第11話

高円寺の、その、六畳一間の、カビ臭いアパートが、わたしたちの、新しい、世界になった。


大学の、あの、閉鎖的で、しかし、どこか、牧歌的でさえあった、部室とは、違う。ここは、社会の、巨大な、システムの、すぐ、隣にある、しかし、決して、交わることのない、異界だった。窓の外からは、救急車の、サイレンの音、酔っ払いの、怒鳴り声、そして、誰かの、生活の、音が、絶え間なく、聞こえてくる。わたしたちは、その、ノイズの、洪水の中で、息を、潜め、牙を、研いでいた。


わたしたちの、最初の、標的は、斉藤健介。

女子高生である、実の娘、美咲さんに、性的虐待を、加えているという、地域の、名士。

彼の、人生を、社会的に、そして、物理的に、完全に、破壊すること。

それが、わたしたち、「新生闘争サークル」の、最初の、ミッションだった。


作戦は、三つの、チームに、分かれて、進められた。


わたしは、薊さん、そして、沙月さんたち、旧思想派の、メンバーと共に、「情報分析班」を、形成した。わたしたちの、武器は、言葉と、知識と、そして、インターネットという、新しい、魔法だった。


わたしたちの、アジトには、不釣り合いなほど、高性能な、PCが、一台、持ち込まれた。薊さんの、父親の、権力と、金が、手に入れたものだ。彼女は、あれほど、憎んでいた、家父長制の、力を、今や、自らの、闘争の、武器として、躊躇なく、利用していた。その、矛盾に、彼女が、何を、感じていたのか、わたしには、わからない。ただ、彼女の、横顔には、以前よりも、さらに、深い、虚無の、影が、落ちているように、見えた。


わたしたちは、その、PCを使って、斉藤健介という、人間の、全てを、解剖していった。


彼の、会社の、登記簿謄本、決算報告書、過去の、取引履歴。

彼が、所属する、ロータリークラブの、会員名簿、市議会への、政治献金の、記録。

彼が、頻繁に、利用する、高級クラブの、噂、そこで、彼が、口にした、言葉の、断片。


わたしは、それらの、膨大な、情報を、わたしの、「告白ノート」の、次の、ページに、記録し、整理し、そして、分析していった。わたしは、もはや、ただの、書記ではなかった。わたしは、小夜子さんの、言う通り、この、組織の、「頭脳」の、一部に、なろうとしていた。


「……見つけたわ」


ある日の、深夜、沙月さんが、低い、興奮した、声で、言った。彼女の、目は、PCの、画面に、釘付けになっている。


「……斉藤健介の、会社、五年前の、公共事業の、入札で、市議会議員の、木村に、裏金を、渡している。これは、決定的な、談合の、証拠よ」


彼女は、匿名の、BBSに、投稿された、内部告発と、思われる、書き込みを、指差した。その、書き込みは、あまりにも、具体的で、生々しかった。


「……よく、見つけたわね、氷川さん」


薊さんが、静かに、称賛した。その、言葉に、沙月さんの、顔が、ぱあっと、明るくなる。彼女は、まだ、薊さんという、神の、寵愛を、求めているのだ。その、姿は、痛々しく、そして、哀れだった。


わたしは、その、新しい、情報を、ノートに、書き加えながら、思った。

わたしたちは、正義の、ために、これを、やっているのだろうか。

それとも、ただ、人の、秘密を、暴き、それを、武器として、他者を、破壊する、快感に、酔いしれているだけなのだろうか。


わたしには、もう、その、区別が、つかなくなっていた。



一方、涼さん、そして、旧実践派の、メンバーたちで、構成された、「実働部隊」は、物理的な、調査を、進めていた。


彼女たちは、昼は、清掃員や、宅配業者を、装い、斉藤健介の、会社や、自宅の、周辺を、偵察した。

夜は、黒い、服に、身を包み、その、高い、塀を、乗り越え、屋敷の、見取り図を、作成し、警備システムの、脆弱性を、探った。


彼女たちの、その、プロフェッショナルな、動きは、もはや、ただの、学生サークルの、レベルを、遥かに、超えていた。彼女たちは、二丁目の、裏社会で、生き抜くために、身につけた、ストリートの、知恵と、技術を、今、この、闘争のために、最大限に、活用しているのだ。


「……親父の、部屋は、二階の、一番、奥だ」


ある夜、アジトに、戻ってきた、涼さんが、ホワイトボードに、簡単な、見取り図を、描きながら、言った。


「書斎と、寝室が、一緒になってる。防音は、完璧。そこで、毎晩のように、美咲を、呼びつけてるらしい」


その、言葉に、部屋の、空気が、凍りつく。


「……警備は、どうなの?」薊さんが、尋ねた。


「大したことねえよ」涼さんは、吐き捨てた。「セコムの、ステッカーが、貼ってあるだけだ。ハッタリだろ。窓の、鍵も、旧式だ。ピッキングで、簡単に、開けられる」


「……父親の、行動パターンは?」


「毎晩、十時過ぎに、銀座の、クラブから、ハイヤーで、帰ってくる。酔っ払ってな。そこが、狙い目だ」


涼さんの、報告は、常に、簡潔で、的確だった。

彼女の、言葉には、思想も、理論も、ない。

しかし、そこには、圧倒的な、現実感と、説得力が、あった。


わたしは、涼さんの、その、強さに、改めて、畏敬の、念を、抱いていた。

彼女は、薊さんとは、違う、種類の、王だった。

地に、足を、つけて、現実と、格闘し続けてきた、本物の、戦士。


しかし、その、二人の、王は、今、小夜子さんという、たった、一人の、少女に、手懐けられている。

その、事実が、この、場所の、歪んだ、力学を、象徴していた。



そして、小夜子さんは。


彼女は、計画通り、斉藤美咲さんが、通う、名門、私立女子高に、教育実習生として、潜入していた。


薊さんの、父親の、力を使えば、そんなことは、造作もなかった。偽造された、書類と、数本の、電話で、彼女は、あっさりと、聖域の、中に、入り込んだのだ。


彼女は、週に、数回、アジトに、戻ってきては、その、成果を、報告した。


「……美咲さん、心を、開き始めてくれています」


喫茶店で、初めて、会った時と、同じように、彼女は、穏やかに、微笑みながら、言った。


「彼女は、誰にも、相談できずに、ずっと、独りで、苦しんでいました。わたしは、ただ、彼女の、話を、聞いただけです。『告白と、聞くこと』の会と、同じですよ。ただ、彼女の、痛みに、寄り添い、共感し、そして、あなたは、独りじゃない、と、伝え続けただけ」


その、言葉に、わたしは、寒気を、感じた。

彼女は、あの、残酷な、魔女狩りの、儀式でさえ、自らの、武器として、利用しているのだ。


「……彼女、美術部に、所属しているんです」小夜子さんは、続けた。「とても、才能のある子ですよ。でも、彼女の、描く絵は、どれも、暗くて、歪んでいる。叫び声が、聞こえてくるような、絵です」


彼女は、一枚の、スケッチの、コピーを、テーブルの上に、置いた。

そこには、顔のない、少女が、無数の、黒い、手に、絡め取られている、おぞましい、光景が、描かれていた。


「……これが、彼女の、魂の、風景です」


小夜子さんは、静かに、言った。


「……もう、時間は、ありません。彼女の、心が、完全に、壊れてしまう前に、わたしたちが、救い出さなければ」


彼女の、瞳には、聖母のような、慈愛の、光が、宿っていた。

しかし、わたしには、わかっていた。

その、光の、奥に、潜んでいる、捕食者の、冷たい、眼差しを。


彼女は、美咲さんを、救おうとしているのではない。

彼女は、美咲さんという、新しい、駒を、手に入れようとしているのだ。



全ての、準備が、整ったのは、それから、二週間後の、ことだった。


その夜、アジトで、最後となる、作戦会議が、開かれた。

ホワイトボードには、斉藤邸の、見取り図、タイムスケジュール、そして、各メンバーの、役割分担が、びっしりと、書き込まれている。


「……では、最終確認をします」


小夜子さんの、声が、緊張した、空気に、響き渡る。


「決行は、明日の、夜、十一時。父親の、斉藤健介が、帰宅し、酔いが、回った頃を、見計らって、作戦を、開始します」


「まず、わたしが、美咲さんと、連絡を取り、彼女を、家の、外へと、誘導します。彼女には、『あなたを、守るために、来た』とだけ、伝えてあります。彼女は、わたしたちを、信じている」


「美咲さんの、安全を、確保した後、涼さんたち、実践派の、チームが、屋敷に、侵入。寝室にいる、斉藤健介を、制圧し、この、アジトまで、連行してきます」


「……連行?」わたしは、思わず、聞き返した。「殺すんじゃ、ないんですか?」


「殺してしまっては、面白くないでしょう?」小夜子さんは、にこり、と笑った。「彼には、これから、わたしたちの、法廷で、裁きを、受けてもらうんですから」


「……そして、彼を、ここに、連れてきた後、薊さんたち、思想派の、チームの、出番です」小夜子さんは、薊さんに、視線を、向けた。「あなたの、その、言葉の、力で、彼の、魂を、完全に、破壊してください。彼が、自らの、罪を、認め、許しを、乞うまで、徹底的に」


「……わかっているわ」薊さんは、静かに、頷いた。


「そして、最後に」小夜子さんは、涼さんを、見た。「魂が、砕け散った、彼の、肉体を、どう、処分するかは、あなたに、お任せします。二度と、社会復帰、できないように、してくださいね」


「……おう」涼さんは、短く、答えた。その、目には、喜びの、色が、浮かんでいた。


「……晶さん」最後に、小夜子さんは、わたしを、見た。「あなたは、その、全てを、記録してください。一言一句、一つの、表情、一つの、呻き声さえも、聞き漏らさずに。それが、わたしたちの、新しい、聖書の、最初の、殉教者の、記録と、なりますから」


「……はい」


わたしは、頷くことしか、できなかった。


完璧な、シナリオ。

思想と、暴力の、融合。

精神と、肉体の、同時破壊。


それは、神の、計画のようでもあり、悪魔の、儀式のようでも、あった。


わたしは、これから、起こるであろう、地獄の、光景を、想像し、身震いした。

しかし、同時に、わたしの、心の、奥底では、黒い、興奮が、渦巻いていた。


わたしは、この、物語の、結末を、見届けたい。

そして、それを、記録したい。


わたしは、もはや、後戻りできない、場所に、来てしまったのだ。



決行の、夜。


わたしは、アジトで、待機していた。

部屋の、中には、わたしと、薊さん、そして、沙月さんたち、思想派の、メンバーだけが、残っている。

部屋の、空気は、張り詰め、誰もが、無言だった。


壁の、時計が、十一時を、指した。


作戦が、始まったのだ。


わたしたちの、手元には、涼さんたちが、持っていった、小型の、無線機が、一台だけ、あった。そこから、時折、ノイズ混じりの、小さな、声が、聞こえてくる。


『……小夜子より、各員へ。美咲を、確保。予定通り、ポイントAに、移動する』


小夜子さんの、冷静な、声。

第一段階は、成功したようだ。


『……涼だ。これより、屋敷に、侵入する』


涼さんの、低い、声。

わたしは、息を飲んだ。


それから、しばらく、無線は、沈黙した。

その、沈黙が、逆に、わたしたちの、緊張を、煽る。


カチ、カチ、という、時計の、音だけが、やけに、大きく、響く。


十分、経っただろうか。

二十分、経っただろうか。


突然、無線機が、激しい、ノイズを、発した。


ざざっ……!


『……くそっ!』


涼さんの、焦ったような、声。


『……罠だ! 警備員が、いや、警官だ! 囲まれてる!』


その、言葉に、部屋にいた、全員が、凍りついた。


罠?

どういうことだ?

わたしたちの、計画は、完璧だったはずだ。

どこかで、情報が、漏れたのか?


『……涼さん、状況は!』

薊さんが、無線機に、向かって、叫んだ。


『……だめだ、数が、多すぎる! ……ぐあっ!』


涼さんの、苦悶の、声と、何かが、激しく、ぶつかる、音。

そして、無線は、完全に、沈黙した。


「……そんな……」

沙月さんが、呆然と、呟いた。


計画は、失敗したのだ。

それも、最悪の、形で。


涼さんたちは、どうなったのだろう。

捕まったのか?

それとも……。


わたしは、パニックに、陥っていた。

頭の中が、真っ白になる。


その時だった。


「……落ち着いてください」


静かな、声が、響いた。

小夜子さんだった。

彼女は、いつの間にか、アジトに、戻ってきていた。

その、隣には、写真で、見た、あの、女子高生、斉藤美咲さんが、怯えたような、表情で、立っている。


「……小夜子さん! 涼さんたちが!」

わたしは、叫んだ。


「わかっています」

小夜子さんは、冷静だった。

「……どうやら、わたしたちの中に、まだ、裏切り者が、いたようですね」


彼女は、そう言うと、部屋の、中を、ゆっくりと、見渡した。

その、冷たい、視線が、一人一人の、顔の上を、滑っていく。


「……あるいは」


彼女は、続けた。


「……この、中に、警察の、犬が、紛れ込んでいたのかも、しれませんね」


その、言葉に、誰もが、互いを、疑いの、目で、見始めた。


この、密室の中で、再び、魔女狩りが、始まろうとしている。


しかし、その、緊張を、破ったのは、意外な、人物だった。


「……違うわ」


薊さんだった。

彼女は、静かに、立ち上がると、小夜子さんの、前に、立った。


「……裏切り者は、いない。情報が、漏れたのは、別の、ルートよ」


「……どういう、ことですか?」

小夜子さんが、初めて、少しだけ、動揺したような、表情を、見せた。


「……わたしの、父よ」


薊さんは、吐き捨てるように、言った。


「……あなたの、その、ふざけた、教育実習生の、話。わたしが、父に、頼んだと、思っているの? 冗談じゃないわ。わたしが、あの、男に、頭を、下げるはずがないでしょう」


「……では、どうやって……」


「……父の、秘書を、買収したのよ」薊さんは、言った。「そして、その、動きを、父に、感づかれた。あの、男は、わたしの、全てを、監視している。そして、今回の、この、計画を、警察に、リークした。わたしたちを、潰すために。そして、わたしを、自分の、支配下に、完全に取り戻すために」


それは、衝撃的な、告白だった。

わたしたちは、斉藤健介という、敵と、戦っている、つもりだった。

しかし、本当の、敵は、もっと、巨大で、もっと、身近な、場所に、いたのだ。

家父長制の、権化。

一条薊の、父親。


「……どうするのよ、これから……」

沙月さんが、絶望的な、声で、言った。


涼さんたちは、捕まった。

アジトも、もう、安全ではない。

わたしたちは、完全に、追い詰められた。


その時だった。


「……あの」


か細い、声が、した。

斉藤美咲さんだった。

彼女は、ずっと、黙って、震えていたが、おそるおそる、顔を上げた。


そして、信じられない、言葉を、口にした。


「……わたしに、考えが、あります」


その、言葉に、部屋にいた、全員の、視線が、彼女に、集中した。


彼女の、その、怯えていたはずの、瞳の、奥に、見たこともない、強い、光が、宿っているのを、わたしは、見逃さなかった。


わたしたちの、運命を、狂わせる、引き金。

彼女は、ただの、被害者では、なかった。

彼女もまた、この、地獄の、ゲームの、新しい、プレイヤーだったのだ。


わたしたちの、聖書の、次の、ページは、まだ、白紙のままだった。

そして、その、ページに、新しい、物語を、書き記すのは、一体、誰なのか。


わたしには、もう、何も、予測できなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る