第8話

決戦の、当日。


部室は、完璧に、演出されていた。


窓は、黒い、布で、覆われ、部屋の中は、薄暗い、照明だけが、灯されている。空気中には、サンダルウッドの、重い、香が、焚き込められ、異様な、宗教的な、雰囲気を、醸し出していた。それは、これから、始まる、儀式のための、祭壇だった。生贄は、一人。週刊誌の記者、溝口。そして、その、儀式を、執り行うのは、三人の、巫女。


畳マットの、中央には、三つの、椅子が、置かれている。

中央に、小夜子さん。

その、両脇を、固めるように、薊さんと、涼さん。


三人の、女王が、静かに、座っている。


わたしたちは、その、背後に、壁のように、並んで、立っていた。思想派も、実践派も、もはや、そこに、区別はなかった。わたしたちは、ただ、一つの、目的のために、集められた、兵士だった。小夜子さんという、指揮官に、率いられた、狂信者の、軍隊だった。


やがて、部室の、ドアが、ノックされた。

以前の、小夜子さんの、それとは、違う、無神経で、がさつな、ノック。


「……どうぞ」


小夜子さんの、静かな、声が、響く。


ドアが、開き、一人の、男が、入ってきた。


溝口だった。


年は、四十代半ば。よれよれの、スーツを着て、脂ぎった、顔には、下品な、笑みを、浮かべている。その、小さな、目で、部室の中を、好奇心、丸出しで、見回している。彼は、この、異様な、雰囲気を、楽しんでいるようだった。これから、始まる、ショーを、特等席で、観覧できる、観客のように。


「……いやあ、どうも、どうも。週刊誌の、溝口です」


彼は、馴れ馴れしく、言った。


「……お待ちしていました、溝口さん」小夜子さんは、静かに、答えた。「どうぞ、そちらへ」


彼女が、指差したのは、三人の、女王の、正面に、一つだけ、置かれた、パイプ椅子だった。それは、被告人の、ための、椅子だった。


溝口は、にやにやしながら、その、椅子に、腰掛けた。


「……それで、今日は、一体、どんな、面白い、話を、聞かせてもらえるのかな? 『レサークル』の、女王様たち」


彼は、テープレコーダーの、録音ボタンを、押した。


その、カチッ、という音が、戦いの、始まりを、告げる、ゴングとなった。


最初に、口を、開いたのは、薊さんだった。


「……溝口さん。あなたは、なぜ、ここに、来たのですか?」


その声は、冷たく、そして、鋭かった。まるで、メスのように、相手の、本質を、切り開こうとする、声。


「はあ? そりゃあ、もちろん、記事にするためですよ。あんたたちみたいな、面白い、ネタ、そうそう、転がっちゃいないからね」


「面白い、ネタ?」薊さんは、静かに、繰り返した。「私たちの、この、闘争が、あなたにとっては、ただの、消費されるべき、ネタにしか、見えない、と」


「まあ、そういうことだね。仕事なんでね、こっちも」


「……なるほど」薊さんは、頷いた。「では、聞きますが、あなたは、ジャーナリストとして、自らの、仕事に、誇りを、持っていますか? 真実を、追求し、社会の、不正を、暴く、という、その、崇高な、理念を」


「はは、お嬢ちゃん、青臭いこと、言うねえ。そんなもん、とっくの昔に、捨てちまったよ。大事なのは、雑誌が、売れるか、どうか。読者が、面白がるか、どうか。それだけさ」


「つまり、あなたは、真実よりも、金と、大衆の、下世話な、好奇心を、優先する、と。そういうことですね」


「まあ、身も蓋もなく言やあ、そうなるかな」


溝口は、まだ、余裕の、表情を、崩さない。


しかし、わたしには、わかった。薊さんの、論理の、網が、少しずつ、彼に、絡みつき始めているのを。彼女は、溝口自身の、言葉を、使って、彼を、倫理的に、破綻した、存在として、定義し直しているのだ。


「……では、最後の、質問です」薊さんは、言った。「あなたは、女性を、どう、思いますか?」


「はあ? なんだい、藪から棒に」


「お答えください」


「……どう、思うって……。まあ、そりゃあ、弱い、生き物なんじゃないの? 男に、守られて、生きていく、っていうかさ。まあ、あんたたちみたいに、元気なのも、いるみたいだけどね」


その、あまりにも、無自覚で、あまりにも、陳腐な、答えに、部室の、空気が、さらに、冷え込んだ。わたしたち、一人一人の、胸の内に、冷たい、怒りの、炎が、灯るのを、わたしは、感じた。


「……そうですか」


薊さんは、静かに、言った。


「……あなたの、その、言葉、そのものが、あなたが、いかに、家父長制という、構造的な、暴力に、無自覚であるかの、証明です。あなたは、女性を、対等な、人間として、見ていない。ただ、性的に、消費し、支配する、対象としてしか、見ていない。あなたのような、存在こそが、この、社会を、腐らせている、元凶なのよ」


薊さんの、言葉は、もはや、尋問ではなかった。

それは、断罪だった。


溝口の、顔から、ようやく、笑みが、消えた。


「……なんだと、てめえ……。女の、くせに、偉そうな、口、利きやがって……」


彼が、そう、言いかけた、その時。動いたのは、涼さんだった。


彼女は、すっ、と立ち上がると、溝口の、目の前にある、サンドバッグの、元へと、歩いていった。その、動きには、一切の、無駄がなかった。まるで、獲物を、狙う、豹のように。


そして、次の瞬間。


「うおおおおおおっ!」


彼女は、雄叫びを、あげながら、サンドバッグに、強烈な、回し蹴りを、叩き込んだ。


どごおぉぉん、という、轟音が、部室に、響き渡った。


頑丈な、鎖で、天井から、吊るされていたはずの、サンドバッグが、その、一撃で、根元から、引きちぎれ、まるで、砲弾のように、壁に、激突して、破裂した。中から、大量の、砂が、滝のように、流れ出す。


その、人間離れした、破壊力に、溝口は、完全に、言葉を、失っていた。その、脂ぎった、顔は、恐怖で、真っ青になっている。彼の、小さな、目が、信じられない、というように、見開かれ、破裂した、サンドバッグと、涼さんの、顔を、交互に、見ている。


「……おい」


涼さんは、ゆっくりと、溝口の、方へ、向き直った。


「……おれはな、弱い、生き物、なんかじゃ、ねえぞ」


その、低い声は、地獄の、底から、響いてくるようだった。


「……もう一度、言ってみろ。おれたちが、なんだって?」


溝口は、椅子の上で、がたがたと、震えている。その、口は、ぱくぱく、と動いているが、声に、なっていない。


彼の、精神は、薊さんの、言葉で、解体され。

彼の、現実は、涼さんの、暴力で、破壊された。


彼は、もはや、安全な、観客ではなかった。

彼は、この、狂った、劇の、舞台に、引きずり込まれた、哀れな、役者だった。


そして、最後に、とどめを、刺したのは、小夜子さんだった。


彼女は、静かに、立ち上がると、震える、溝口の、隣に、立った。

そして、その、耳元で、悪魔のように、甘く、囁いた。


「……溝口、さん」


その、声に、溝口の、身体が、びくん、と、電気に、打たれたように、跳ねた。


「……あなたのこと、調べさせてもらいました」


小夜子さんは、続けた。その声は、まるで、子守唄のように、穏やかだった。


「……消費者金融、五社から、合計、三百万円の、借金。奥様には、内緒、なんですよね? 毎月の、返済、大変でしょう。だから、こんな、危ない、橋を、渡ってまで、金に、なる、記事を、書こうと、している」


溝口の、目が、信じられない、というように、大きく、見開かれる。


「……それから、田中、由美さん、でしたっけ。二十二歳の、フリーターの。あなたの、愛人。彼女、最近、あなたに、別れ話を、切り出しているそうですね。あなたが、暴力を、振るうから。そして、彼女、あなたの、奥様に、全てを、話そうか、どうか、悩んでいる、とか。彼女の、相談に、乗ってあげている、友人の、BBSで、見つけました」


「……な、なぜ、お前が、そんなことを……。そ、そんな、ものは、でっち上げだ……」


溝口の声は、もはや、ただの、悲鳴だった。


「……わたしたちには、わたしたちの、情報網が、ありますから」小夜子さんは、にこり、と笑った。「ねえ、溝口さん。もし、この記事が、世に出たら、どうなるでしょうね。あなたの、借金のことも、不倫のことも、DVのことも、わたしたちが、懇意にしている、別の、メディアに、情報提供、させてもらうことに、なるかもしれません。あなたの、奥様の、元にも、匿名の、手紙が、届くかも、しれませんね。証拠の、写真付きで」


彼女は、そこで、一度、言葉を切った。


「……あなたの、家庭も、あなたの、社会的な、信用も、あなたの、人生、そのものも。わたしたちが、全部、壊して、あげますよ」


その、言葉は、最終宣告だった。


「……ひ、ひいいいぃぃぃ!」


溝口は、奇声を、あげると、椅子から、転げ落ち、這うようにして、ドアへと、向かった。


「た、助けてくれ! 誰か! ここから、出してくれ!」


しかし、その、ドアは、実践派の、メンバーたちによって、固く、閉ざされていた。彼女たちは、まるで、地獄の、番人のように、無表情で、立っている。


「……さて」


小夜子さんは、静かに、言った。


「……ショータイムの、始まりです」


彼女が、ぱちん、と指を鳴らすと、部室の、照明が、全て、消えた。


完全な、暗闇。


その中で、わたしは、聞いた。


溝口の、断末魔の、絶叫と。

何かが、何度も、何度も、叩きつけられ、破壊されていく、音を。

肉が、裂ける、音。

骨が、砕ける、音。

そして、女たちの、甲高い、笑い声。


わたしは、目を、閉じて、耳を、塞いだ。

でも、その、音は、わたしの、頭蓋の、内側に、直接、響いてきた。

わたしは、その、暴力の、共犯者だった。

わたしは、その、リンチの、観客だった。

わたしは、吐きそうだった。胃の中の、ものが、せり上がってくる。でも、わたしは、吐けなかった。


どれくらいの、時間が、経ったのだろう。

永遠のようにも、一瞬のようにも、感じられた。


やがて、全ての、音が、止んだ。


そして、ぱちり、と、再び、照明が、ついた。


部室の、中央には、誰も、いなかった。

溝口の、姿は、どこにも、なかった。


ただ、床の上には、彼のものだったであろう、ばらばらに、壊れた、テープレコーダーと、レンズの、割れた、眼鏡だけが、無残に、転がっていた。

そして、畳の上には、新しい、黒い、染みが、いくつも、できていた。


そして、メンバーたちは。


思想派も、実践派も、関係なく、皆、恍惚とした、表情を、浮かべて、立っていた。

その、顔は、紅潮し、その、目は、熱に、浮かされている。

彼女たちは、ついに、共通の、敵を、打ち破り、完全な、一体感を、手に入れたのだ。

その、異様な、光景に、わたしは、吐き気を、覚えた。

これは、連帯などではない。

これは、集団的な、狂気だ。リンチだ。


そして、わたしは、見てしまった。


その、狂乱の、輪の、中心で。

小夜子さんだけが、ただ、一人、冷たい、目で、静かに、微笑んでいるのを。


彼女の、真の、目的は、外部の、敵を、排除することでは、なかった。

彼女の、目的は、この、サークルを、自らの、意のままに、動く、完全な、軍隊へと、作り変えることだったのだ。

そして、その、計画は、今、完璧に、達成された。


わたしは、理解した。

わたしは、この、恐ろしい、儀式の、最後の、仕上げとして、利用されたのだ。

わたしの、「告白」が、この、集団の、結束を、高めるための、生贄に、されたのだ。


わたしは、ゆっくりと、後ずさった。

ドアへと、向かって。

ここから、逃げ出さなければ。

この、狂った、場所から。

この、恐ろしい、悪魔の、支配から。


その時、小夜子さんが、わたしの方を、振り向いた。


そして、にっこりと、花のように、笑った。


「……晶さん」


彼女は、言った。


「……どこへ、行くんですか? 私たちの、闘いは、まだ、始まったばかり、ですよ」


その、声は、もう、わたしには、悪魔の、囁きには、聞こえなかった。


それは、わたしという、共犯者に、向けられた、絶対的な、支配者の、声だった。


わたしは、その場に、崩れ落ちた。


わたしの、地獄には、もはや、出口など、どこにも、なかったのだ。



溝口が、「処理」された後、部室は、奇妙な、祝祭の、雰囲気に、包まれた。


メンバーたちは、酒を、持ち込み、タバコを、ふかし、大声で、笑い、歌った。

思想派も、実践派も、もはや、そこには、なかった。

彼女たちは、ただ、一つの、勝利に、酔いしれる、同志だった。


わたしは、その、狂乱の、輪から、離れ、一人、部室の、隅で、膝を、抱えていた。

吐き気は、まだ、収まらない。

頭の中では、まだ、あの、音が、鳴り響いている。


わたしは、どうすれば、いいのだろう。

警察に、行くべきか?

でも、何を、どう、話せばいい?

わたしも、共犯者だ。わたしが、集めた、情報が、彼を、破滅させたのだ。


その時、わたしの、隣に、誰かが、座った。


「……しけた、ツラしてんなよ、晶」


涼さんだった。彼女の手には、缶ビールが、握られていた。


「……橘さん……」


「まあ、気持ちは、わかるけどな」彼女は、ビールを、一口、飲むと、言った。「ちと、やりすぎた、ってか? でもな、あれくらい、やんなきゃ、わかんねえんだよ、ああいう、馬鹿には」


「……でも、あれは……」


「リンチだ、ってか?」涼さんは、わたしの、心を、見透かしたように、言った。「そうかもな。でもな、おれたちは、ずっと、そうやって、やられてきたんだぜ。社会から、世間から、家族から。見えねえ、暴力で、毎日、毎日、リンチされてきたんだ。だったら、たまには、こっちから、やり返したって、バチは、当たらねえだろ」


彼女の、言葉は、乱暴だったが、不思議と、わたしの、心に、響いた。


「……あんたは、優しいんだよ、晶」涼さんは、言った。「でもな、優しさだけじゃ、生きていけねえんだよ、この、クソみてえな、世界は。時には、鬼にでも、悪魔にでも、ならなきゃ、自分を、守れねえ時が、あんだよ」


彼女は、そう言うと、わたしの、頭を、くしゃくしゃ、と撫でた。

その、手は、大きくて、温かかった。


次に、やってきたのは、薊さんだった。


「……高村さん」


彼女は、涼さんの、隣に、立つと、静かに、言った。


「……あなたは、今、混乱しているでしょう。自らの、行為の、倫理的な、正当性に、ついて。しかし、忘れないで。倫理とは、常に、権力者の、側にある、ということを。私たちは、既存の、倫理を、破壊し、私たちの、ための、新しい、倫理を、創造しなければならない。そのための、痛みよ。これは」


彼女の、言葉は、相変わらず、難解だったが、わたしは、その、意味を、理解しようと、努めた。


旧い、二人の、女王は、それぞれの、やり方で、わたしを、慰めようと、してくれているのかもしれない。

あるいは、わたしを、自分たちの、側に、引き込もうと、しているのかもしれない。


わたしは、わからなかった。

もう、何もかも、わからなかった。


最後に、やってきたのは、小夜子さんだった。


彼女は、わたしの、目の前に、屈むと、わたしの、顔を、じっと、覗き込んだ。


「……晶さん」


彼女は、優しく、言った。


「……怖かったですね。辛かったですね。でも、見てください。皆の、顔を」


わたしは、顔を上げて、部室の、中を、見渡した。


メンバーたちは、確かに、笑っていた。

その、笑顔は、狂気に、満ちているかもしれない。

でも、そこには、確かに、解放された者の、喜びが、あった。


「……わたしたちは、初めて、一つに、なれたんです」小夜子さんは、言った。「晶さんが、いてくれた、おかげです。晶さんが、あなたの、痛みを、話してくれた、おかげです。あなたが、私たちの、心を、繋いでくれたんです」


彼女は、わたしの、手を、取った。


「……あなたは、もう、独りじゃない。あなたは、私たちの、仲間です。わたしの、大切な、パートナーです」


その、言葉に、わたしの、心は、大きく、揺さぶられた。


パートナー。


その、甘い、響き。


わたしは、ずっと、それを、求めていたのかもしれない。

わたしの、孤独を、埋めてくれる、誰かを。


わたしは、小夜子さんの、手を、握り返していた。

その、冷たい、手を。


「……だから、もう、迷わないで」


小夜子さんは、微笑んだ。


「……わたしたちの、闘いは、これからです。この、小さな、部室から、世界を、変えるんです。晶さんと、わたし、二人で」


その、言葉は、呪いのように、わたしの、魂に、絡みついた。


わたしは、もう、逃げられない。

逃げる、気も、なかった。


わたしは、この、悪魔の、手を取って、地獄の、底まで、堕ちていくことを、選んだのだ。


わたしたちの、祝宴は、朝まで、続いた。


そして、その、狂乱の、一夜が、明けた時。


部室の、ドアが、再び、ノックされた。


今度は、力強い、規則的な、ノックだった。


わたしが、ドアを、開けると、そこに、立っていたのは、大学の、職員と、数人の、警官だった。


「……聖和女子大学、クィア・フェミニズム研究会、ですね」


職員が、冷たい、声で、言った。


「……あなた方に、話が、あります。一緒に、来てもらえますか」


わたしたちの、王国は、一夜にして、崩壊した。


しかし、それは、終わりではなかった。


それは、新たな、闘争の、始まりに、過ぎなかったのだ。

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