事長は、辞任し、政界から、姿を、消した。


わたしたちの、勝利は、完璧だった。


しかし、わたしたちの、闘いは、終わってはいなかった。

いや、むしろ、本当の、闘いは、ここから、始まるのだ。


その日の、夜。

アジトで、緊急の、会議が、開かれた。

招集を、かけたのは、小夜子さんだった。


「……皆さん、聞いてください」

彼女は、いつもより、少しだけ、硬い、表情で、言った。

「……厄介な、ことに、なりました」


彼女が、ホワイトボードに、貼り出したのは、一枚の、FAXの、コピーだった。

それは、アジトに、匿名で、送られてきたものだという。


そこには、こう、書かれていた。


『君たちの、ことは、知っている。面白い、ことを、やっている、ようだね。我々の、仕事も、手伝ってくれないか。報酬は、弾む。断れば、どうなるか、わかるね?』


差出人の、名前は、なかった。

ただ、一つの、奇妙な、シンボルマークが、記されているだけだった。

翼の、生えた、蛇の、マーク。


「……これは、誰から?」薊さんが、尋ねた。


「わかりません」小夜子さんは、答えた。「しかし、この、マークは、いくつかの、裏社会の、事件で、目撃されています。政界、財界、警察、あらゆる、場所に、根を、張る、巨大な、秘密結社、という、噂です。彼らは、自らを、『ウロボロス』と、名乗っているとか」


ウロボロス。

自らの、尾を、食らう、蛇。

永遠と、循環の、象徴。


「……彼らは、わたしたちの、力を、利用しようとしているんです」小夜子さんは、言った。「わたしたちを、彼らの、都合のいい、暗殺者に、仕立て上げようとしている」


「……断れば、いいだろうが」涼さんが、言った。


「断れば、わたしたちは、消されるでしょう」小夜子さんは、静かに、言った。「彼らは、わたしたちの、アジトの、場所も、メンバーの、顔も、全て、把握している。警察も、彼らの、手の内です。わたしたちは、もはや、逃げられない」


絶望的な、状況だった。

わたしたちは、巨大な、悪を、倒したと、思っていた。

しかし、その、背後には、さらに、巨大で、底知れない、悪が、潜んでいたのだ。

わたしたちは、怪物の、首を、一つ、刎ねた、と思ったら、その、胴体から、さらに、多くの、首が、生えてきた、ヒュドラに、直面しているようだった。


「……どう、するんですか」

わたしは、震える声で、尋ねた。


小夜子さんは、しばらく、黙っていた。

そして、やがて、顔を上げて、言った。


「……闘うしか、ありません」


その、瞳には、恐怖ではなく、挑戦者の、光が、宿っていた。


「……彼らの、依頼を、受ける、ふりを、します。そして、彼らの、懐に、入り込み、内部から、その、組織を、破壊するんです」


それは、あまりにも、無謀で、自殺行為に、等しい、計画だった。


しかし、不思議と、誰も、反対しなかった。

わたしたちの、目には、もはや、絶望の色はなかった。

そこには、新しい、敵に対する、闘志の、炎が、燃え上がっていた。


わたしたちは、もはや、ただの、傷ついた、少女たちではなかった。

わたしたちは、自らの、意思で、闘うことを、選んだ、戦士だった。


その時、これまで、ずっと、黙っていた、美咲さんが、静かに、口を開いた。


「……彼らの、最初の、依頼は、何ですか?」


小夜子さんは、FAXの、続きを、読み上げた。


「……ターゲットは、一人。新宿二丁目で、バーを、経営している、女性。彼女は、ウロボロスの、秘密を、いくつか、握ってしまったらしい。依頼は、彼女の、『排除』です」


新宿二丁目。

その、言葉に、涼さんの、身体が、ぴくり、と動いた。

そこは、彼女の、ホームグラウンドだった。


「……その、女の、名前は?」

涼さんが、低い声で、尋ねた。


小夜子さんは、答えた。


「……野々村、響子」


その、名前に、アジトの、空気が、完全に、凍りついた。


響子さん。

あの日、泣きながら、部室を、去っていった、彼女。

彼女が、なぜ、ウロボロスに、狙われる?

彼女が、一体、何を、知ってしまったというのか。


運命の、皮肉。

わたしたちの、次の、標的は、かつての、仲間だった。


わたしたちは、彼女を、殺さなければならないのか。

それとも、彼女を、守ることができるのか。


わたしたちの、聖書の、新しい、章は、血と、裏切りと、そして、かつてないほどの、困難な、選択から、始まろうとしていた。


わたしは、ノートの、新しい、ページを、開いた。

そして、震える手で、最初の、一文を、書き記した。


『わたしたちの、本当の、地獄が、始まった』

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