第10話
受話器を、置いた。
プラスチックの、冷たい、感触。
わたしの、指先から、体温が、奪われていく。
小夜子さんの、声が、まだ、耳の、奥で、反響している。
『待っていますから』
『東京で』
その、言葉は、呪いだった。
そして、同時に、それは、わたしにとって、唯一の、福音だったのかもしれない。
わたしは、自分の、部屋に、いた。
石川県金沢市。
わたしの、生まれ育った、この、家。
この、息の詰まる、牢獄。
窓の外は、暗い。東京の、猥雑な、光とは、違う。全てを、飲み込むような、地方都市の、深い、闇。
父は、下の、居間で、酒を、飲んでいるのだろう。母は、その、隣で、テレビを、見ながら、ため息を、ついているのだろう。
わたしの、存在など、もう、彼らの、頭には、ない。
彼らにとって、わたしは、家の、名前に、泥を、塗った、出来損ないの、娘。修正不可能な、不良品。
わたしは、この、家に、いても、いなくても、同じだった。
いや、むしろ、いない方が、いいのだ。
わたしは、ゆっくりと、立ち上がった。
そして、クローゼットの、奥から、小さな、ボストンバッグを、取り出した。
高校の、修学旅行の時に、使ったきりの、埃をかぶった、バッグ。
わたしは、その中に、荷物を、詰め始めた。
下着を、数枚。
着替えの、Tシャツと、ジーンズを、一組。
そして、机の上に、無造作に、積まれていた、数冊の、本。
ショーペンハウアー。ニーチェ。そして、大学の、図書館から、借りたままになっていた、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの、『第二の性』。
最後に、わたしは、机の、引き出しの、奥から、一冊の、ノートを、取り出した。
わたしの、「告白ノート」。
警察から、返却された、この、ノート。
それは、もはや、ただの、記録ではなかった。
それは、わたしたちの、血と、涙と、憎悪の、歴史そのものだった。
そして、これから、わたしが、編纂していく、新しい、聖書の、最初の、一ページ目になるものだった。
荷造りは、十分も、かからなかった。
わたしの、全ては、この、小さな、バッグの中に、収まってしまった。
なんと、軽くて、なんと、ちっぽけな、人生だろう。
わたしは、財布の、中身を、確認した。
数枚の、千円札と、数えきれないほどの、小銭。
東京までの、夜行バスの、代金にも、足りないかもしれない。
わたしは、躊躇した。
そして、音を、立てないように、部屋を、出た。
廊下を、進み、階段を、降りる。
居間から、テレビの、音が、漏れてくる。父と、母の、話し声。
わたしは、息を、殺した。
そして、母の、部屋に、忍び込んだ。
鏡台の、引き出しを、そっと、開ける。
そこには、母が、生活費の、足しに、している、封筒が、あった。
わたしは、その中から、一万円札を、数枚、抜き取った。
指が、震えていた。
これは、窃盗だ。
わたしは、ついに、本物の、犯罪者に、なってしまった。
でも、わたしは、構わなかった。
これは、闘争なのだ。
わたしが、この、家という、最初の、家父長制から、自らを、解放するための、闘争なのだ。
わたしは、母から、金を、盗んだのではない。
わたしは、わたしが、これまで、この家で、搾取され続けてきた、感情労働の、正当な、対価を、回収しただけだ。
わたしは、自分に、そう、言い聞かせた。
小夜子さんなら、きっと、そう、言うだろう。
わたしは、抜き取った、紙幣を、ポケットに、ねじ込んだ。
そして、もう一度、音を、立てないように、部屋を、出た。
玄関の、ドアノブに、手を、かける。
ここで、振り返ってはいけない。
振り返れば、わたしは、きっと、この、ぬるま湯の、地獄に、引き戻されてしまう。
わたしは、一度も、振り返らずに、ドアを、開け、そして、閉めた。
外の、空気は、冷たかった。
わたしは、闇の中を、ひたすら、歩いた。
駅へと、向かって。
わたしの、最後の、
それは、わたし自身との、闘いだった。
過去の、わたしを、殺し、新しい、わたしへと、生まれ変わるための、血塗られた、儀式だった。
*
夜行バスの、中は、死んだように、静かだった。
乗客たちは、皆、疲れた顔で、眠りに、落ちている。
わたしは、一番、後ろの、窓際の、席で、ただ、外を、流れていく、景色を、見ていた。
高速道路の、オレンジ色の、街灯が、等間隔で、現れては、消えていく。
それは、まるで、わたしの、人生の、メタファーのようだった。
わたしは、これから、どこへ、行くのだろう。
小夜子さんの、元へ。
東京へ。
でも、その先に、何が、あるのだろう。
彼女の、言う、新しい、闘争?
レジスタンス組織?
聖書の、編纂者?
その、言葉の、響きは、甘美で、蠱惑的だった。
でも、同時に、わたしは、怖かった。
わたしは、また、誰かの、物語の、中に、取り込まれようとしているのではないか。
薊さんの、思想の、代わりに、今度は、小夜子さんの、物語の、駒として、消費されるだけなのではないか。
わたしは、バッグから、「告白ノート」を、取り出した。
そして、最後の、ページを、開いた。
そこには、わたしの、拙い、文字で、こう、書かれていた。
『わたしの、地獄には、もはや、出口など、どこにも、なかったのだ』
わたしは、その、文字を、指で、なぞった。
本当に、そうだろうか。
出口は、ないのだろうか。
わたしは、ペンを、取り出すと、その、文章の、下に、新しい、一文を、書き加えた。
『――だから、わたしが、出口を、作るのだ』
それは、誰に、対するでもない、わたし自身の、決意表明だった。
わたしは、もう、誰かの、物語の、登場人物では、いられない。
わたしが、わたしの、物語を、書くのだ。
たとえ、それが、どれほど、醜くて、どれほど、痛みに、満ちた、物語だとしても。
バスは、闇の中を、走り続ける。
東へ、東へ。
夜明けの、来ない、夜を、突き進んでいく。
*
東京の、空気は、排気ガスと、無数の、人々の、欲望の、匂いがした。
新宿の、バスターミナルに、降り立った、わたしは、その、情報の、洪水に、眩暈を、感じた。
小夜子さんから、指定された、待ち合わせ場所は、高円寺の、駅前の、小さな、喫茶店だった。
わたしは、電車を、乗り継ぎ、その、店へと、向かった。
店は、古びていて、タバコの、ヤニで、壁が、黄ばんでいた。
わたしが、ドアを、開けると、カラン、と、ベルが、鳴った。
店の、一番、奥の、席に、彼女は、いた。
「……晶さん」
小夜子さんだった。
彼女は、一人で、コーヒーを、飲んでいた。
服装は、以前と、変わらない、地味な、ワンピース。
しかし、その、雰囲気は、明らかに、変わっていた。
彼女は、もはや、怯えた、小動物ではなかった。
その、物腰は、静かで、穏やかだが、その、奥には、絶対的な、自信と、支配者の、風格が、漂っていた。
「……よく、来てくれましたね」
彼女は、微笑んだ。
「……さあ、座ってください」
わたしは、彼女の、向かいの、席に、腰を下ろした。
「……皆は?」
わたしは、尋ねた。
「別の、場所に、います」小夜子さんは、答えた。「ここが、私たちの、新しい、アジトです」
彼女は、窓の、外を、指差した。
その先には、古びた、三階建ての、アパートが、あった。
「……あの、アパートの、一室を、借りました。保証人不要の、いわく付きの、物件ですけど、わたしたちには、お似合いでしょう?」
わたしは、その、アパートを、見上げた。
そこから、わたしたちの、新しい、闘争が、始まるのだ。
「……薊さんと、涼さんは?」
「二人とも、いますよ」小夜子さんは、楽しそうに、言った。「もちろん、以前のようには、いきませんけどね。あの、二頭の、猛獣を、どう、手懐けるか。それが、わたしの、当面の、課題です」
彼女は、まるで、チェスの、駒を、動かすように、二人の、女王を、操ろうとしているのだ。
「……それで、晶さん」小夜子さんは、わたしを、まっすぐに、見つめた。「覚悟は、できていますか?」
「……ええ」
わたしは、頷いた。
「……では、最初の、仕事を、お願いしましょうか」
彼女は、バッグから、一枚の、写真を、取り出した。
それは、一人の、女子高生の、写真だった。
制服を着て、少し、はにかんだように、笑っている。
「……この子は、斉藤美咲さん。都内の、私立高校に、通う、高校二年生です」
小夜子さんは、説明を、始めた。
「彼女は、今、苦しんでいます。彼女の、父親から、日常的に、性的虐待を、受けているんです」
わたしは、息を飲んだ。
「……警察には?」
「無駄でした」小夜子さんは、首を振った。「父親は、地元でも、有名な、名士。警察は、まともに、取り合ってくれなかった。母親は、見て見ぬふり。彼女には、逃げ場がないんです」
「……それで、わたしたちに、何を、しろと?」
「彼女を、救い出すんです」小夜子さんは、きっぱりと、言った。「そして、その、父親に、罰を、与えるんです。社会的に、そして、物理的に、二度と、立ち上がれないほどの、罰を」
それは、溝口の、時と、同じだった。
しかし、今度の、相手は、ただの、記者ではない。
権力と、名声を持った、社会の、強者だ。
「……どうやって?」
「それは、これから、皆で、考えます」小夜子さんは、言った。「薊さんの、知恵と、涼さんの、力。そして、晶さんの、記録する、力。その、全てを、結集すれば、できないことは、ありません」
彼女は、立ち上がった。
「さあ、行きましょう、晶さん。私たちの、城へ。皆が、待っていますよ」
わたしは、彼女の、後に、続いた。
喫茶店を、出て、横断歩道を、渡る。
目の前には、古びた、アパートが、そびえ立っている。
わたしは、これから、この、場所で、生きていくのだ。
この、新しい、女王と、そして、傷ついた、仲間たちと、一緒に。
わたしは、自分の、バッグの中に、入っている、ノートの、重みを、感じていた。
これから、この、ノートに、何が、記録されていくのだろう。
わたしたちの、闘争の、歴史。
わたしたちの、罪の、記録。
わたしは、少しだけ、空を、見上げた。
東京の、空は、狭くて、汚れていた。
でも、わたしには、その、空が、金沢の、あの、広くて、美しい、空よりも、ずっと、自由な、ものに、思えた。
わたしたちの、新しい、地獄が、始まる。
そして、わたしは、その、地獄を、愛してしまっている、自分に、気づいていた。
*
高円寺の、その、古い、アパートは、カビと、湿気の、匂いがした。
狭い、階段を、上り、三階の、一番、奥の、部屋。
小夜子さんが、鍵を、開けると、ぎい、と、ドアが、軋んだ音を、立てた。
「……ただいま、戻りました」
小夜子さんの、声に、部屋の、中から、いくつかの、視線が、こちらに、向けられた。
そこは、わたしたちの、新しい、アジト。
六畳一間の、和室。壁は、黄ばみ、畳は、ささくれ立っている。
しかし、その、狭い、空間には、かつての、部室と、同じ、異様な、熱気が、渦巻いていた。
部屋の、奥には、薊さんが、いた。
彼女は、窓際に、座り、一冊の、文庫本を、読んでいた。その、横顔は、静かで、美しい、石膏像のようだった。
そして、部屋の、隅では、涼さんが、黙々と、シャドーボクシングを、していた。その、拳が、空を、切る、音が、ひゅっ、ひゅっ、と響く。
沙月さんや、他の、思想派の、メンバー。
そして、涼さんに、まだ、付き従う、実践派の、数人。
皆、ここに、いた。
彼女たちは、それぞれの、家を、捨て、この、場所に、集まってきたのだ。
「……晶さん、紹介します。今日から、新しく、私たちの、仲間になる、高村晶さんです」
小夜子さんの、言葉に、部屋の、中の、視線が、一斉に、わたしに、集中した。
歓迎の、視線ではない。
値踏みするような、警戒するような、視線。
わたしは、この、場所で、試されるのだ。
わたしが、本当に、仲間として、ふさわしいのかどうかを。
「……晶さんには、これから、わたしたちの、活動の、全てを、記録し、理論化する、役割を、担ってもらいます」小夜子さんは、続けた。「彼女は、わたしたちの、聖書の、編纂者です」
その、言葉に、沙月さんの、眉が、ぴくり、と動いた。
理論化。それは、本来、彼女の、役割だったはずだ。
小夜子さんは、巧みに、わたしを、利用して、沙月さんを、牽制しているのだ。
「……よろしく、お願いします」
わたしは、深く、頭を、下げた。
その夜、わたしたちの、最初の、作戦会議が、開かれた。
議題は、もちろん、「斉藤美咲の、救出と、その、父親への、報復」について。
「……まず、敵の、情報を、徹底的に、洗い直します」
小夜子さんが、ホワイトボードに、書き込みながら、言った。
「父親の名前は、斉藤健介。地元の、建設会社の、社長。市議会議員との、繋がりも、深い。典型的な、地域の、名士ね。こういう、タイプの、人間が、一番、気にするのは、世間体と、プライド。そこを、突くのが、定石でしょう」
「……彼の、会社の、不正を、暴くのは、どうかしら」
薊さんが、静かに、口を開いた。
「脱税、談合、違法献金。探れば、埃の一つや、二つ、必ず、出てくるはずよ。それを、マスコミに、リークすれば、彼の、社会的な、地位は、失墜する」
「生ぬるいな」
今度は、涼さんが、言った。
「そんな、遠回しなこと、やってられるかよ。直接、家に、乗り込んで、美咲を、連れ出して、親父を、半殺しにすりゃあ、いいだろうが」
また、始まった。
思想と、暴力の、対立。
しかし、小夜子さんは、それを、楽しむように、微笑んだ。
「……どちらも、有効な、手段です。だから、両方、やりましょう」
彼女の、その、言葉に、わたしは、既視感を、覚えた。
溝口の、時と、同じだ。
彼女は、二つの、対立する、力を、利用し、より、破壊的な、結論へと、導こうとしている。
「……まず、薊さんと、沙月さんたち、思想派の、チームには、斉藤健介の、身辺調査と、不正の、証拠集めを、お願いし-ます。晶さん、あなたも、そちらの、チームに、入って、情報の、整理と、分析を、手伝ってください」
「……はい」
わたしは、頷いた。
「そして、涼さんたち、実践派の、チームには、美咲さんの、救出と、父親への、『直接的制裁』の、ための、実働部隊として、動いてもらいます。家の、見取り図、警備の、状況、父親の、行動パターン。全て、洗い出してください」
「……おう、任せとけ」
涼さんが、獰猛に、笑った。
「……そして、わたしは」小夜子さんは、言った。「わたしは、斉藤美咲さん、本人と、接触します」
「……どうやって?」わたしは、尋ねた。
「彼女が、通っている、高校に、教育実習生として、潜入します」
小夜子さんは、こともなげに、言った。
その、あまりにも、大胆な、計画に、誰もが、言葉を、失った。
「……大丈夫なんですか、そんなこと」
「大丈夫ですよ」小夜子さんは、微笑んだ。「わたしたちには、薊さんの、お父様の、力も、ありますから。ちょっとした、書類の、偽造くらい、どうにでも、なります」
彼女は、再び、薊さんの、父親の、権力を、利用しようとしている。
薊さんは、その、言葉に、顔を、歪めたが、何も、言わなかった。
こうして、わたしたちの、最初の、ミッションが、始まった。
それは、まるで、スパイ映画のような、緻密で、そして、危険な、ゲームだった。
わたしは、生まれて初めて、自分が、生きている、という、実感を得ていた。
毎日が、スリルと、興奮に、満ちていた。
わたしは、この、新しい、地獄を、心から、楽しんでいた。
しかし、わたしは、まだ、知らなかった。
この、ゲームの、先に、どのような、本当の、地獄が、待っているのかを。
そして、この、斉藤美咲という、少女が、わたしたちの、運命を、大きく、狂わせる、引き金になる、ということを。
わたしたちの、聖書の、新しい、章が、今、まさに、血と、インクで、書き記されようとしていた。
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