第12話

わたしたちの、運命を、狂わせる、引き金。

彼女は、ただの、被害者では、なかった。

彼女もまた、この、地獄の、ゲームの、新しい、プレイヤーだったのだ。


わたしたちの、聖書の、次の、ページは、まだ、白紙のままだった。

そして、その、ページに、新しい、物語を、書き記すのは、一体、誰なのか。


わたしには、もう、何も、予測できなかった。


斉藤美咲さんの、その、か細い、しかし、鋼鉄の、芯が、通ったような、声が、絶望に、満たされた、アジトの、空気を、震わせた。


「……わたしに、考えが、あります」


その、言葉に、部屋にいた、全員の、視線が、彼女に、集中した。

旧い、二人の、女王、一条薊と、橘涼(彼女は、まだ、捕まったままだが、その、不在こそが、巨大な、存在感を、放っていた)。

そして、新しい、女王、小津小夜子。

三つの、権力が、作り出す、複雑な、力学の、中心に、今、四人目の、プレイヤーが、静かに、しかし、圧倒的な、存在感をもって、登場したのだ。


彼女は、ずっと、怯えて、震えているだけの、か弱い、子羊だと、思っていた。

わたしたちが、救い出すべき、保護の、対象だと。

しかし、違った。

彼女の、その、怯えは、完璧な、擬態だったのだ。

嵐の中で、頭を、垂れ、ただ、耐え忍ぶことで、生き延びてきた、したたかな、雑草。

そして、今、嵐が、去った、荒野に、最初に、芽を、出す、準備が、できたのだ。


「……考え、ですって?」


最初に、反応したのは、小夜子さんだった。その、穏やかな、表情は、崩さないまま、しかし、その、瞳の、奥には、鋭い、警戒の、光が、宿っていた。彼女は、自らが、作り上げた、ゲームの、盤上に、予測不能な、駒が、現れたことを、瞬時に、理解したのだ。


「あなたに、何が、できるというのですか、美咲さん。あなたは、ただ、私たちに、守られていれば、いいんです」


その、言葉は、優しさの、仮面を、被った、支配の、言葉だった。

あなたも、わたしの、駒に、なりなさい、と。


しかし、美咲さんは、もはや、怯えなかった。


「いいえ」彼女は、きっぱりと、首を、振った。「わたしは、もう、守られるだけの、存在では、ありません。わたしも、闘います。わたしの、やり方で」


彼女は、自分の、学生鞄から、一つの、小さな、ビデオカセットを、取り出した。

8ミリビデオの、小さな、カセット。


「……これは?」薊さんが、低い声で、尋ねた。


「証拠です」美咲さんは、静かに、言った。「わたしが、この、二年間の、全てを、記録した、証拠です」


その、言葉に、部屋の、空気が、再び、凍りついた。


「……わたしは、父の、書斎に、隠しカメラを、仕掛けました。小さな、ピンホールカメラです。そして、父が、わたしに、してきたこと、その、全てを、録画し続けました。彼が、わたしに、何を、したか。何を、言ったか。その、全てが、ここに、記録されています」


彼女の、告白は、あまりにも、衝撃的だった。

わたしたちは、彼女を、無力な、被害者だと、思っていた。

しかし、彼女は、独りで、誰にも、知られずに、ずっと、闘い続けてきたのだ。

わたしたちが、部室で、観念的な、思想闘争や、自己満足の、暴力に、明け暮れていた、その、間も、ずっと。


「……どうして、そんなことを……」わたしは、思わず、尋ねていた。


「復讐のためです」美咲さんは、はっきりと、言った。その、可憐な、顔には、その、言葉に、そぐわない、深い、憎悪の、色が、浮かんでいた。「いつか、必ず、あいつを、この手で、地獄に、突き落としてやる、と。その、一心で、わたしは、耐えてきました」


彼女の、その、二年間に、及ぶ、孤独な、闘いを、想像し、わたしは、戦慄した。

彼女の、その、小さな、身体の、どこに、そんな、鋼鉄の、意志が、隠されていたのだろう。


「……それで、あなたの、考え、というのは?」

薊さんが、促した。彼女の、目には、もはや、虚無の色はなかった。そこには、新しい、戦術への、知的な、好奇心が、宿っていた。


「……この、ビデオを、警察に、持って行っても、無駄です」美咲さんは、言った。「父は、警察にも、顔が利く。きっと、握り潰されるだけ。マスコミに、リークしても、同じです。一時的に、話題には、なるかもしれない。でも、父には、それを、もみ消すだけの、金と、権力がある。そして、わたしは、ただ、『悲劇の、ヒロイン』として、世間の、好奇の、目に、晒されるだけ。それは、わたしが、望む、結末では、ありません」


彼女の、分析は、驚くほど、冷静で、的確だった。


「……わたしが、望むのは、父の、完全な、社会的、抹殺です。彼が、これまで、築き上げてきた、全てを、彼の、プライドを、彼の、人生そのものを、木っ端微塵に、破壊することです」


彼女は、そこで、一度、言葉を切ると、薊さんを、まっすぐに、見つめた。


「……一条さん。あなたの、お父様は、有力な、政治家だと、聞きました。そして、わたしの、父、斉藤健介は、あなたの、お父様の、長年の、支持者であり、重要な、資金源でもある。二人は、公共事業の、談合を通じて、長年、癒着してきた、共犯関係にある。違いますか?」


その、言葉に、薊さんの、顔が、凍りついた。

沙月さんたち、思想派の、メンバーも、息を飲む。

わたしたちが、PCで、暴き出した、断片的な、情報。その、裏にある、巨大な、構造を、この、女子高生は、全て、把握していたのだ。


「……なぜ、あなたが、それを……」薊さんの、声が、震えていた。


「父の、書斎で、見ましたから」美咲さんは、こともなげに、言った。「裏帳簿も、密談の、録音テープも、全て。わたしは、ただの、被害者では、なかった。わたしは、彼の、一番、近くにいた、スパイだったんです」


もはや、誰も、彼女を、か弱い、少女として、見ることは、できなかった。

彼女は、恐るべき、戦略家だった。


「……わたしの、計画は、こうです」

美咲さんは、続けた。その、声には、絶対的な、自信が、満ちていた。


「この、虐待の、ビデオを、武器に、わたしの、父、斉藤健介を、脅迫します。そして、彼に、あなたの、お父様の、不正の、証拠を、全て、差し出させるんです。裏帳簿、録音テープ、その、全てを」


「……そして?」


「そして、その、証拠を、あなたの、お父様の、対立派閥の、政治家に、リークするんです。あるいは、絶対に、権力に、屈しない、信頼できる、ジャーナリストに。そうすれば、どうなるか。二人は、共倒れになります。わたしの、父は、談合と、贈賄で、逮捕される。そして、あなたの、お父様も、政治生命を、絶たれる。二人の、怪物は、互いを、食い潰し合って、破滅するんです」


それは、あまりにも、完璧で、あまりにも、残酷な、シナリオだった。

毒を、以て、毒を、制す。

家父長制の、権化たちを、その、内部の、論理で、自壊させる、究極の、プラン。


わたしは、鳥肌が、立つのを、感じた。

小夜子さんの、やり方よりも、遥かに、クレバーで、そして、遥かに、破壊的だ。


部室は、静まり返っていた。

誰もが、この、恐るべき、少女の、計画に、圧倒されていた。


小夜子さんでさえ、その、穏やかな、表情の、下に、焦りの、色を、隠しきれていないようだった。彼女の、築き上げた、王国が、今、全く、新しい、法則によって、再編成されようとしている。


「……面白いわ」


最初に、口を開いたのは、薊さんだった。

その、顔には、苦悩と、そして、それ以上に、深い、歓喜の、色が、浮かんでいた。


「……面白い。実に、面白いわ、斉藤美咲さん。あなたの、その、計画、気に入ったわ」


彼女は、自らの、父親を、破滅させる、その、計画に、全面的に、同意したのだ。

それは、彼女にとって、長年の、憎悪に、終止符を、打つための、唯一の、方法だったのかもしれない。


「……だがな」

その時、アジトの、隅で、黙って、聞いていた、実践派の、一人が、口を、挟んだ。

「……そんな、悠長なこと、やってる、暇が、あんのかよ。涼さんたちが、捕まってんだぞ。今頃、警察で、何を、されてるか……」


その、言葉に、皆が、はっとした。

そうだ。わたしたちには、時間が、ない。

涼さんたちが、口を、割ってしまえば、全てが、終わる。


「……それも、計画の、うちです」


美咲さんは、静かに、言った。


「……わたしの、父を、脅迫する際の、交換条件に、彼女たちの、釈放を、要求します。父には、警察の、上層部に、圧力を、かけるだけの、力がある。軽い、傷害事件として、処理させ、不起訴に、することも、可能でしょう」


彼女は、全てを、計算していたのだ。

涼さんたちの、存在さえも、彼女の、ゲームの、駒として。


「……あなたは、一体、何者なの?」

わたしは、思わず、呟いていた。


美咲さんは、わたしの方を、見て、初めて、少しだけ、笑った。

それは、高校生らしい、はにかんだ、笑顔だった。

しかし、その、奥に、わたしは、小夜子さんと、同質の、いや、それ以上の、底知れない、闇を、見た。


「……わたしは、ただの、斉藤美咲です」

彼女は、言った。

「……ずっと、声を、殺して、生きてきた、ただの、女の子です。でも、もう、黙っているのは、やめました。これからは、わたしが、物語を、作るんです」


その、言葉は、夜行バスの中で、わたしが、ノートに、書き記した、あの、言葉と、重なった。


『――だから、わたしが、出口を、作るのだ』


わたしは、この、少女に、自分自身を、見ていたのかもしれない。

わたしが、なりたかった、しかし、なりきれなかった、もう一人の、わたしの、姿を。



その日から、わたしたちの、組織は、完全に、再編成された。


もはや、そこに、三人の、女王は、いなかった。

いるのは、ただ、一人。

斉藤美咲という、絶対的な、司令塔だけだった。


小夜子さんは、その、変化を、静かに、受け入れているように、見えた。彼女は、自らの、計画が、より、完璧な、計画によって、上書きされたことを、潔く、認めたのだ。そして、彼女は、自ら、進んで、美咲さんの、参謀役を、買って出た。その、姿は、まるで、より、強い、王に、仕えることを、選んだ、賢い、宰相のようだった。


薊さんは、自らの、父親を、破滅させるという、個人的な、復讐のために、美咲さんの、計画に、全面的に、協力した。彼女は、自らが、持つ、政治と、経済の、知識を、全て、提供し、リークするための、最も、効果的な、ルートを、探し出した。


そして、わたしは。

わたしは、その、全ての、記録係であり続けた。

しかし、わたしの、役割は、少しだけ、変わっていた。

わたしは、もはや、ただの、書記ではなかった。

わたしは、美咲さんの、一番、近くにいて、彼女の、言葉と、思考を、記録し、そして、時には、彼女の、相談相手に、なるという、重要な、役割を、与えられたのだ。


わたしは、彼女の、その、恐るべき、計画の、唯一の、目撃者であり、伴走者となった。


わたしたちは、まず、涼さんたちを、救出することから、始めた。


美咲さんは、わたしと、小夜子さんだけを、連れて、斉藤健介に、接触した。

場所は、都内の、高級ホテルの、一室。


斉藤健介は、娘が、自分を、脅迫しに、現れたことに、最初は、激昂した。

しかし、美咲さんが、テレビの、モニターに、あの、ビデオの、映像を、映し出した、瞬間、彼の、顔は、絶望に、染まった。


「……どう、お父様」

美咲さんの、声は、氷のように、冷たかった。

「……これが、世間に、公開されたら、あなたの、人生は、終わりです。でも、わたしは、慈悲深いから、あなたに、チャンスを、あげます」


彼女は、交換条件を、提示した。

涼さんたちの、即時、釈放。

そして、薊さんの、父親の、不正の、証拠、全て。


斉藤健介は、震える手で、電話を、かけ、どこかに、指示を、出した。

そして、数時間後、涼さんたちは、証拠不十分で、釈放された。


彼女たちは、アジトに、戻ってきた時、ひどく、消耗していたが、その、目には、闘志が、宿っていた。

そして、自分たちを、救い出したのが、あの、か弱い、女子高生だったと、知り、複雑な、表情を、浮かべた。


涼さんは、美咲さんの、前に、立つと、深く、頭を、下げた。

「……借りが、できたな」

彼女は、短く、そう、言った。

それは、実践派の、女王が、新しい、司令塔に、忠誠を、誓った、瞬間だった。


次に、わたしたちは、斉藤健介から、受け取った、膨大な、証拠を、精査した。

裏帳簿、密談の、録音テープ、秘密の、手帳。

そこには、日本の、政治と、経済を、裏で、操る、巨大な、悪の、構造が、克明に、記されていた。


わたしは、その、おぞましい、事実に、吐き気を、感じながらも、記録を、続けた。

これが、わたしたちが、闘っている、敵の、正体なのだ。


そして、ついに、最後の、攻撃の、準備が、整った。


わたしたちは、薊さんの、父親の、最大の、政敵である、野党の、若手、政治家と、裏で、接触した。

そして、絶対に、権力に、屈しないことで、有名な、一人の、フリーの、ジャーナリストにも。


わたしたちは、彼らに、証拠の、一部を、渡し、そして、Xデーを、設定した。

その日、テレビの、国会中継と、週刊誌の、発売が、同時に、行われ、巨大な、爆弾が、投下される、手はずになっていた。


決戦の、前夜。

わたしは、美咲さんと、二人で、アジトの、屋上で、東京の、夜景を、見ていた。


「……明日で、全てが、終わるのね」

わたしは、呟いた。


「いいえ」美咲さんは、首を、振った。「明日、全てが、始まるんです」


彼女は、遠い、目を、して、言った。


「……父を、破滅させても、わたしの、傷が、消えるわけじゃない。薊さんの、心の、闇が、晴れるわけでもない。涼さんたちの、怒りが、収まるわけでもない。わたしたちの、闘いは、これからも、ずっと、続いていくんです」


「……じゃあ、わたしたちは、何のために、闘うの?」


「……未来のため、です」

美咲さんは、静かに、言った。

「……もう、二度と、わたしのような、思いを、する、女の子が、現れないように。声を、殺して、生きる、必要が、ない、世界を、作るために。わたしたちは、そのための、礎石に、なるんです。たとえ、わたしたち自身が、ボロボロに、なっても」


その、言葉に、わたしは、涙が、こぼれそうになった。

彼女は、復讐者であると、同時に、革命家だったのだ。


わたしは、彼女の、その、小さな、手を、握りしめた。


「……わたしも、一緒に、闘うわ」

わたしは、言った。

「……あなたの、聖書を、書き上げるまで」


美咲さんは、にっこりと、微笑んだ。


その、笑顔は、わたしが、今まで、見た、どんな、笑顔よりも、美しく、そして、力強かった。


わたしたちの、夜は、明けようとしていた。

そして、その、先にあるのが、光なのか、それとも、さらなる、闇なのか、わたしには、まだ、わからなかった。


しかし、一つだけ、確かなことが、あった。

わたしは、もう、独りでは、ない。

わたしたちには、仲間がいる。

そして、わたしたちには、闘うべき、理由が、ある。


わたしたちの、闘争たたかいは、まだ、終わらない。

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