第9話
わたしたちの、王国は、一夜にして、崩壊した。
いや、違う。
王国は、崩壊などしていなかった。
それは、わたしたちの、思い上がりだった。
わたしたちは、最初から、王国など、築いてはいなかったのだ。
わたしたちは、ただ、大学という、巨大な、システムの、片隅にある、古い、部室という、檻の中で、女王ごっこを、していただけだった。
そして、檻の、外から、本物の、権力が、その、冷たい、視線を、向けた時、わたしたちの、脆い、王国は、砂の城のように、いともたやすく、崩れ去った。
ドアの、外に、立っていたのは、二人の中年の、大学職員と、三人の、制服警官だった。
職員の、一人が、冷たい、事務的な、声で、言った。
「……聖和女子大学、クィア・フェミニズム研究会、ですね。あなた方に、話が、あります。一緒に、来てもらえますか」
その、言葉は、質問の、形を、していたが、拒否という、選択肢は、存在しなかった。
部室の、中の、空気が、一瞬にして、凍りついた。
さっきまでの、祝祭の、熱狂が、嘘のように、消え去り、その代わりに、冷たい、現実が、わたしたちの、喉元に、突きつけられた。
メンバーたちの、顔から、血の気が、引いていく。
ある者は、唇を、震わせ。
ある者は、目を、見開き。
ある者は、ただ、呆然と、立ち尽くしている。
わたしは、思った。
終わった、と。
わたしたちの、秘密の、ゲームは、全て、終わったのだ、と。
しかし、その、絶望的な、静寂を、破ったのは、やはり、彼女だった。
「……話、とは、何でしょうか」
小夜子さんだった。
彼女は、わたしの、隣で、静かに、立っていた。その、顔には、恐怖も、動揺も、一切、浮かんでいない。それどころか、その、瞳の、奥には、好奇心に、似た、冷たい、光が、宿っているようにさえ、見えた。
彼女は、この、絶望的な、状況さえも、新しい、ゲームとして、楽しんでいるのだ。
「……それは、場所を、移して、ゆっくりと」職員は、感情のない、声で、答えた。「とにかく、全員、ここから、出てください。この、部室は、本日をもって、立ち入り禁止とします」
立ち入り禁止。
その、言葉が、わたしたちの、胸に、重く、のしかかる。
わたしたちの、聖域。わたしたちの、唯一の、居場所。それが、今、奪われようとしている。
その時だった。
「……待ちなさい」
静かな、しかし、凛とした、声が、響いた。
一条薊さんだった。
彼女は、ソファから、ゆっくりと、立ち上がると、職員と、警官たちの、前に、進み出た。その、姿は、もはや、地に落ちた、王ではなかった。それは、自らの、領地を、侵犯された、誇り高き、女王の、姿、そのものだった。
「……我々は、この大学の、正式な、サークルです。正当な、理由なく、我々の、活動の、自由を、侵害することは、大学の、自治に対する、重大な、挑戦と、見なしますが、よろしいですね?」
彼女の、その、法律用語を、散りばめた、理路整然とした、抗議に、職員たちは、一瞬、たじろいだ。
「……理由なら、ある」
今度は、橘涼さんが、低い声で、言った。彼女もまた、薊さんの、隣に、立っていた。
「……おれたちの、仲間が、一人、行方不明なんだよ。昨日の夜からな。あんたたち、何か、知ってんじゃねえのか」
涼さんが、言っているのは、響子さんのことだった。
あの日、部室を、飛び出していったきり、彼女は、戻ってきていなかった。
その、涼さんの、言葉に、警官の、一人の、眉が、ぴくり、と動いた。
「……行方不明? それは、本当かね」
「ああ、本当だ」涼さんは、警官を、まっすぐに、睨みつけた。「だから、おれたちは、今、そいつを、探してるところだ。邪魔すんじゃねえよ」
わたしは、息を飲んだ。
薊さんと、涼さん。
二人の、旧い、女王が、瞬時に、状況を、判断し、そして、即興で、反撃の、物語を、作り上げている。
思想と、暴力。
その、二つの、力が、今、外部の、敵に対して、初めて、完璧な、形で、連携している。
そして、その、二人の、後ろで、小夜子さんが、静かに、微笑んでいた。
まるで、全ては、あなたの、筋書き通りです、とでも、言うように。
職員と、警官たちは、顔を、見合わせた。
彼らの、想定していた、シナリオが、崩れ始めている。
彼らは、ただ、一方的に、わたしたちを、断罪する、つもりだったのだろう。
しかし、わたしたちは、もはや、ただの、女子大生ではなかった。
わたしたちは、この、異常な、空間で、生き抜いてきた、闘争の、プロフェッショナルだった。
「……とにかく」職員は、声を、絞り出すように、言った。「事情は、学生課で、聞きます。全員、来なさい」
抵抗は、そこまでだった。
わたしたちは、結局、その、システムという、巨大な、力の前には、無力だった。
わたしたちは、一人、また一人と、部室を、後にした。
最後に、わたしが、部屋を、出るとき、振り返って、中を、見た。
そこには、もう、誰もいなかった。
ただ、薄暗い、照明の中に、黒い、染みのついた、畳マットと、破裂した、サンドバッグだけが、静かに、横たわっていた。
わたしたちの、王国の、残骸だった。
*
わたしたちは、別々の、部屋で、一人ずつ、事情聴取を、受けることになった。
わたしが、通されたのは、学生課の、隣にある、小さな、応接室だった。
そこには、先ほどの、大学職員と、私服の、刑事が、一人、座っていた。
刑事は、年の頃、五十代くらいで、疲れたような、しかし、全てを、見透かすような、鋭い、目をしていた。
「……高村晶さん、だね」
刑事が、低い声で、言った。
「……まあ、座りなさい」
わたしは、促されるまま、パイプ椅子に、腰掛けた。
机の上には、わたしの、学生証と、そして、一冊の、ノートが、置かれていた。
わたしの、「告白ノート」だった。
おそらく、わたしたちが、連行された後、部室は、家宅捜索を、受けたのだろう。
「……これは、君の、ノートだね」
刑事が、ノートを、指差しながら、言った。
「……面白いことが、書いてあるじゃないか。まるで、小説みたいだ。君、文才が、あるんだな」
その、言葉に、皮肉が、込められているのか、どうか、わたしには、判断できなかった。
「……それで、高村さん」刑事は、続けた。「単刀直入に、聞こう。昨日の夜、この、部室で、何が、あったんだ?」
わたしは、黙っていた。
口を、開けば、全てが、終わってしまう。
わたしは、小夜子さんの、顔を、思い浮かべた。
彼女の、あの、冷たい、瞳を。
「……何も、ありませんでした」
わたしは、震える声で、答えた。
「……昨日は、ただ、いつものように、定例会を、していただけです」
「定例会?」刑事は、面白そうに、言った。「この、ノートに、書いてあるような、ことかな? 『告白と、聞くこと』の会、とか、『
「……それは……」
「……まあ、いい」刑事は、わたしの、言葉を、遮った。「では、聞くが、溝口という、男を、知っているかね? 週刊誌の、記者だ」
わたしは、心臓が、跳ね上がるのを、感じた。
やはり、彼らは、溝口のことを、嗅ぎつけていたのだ。
「……知りません」
「そうか」刑事は、つまらなそうに、言った。「彼の、会社から、捜索願が、出ているんだ。昨日の、夕方、君たちの、サークルを、取材する、と言って、出かけたきり、連絡が、取れない、とね。彼の、最後の、足取りが、この、大学なんだ」
わたしは、黙って、下を、向いていた。
「……高村さん」刑事の声の、トーンが、変わった。「君は、まだ、若い。未来も、ある。ここで、馬鹿な、仲間を、庇って、自分の、人生を、棒に、振るうことは、ないんだぞ。正直に、話せば、君の、罪も、軽くなるかもしれない。わかるな?」
甘い、悪魔の、囁き。
分断し、孤立させ、そして、自白させる。
それは、彼らの、常套手段だ。
わたしは、小夜子さんの、言葉を、思い出していた。
『わたしたちは、初めて、一つに、なれたんです。晶さんが、いてくれた、おかげです』
わたしは、裏切れない。
わたしは、もう、独りでは、ないのだから。
「……何も、知りません」
わたしは、顔を上げて、きっぱりと、言った。
「溝口さんという、人が、ここに来たかどうかも、知りません。私たちは、ただ、サークル活動を、していただけです」
刑事は、しばらく、黙って、わたしを、見つめていた。
その、鋭い、視線が、わたしの、心の、奥底まで、探ろうとしているのが、わかった。
やがて、彼は、ふう、と大きな、ため息を、ついた。
「……わかった。まあ、いいだろう」
彼は、そう言うと、立ち上がった。
「……だがな、お嬢ちゃん。一つだけ、言っておく。君たちが、何を、隠そうと、真実は、いずれ、明らかになる。それが、この、社会の、ルールだ」
その、言葉を、最後に、刑事は、部屋を、出て行った。
わたしは、一人、応接室に、残された。
全身から、力が、抜けていくのを、感じた。
わたしは、なんとか、第一ラウンドを、乗り切ったのだ。
しかし、闘いは、まだ、始まったばかりだった。
*
事情聴取は、メンバー、全員に、及んだ。
しかし、結果は、同じだった。
誰も、口を、割らなかった。
思想派も、実践派も、関係なく、全員が、口を、揃えて、「何も、知らない」と、言い張ったのだ。
あれほど、憎み合い、対立していた、彼女たちが、外部の、敵を、前にして、完璧な、沈黙の、共犯関係を、築き上げていた。
小夜子さんの、蒔いた、種が、今、最も、皮肉な、形で、実を、結んだのだ。
「告白と、聞くこと」の会で、互いの、痛みを、共有した、わたしたちは、いつの間にか、互いの、弱みを、握り合う、相互監視の、システムに、組み込まれていた。
誰も、裏切れない。
一人でも、裏切れば、自分も、破滅する。
その、恐怖が、わたしたちを、一つに、していた。
警察は、決定的な、証拠を、掴むことができなかった。
溝口の、身体も、凶器も、見つからない。
あるのは、状況証拠と、わたしたちの、胡散臭い、黙秘だけ。
結局、わたしたちは、数日後に、解放された。
ただし、サークル活動の、無期限、停止と、メンバー全員の、自宅謹慎という、重い、処分を、言い渡されて。
わたしたちは、戦いに、勝ったのだろうか。
それとも、負けたのだろうか。
わたしには、わからなかった。
わたしは、金沢の、実家に、強制的に、送り返された。
父は、わたしを、罵倒した。「大学まで、行かせてやったのに、家の、名前に、泥を、塗りやがって」と。
母は、ただ、泣いていた。「どうして、こんなことに、なってしまったの」と。
わたしは、何も、言い返さなかった。
わたしは、自分の、部屋に、閉じこもった。
そこは、かつて、わたしが、逃げ込んだ、安全な、場所だったはずなのに、今は、息が、詰まるような、牢獄にしか、感じられなかった。
わたしは、サークルの、皆のことを、考えていた。
小夜子さんは、どうしているだろう。
薊さんは、涼さんは、どうしているだろう。
連絡を、取る、術は、なかった。
ポケベルも、携帯電話も、取り上げられてしまった。
わたしは、完全に、孤立していた。
そんな、ある日の、夜。
わたしの、部屋の、電話が、鳴った。
こんな、時間に、誰だろう。
わたしが、恐る恐る、受話器を、取ると。
「……もしもし、晶さん?」
その、声に、わたしは、息を、飲んだ。
小夜子さんだった。
「……小夜子さん? どうして、この、番号を……」
「調べましたから」彼女は、当たり前のように、言った。「晶さんのことなら、何でも、わかりますよ」
その、言葉に、わたしの、背筋が、凍りついた。
「……皆、無事です」小夜子さんは、続けた。「処分は、重いですが、退学は、免れました。薊さんの、お父様が、大学に、圧力を、かけてくれた、おかげです」
薊さんの、父親。
彼女が、あれほど、憎んでいた、家父長制の、権化。
その、力によって、わたしたちは、救われた、というのか。
なんという、皮肉だろう。
「……それで、これから、どうするの?」わたしは、尋ねた。
「決まっていますよ」小夜子さんの、声が、楽しそうに、弾んだ。「闘うんです。ここからが、本番ですよ、晶さん」
「……本番?」
「はい。大学という、檻から、解放された、今、私たちの、闘争は、新しい、ステージに、入るんです。私たちは、地下に、潜ります。そして、ネットワークを、作ります。この、社会の、片隅で、声を、あげられずに、苦しんでいる、全ての、女性たちの、ための、ネットワークを」
彼女の、語る、壮大な、ビジョンに、わたしは、眩暈が、した。
「……溝口の、一件は、最高の、宣伝に、なりました。私たちの、名前は、裏社会に、少しだけ、知れ渡ったようです。面白い、ことを、やっている、過激な、女たちが、いる、とね。すでに、何人かから、接触が、ありました」
「……まさか」
「その、まさかですよ」小夜子さんは、くすくすと、笑った。「私たちの、闘争サークルは、今日から、本物の、レジスタンス組織になるんです。そして、晶さん。あなたには、その、組織の、頭脳に、なってもらいたい」
「……わたしが?」
「はい。あなたの、その、記録する、能力、分析する、能力が、必要なんです。あなたは、私たちの、闘争の、歴史を、記録し、理論化し、そして、次の、世代へと、伝えていく、重要な、役割を、担うんです。あなたは、私たちの、聖書の、編纂者になるんですよ」
聖書の、編纂者。
その、甘美な、響きに、わたしの、心は、再び、揺れ動いた。
「……待っていますから」
小夜子さんは、最後に、そう、言った。
「……東京で、待っています。晶さんが、あなたの、意思で、その、牢獄から、抜け出して、わたしの、元へ、来てくれるのを」
電話は、切れた。
わたしは、受話器を、握りしめたまま、呆然と、していた。
東京へ、行く?
この、家を、捨てて?
父も、母も、捨てて?
そして、彼女の、元へ?
わたしは、窓の、外を、見た。
そこには、暗い、夜の、空が、広がっているだけだった。
でも、その、闇の、向こうに、確かに、見えた気がした。
東京の、街の、光が。
そして、その、光の、中で、わたしを、待っている、彼女の、姿が。
わたしは、どうすれば、いいのだろう。
この、安全な、牢獄で、死んだように、生き続けるのか。
それとも、あの、危険な、地獄へと、自ら、飛び込んでいくのか。
答えは、もう、出ていたのかもしれない。
わたしは、ゆっくりと、立ち上がった。
そして、クローゼットの、奥から、小さな、ボストンバッグを、取り出した。
わたしの、最後の、
それは、わたし自身との、闘いだった。
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