第7話

三頭の、蛇が、一つの、獲物を、睨みつけている。


わたしは、その、光景を、書記用の、パイプ椅子から、見つめていた。畳マットの中央で、開かれた、作戦会議。それは、会議というよりは、三つの、異なる、殺意が、互いの、腹を、探り合う、儀式のようなものだった。


新しい、女王、小津小夜子。

地に落ちた、旧い、女王、一条薊。

そして、牙を、抜かれた、もう一人の、女王、橘涼。


彼女たちの、間に、横たわるのは、不信と、憎悪と、そして、一時的な、利害の、一致だけだ。


「……まず、現状を、整理しましょう」


会議の、主導権を、握ったのは、やはり、小夜子さんだった。彼女の、その、穏やかで、しかし、有無を言わせぬ、声が、重苦しい、部室の、空気を、支配する。わたしは、彼女の、言葉を、一言一句、聞き漏らさないように、ノートに、ペンを、走らせた。


「敵は、週刊誌の、記者。名前は、まだ、不明。目的は、私たちの、活動を、スキャンダラスに、報じ、世間の、好奇の、目に、晒すこと。そして、私たちの、手元には、響子さんが、接触した際の、名刺と、電話番号だけが、ある。情報が、あまりにも、少ない。これが、現状です」


彼女の、その、冷静な、状況分析に、誰も、口を、挟まない。


「そして、私たちの、目的は、彼の、企みを、未然に、防ぐこと。いいえ、それだけでは、足りない。彼の、存在そのものを、社会的に、あるいは、物理的に、抹殺し、二度と、私たちに、関われないように、すること。これが、私たちの、勝利条件となります」


小夜子さんは、そこで、一度、言葉を切ると、まず、薊さんに、視線を、向けた。


「……薊さん。あなたの、意見を、聞かせてください。あなたは、このような、外部からの、攻撃に対し、どう、対処すべきだと、考えますか?」


それは、敬意を、払っているようで、その実、彼女の、能力を、試すような、問いかけだった。


薊さんは、しばらく、虚空を、見つめていたが、やがて、その、虚ろな、瞳に、かつての、知性の、光を、宿して、答えた。


「……敵の、土俵で、戦うのは、愚策よ」


その声は、以前よりも、か細く、しかし、研ぎ澄まされていた。


「彼ら、マスゴミの、武器は、言葉と、イメージの、操作。彼らは、私たちの、この、複雑で、多層的な、闘争を、ただ、『女子大生の、過激な、お遊び』という、単純な、物語に、落とし込み、消費しようとするでしょう。それに、正面から、反論しても、無意味。彼らの、作った、フレームワークの中で、もがけば、もがくほど、私たちは、道化として、描かれるだけ」


彼女は、ゆっくりと、続けた。


「……だから、私たちは、彼らの、土俵そのものを、破壊しなければならない。彼を、この、部室に、招き入れる。そして、彼に、私たちの、思想を、直接、叩き込むのよ。彼が、これまで、信じてきた、男性中心的な、価値観、その、欺瞞を、徹底的に、論破し、彼の、精神を、内側から、解体する。彼が、ペンを、握る、気力さえ、失うほどに、その、魂を、破壊し尽くすの。それこそが、私たちの、思想派の、やり方よ」


その、あまりにも、過激で、しかし、知的な、殲滅プランに、沙月さんたち、思想派の、残党の、目に、再び、狂信的な、光が、宿った。


「……なるほど」小夜子さんは、満足そうに、頷いた。「素晴らしい、プランです。では、次に……涼さん。あなたの、意見は?」


小夜子さんの、視線が、涼さんに、移る。


涼さんは、ふん、と鼻を鳴らした。


「まどろっこしいんだよ、お前らは」


彼女は、吐き捨てるように、言った。


「論破? 精神の、解体? そんな、時間のかかる、面倒なこと、やってられるかよ。敵は、目の前に、いるんだ。だったら、やることは、一つだろうが」


彼女は、自分の、拳を、ぎゅっと、握りしめた。その、指の関節が、白くなる。


「……待ち伏せして、袋叩きにする。それだけだ」


あまりにも、シンプルで、あまりにも、直接的な、暴力の、プラン。


「二度と、ペンも、握れねえように、指の骨を、全部、折ってやる。社会的に、抹殺? 生ぬるいんだよ。物理的に、消しちまえば、それで、終わりだろうが。それが、おれたち、実践派の、やり方だ」


その、剥き出しの、殺意に、実践派の、メンバーたちが、にやり、と口元を、歪めた。


二つの、全く、異なる、殲滅プラン。

理論による、精神の、破壊か。

暴力による、肉体の、破壊か。


二つの、派閥は、再び、互いを、睨み合った。


わたしは、思った。駄目だ。これでは、また、同じことの、繰り返しだ。この、二つの、イデオロギーは、決して、交わることはない。


しかし、小夜子さんは、動じなかった。


「……どちらも、素晴らしい、プランですね」


彼女は、にこり、と笑った。


「薊さんの、理論的な、罠。涼さんの、直接的な、暴力。どちらも、非常に、有効です。ですが、どちらか、一つだけでは、足りない」


彼女は、立ち上がると、畳マットの、中央で、両腕を、広げた。まるで、二つの、軍団を、率いる、指揮官のように。


「……なぜ、両方、やらないんですか?」


その、言葉に、部室にいた、全員が、息を飲んだ。


「……どういう、ことだ」涼さんが、訝しげに、尋ねた。


「言葉通りですよ」小夜子さんは、続けた。「まず、薊さんの、プラン通り、記者を、この、部室に、招き入れます。そして、私たちの、思想で、彼の、精神を、徹底的に、追い詰める。彼の、信じてきた、世界を、内側から、破壊するんです」


彼女は、そこで、一度、言葉を切ると、その、冷たい、視線を、涼さんに、向けた。


「……そして、精神的に、完全に、無防備になった、彼を、あなたの、その、力で、物理的に、破壊する。魂と、肉体、その、両方を、同時に、完全に、砕き折るんです。そうすれば、彼は、二度と、立ち上がることはできない。人間として、終わる」


その、あまりにも、恐ろしい、ハイブリッドな、作戦に、わたしは、全身の、血が、凍りついた。


精神を、破壊した上で、肉体を、破壊する。

それは、もはや、闘争ではなかった。

それは、完全な、処刑だった。


しかし、その、狂気に、満ちた、プランは、不思議な、説得力を、持っていた。


薊さんの、顔に、満足げな、笑みが、浮かぶ。彼女の、理論が、最も、効果的な、形で、実践されるのだ。

涼さんの、顔にも、獰猛な、笑みが、浮かぶ。彼女の、暴力が、最も、屈辱的な、形で、相手を、支配するのだ。


対立していたはずの、二人の、女王が、初めて、同じ、方向を、向いた瞬間だった。

それは、共通の、敵を、殲滅するという、一点において。


「……決まり、ですね」


小夜子さんは、静かに、宣言した。


「では、早速、準備に、取り掛かりましょう。晶さん、あなたは、わたしと、一緒に、敵の、情報を、集めます。彼の、全てを、丸裸にするんです。彼の、弱点を、彼の、触れられたくない、傷を、一つ、残らず、暴き出す」


「……はい」


わたしは、まるで、操り人形のように、頷いた。


こうして、私たちの、地獄の、作戦会議は、幕を閉じた。

そして、サークル全体を、巻き込んだ、偽りの、共同作業が、始まったのだ。



それからの、数日間、部室は、異様な、熱気に、包まれた。


「打倒、週刊誌」という、唯一の、スローガンの下に、これまで、決して、交わることのなかった、メンバーたちが、それぞれの、役割を、黙々と、こなしていく。


思想派のメンバーたちは、薊さんの、指揮の下、図書館に、籠もり、膨大な、文献を、渉猟した。フェミニズム理論、クィア理論、メディア論、精神分析。あらゆる、知識を、総動員し、記者を、論理的に、追い詰めるための、完璧な、理論武装を、構築していく。沙月さんは、小夜子さんへの、憎悪を、心の、奥底に、押し込めて、かつての、神である、薊さんの、指示を、忠実に、実行していた。その姿は、痛々しいほどに、献身的だった。


実践派のメンバーたちは、涼さんの、号令の下、部室の、改造と、自らの、肉体の、鍛錬に、励んだ。畳マットは、新しく、分厚いものに、替えられ、サンドバッグも、より、頑丈なものが、運び込まれた。彼女たちは、毎日、汗まみれになりながら、トレーニングを、繰り返した。その、空気は、まるで、決戦を、控えた、兵士たちの、兵舎のようだった。彼女たちの、目には、もはや、迷いはなく、ただ、敵を、打ち破るという、純粋な、闘志だけが、燃え盛っていた。


そして、わたしと、小夜子さんは。


わたしたちは、部室の、隅にある、PCの前で、多くの、時間を、過ごした。


小夜子さんの、情報収集能力は、常軌を、逸していた。彼女は、響子さんから、聞き出した、記者の、名刺の、情報と、電話番号だけを、手がかりに、ダイヤルアップの、遅い、回線を使って、インターネットの、広大な、海を、探索し始めた。


当時の、まだ、黎明期にあった、検索エンジンを、駆使し、BBSの、過去ログを、一つ一つ、丹念に、洗い出し、そして、時には、ハッキングまがいの、方法で、データベースに、侵入し、彼女は、驚くべき、短時間で、敵の、正体を、突き止めた。


敵の名前は、溝口(みぞぐち)。

中堅の、出版社が、発行する、三流、週刊誌の、契約記者。

年齢は、四十代半ば。

過去には、芸能人の、ゴシップや、暴力団の、スキャンダルなど、きわどい、記事を、数多く、手がけてきた、いわく付きの、男。


しかし、小夜子さんが、暴き出したのは、そんな、表面的な、情報だけでは、なかった。


彼女は、溝口の、プライベートな、情報まで、手に入れていた。


彼が、複数の、消費者金融から、多額の、借金を、抱えていること。

彼が、妻とは、別に、若い、愛人を、囲っていること。

そして、その、愛人との間に、トラブルを、抱えていること。


「……見つけましたよ、晶さん」


ある日の、深夜、小夜子さんは、PCの、画面を、見ながら、静かに、言った。


「彼の、アキレス腱を」


画面には、匿名の、B事務所の、BBSの、書き込みが、表示されていた。そこには、溝口と、その、愛人との、生々しい、やり取りが、克明に、記されていた。


わたしは、その、内容を、読んで、吐き気を、催した。

同時に、小夜子さんの、その、底知れない、能力に、改めて、戦慄した。


「……どうして、こんなことまで、わかるの?」


わたしは、震える声で、尋ねた。


小夜子さんは、画面から、目を、離さずに、答えた。


「……インターネットは、情報の、宝庫ですよ。そして、人は、自分が、思っている以上に、多くの、痕跡を、そこに、残していくものなんです。特に、自分の、欲望に、忠実な、人間ほどね」


彼女は、にやり、と笑った。


「……これで、武器は、揃いました。あとは、彼が、来るのを、待つだけです」


わたしは、彼女の、その、笑顔を、見て、思った。


わたしは、悪魔と、契約してしまったのだ、と。


そして、そのことに、わたしは、もはや、何の、疑問も、抱かなくなっていた。



決行前夜。


部室には、嵐の前の、不気味な、静けさが、漂っていた。


メンバーたちは、それぞれの、持ち場で、最後の、準備を、進めている。

その、顔には、緊張と、高揚が、入り混じった、複雑な、表情が、浮かんでいた。


わたしは、書記として、作戦の、最終確認を、していた。

その時、不意に、後ろから、声を、かけられた。


「……高村さん」


振り返ると、そこに、立っていたのは、薊さんだった。


「……少し、いいかしら」


彼女に、誘われ、わたしは、部室の、隅にある、ソファに、腰掛けた。


「……いよいよ、明日ね」


薊さんは、窓の、外の、闇を、見つめながら、静かに、言った。


「……はい」


「……あなたは、怖くないの?」


その、意外な、問いに、わたしは、言葉に、詰まった。


「……怖いです。でも……」


「……でも?」


「……でも、それ以上に、何かが、始まる、という、期待の方が、大きいです」


そう、答えている、自分に、わたしは、驚いた。いつから、わたしは、こんな、闘争的な、人間になってしまったのだろう。


「……そう」薊さんは、小さく、頷いた。「あなたも、変わったのね。この、場所が、あなたを、変えたのかしら。それとも……」


彼女は、ちらり、と、小夜子さんの方に、視線を、向けた。


「……あの子が、あなたを、変えたのかしら」


わたしは、何も、答えられなかった。


「……高村さん」薊さんは、続けた。「わたしは、ずっと、間違っていたのかもしれない」


「……え?」


「わたしは、思想の、力で、世界を、変えられると、信じていた。家父長制という、巨大な、構造を、破壊すれば、全ての、女性は、解放されると。でも、違った。わたしは、ただ、わたし自身の、個人的な、憎悪を、思想という、言葉で、正当化して、いただけなのかもしれない」


彼女の、瞳は、遠い、過去を、見ていた。


「……わたしの、父は、怪物だった。そして、その、怪物に、隷属する、母もまた、わたしにとっては、怪物だった。わたしは、その、二人から、逃げ出したかった。その、二人を、破壊したかった。その、個人的な、復讐心が、わたしの、闘争の、始まりだったのよ」


それは、彼女の、初めての、告白だった。


「……だから、明日の、戦いは、わたしにとって、最後の、闘争になるわ。わたしの、思想が、本当に、力を持つのか。それとも、ただの、自己満足の、オナニーだったのか。その、全てを、賭ける」


彼女の、その、悲しいほどの、覚悟に、わたしは、かける、言葉を、見つけられなかった。


その時、今度は、涼さんが、わたしたちの、元へ、やってきた。


「……しけた、ツラしてんじゃねえよ、二人とも」


彼女は、そう言うと、わたしの、隣に、どかっと、腰を下ろした。


「……橘さん……」


「……響子のこと、悪かったな」


涼さんは、ぼそり、と言った。


「あいつは、馬鹿だけど、悪い奴じゃ、ねえんだ。ただ、不器用なだけで。おれが、もっと、ちゃんと、見ててやりゃあ、よかったんだがな」


彼女の、横顔には、深い、後悔の、色が、滲んでいた。


「……だから、おれは、戦う。この、場所を、守るためだ。ここしか、ねえんだよ、おれたちみたいな、行き場のない、馬鹿が、集まれる、場所は。響子みたいな、奴の、居場所を、おれが、作ってやらなきゃ、いけねえんだ」


それは、彼女の、決意表明だった。


旧い、二人の、女王が、それぞれの、覚悟を、固めていた。


わたしは、その、二人の、間に、座って、圧倒されていた。


わたしには、まだ、そんな、大それた、覚悟は、ない。

わたしは、ただ、小夜子さんの、隣に、いたいだけだ。

彼女の、見る、世界を、一緒に、見てみたいだけだ。


それが、わたしの、唯一の、動機だった。


その夜、わたしは、部室の、ソファで、小夜子さんと、二人で、眠った。

狭い、ソファの上で、身体を、寄せ合いながら。


「……晶さん」


眠りに、落ちる、直前、小夜子さんが、わたしの、耳元で、囁いた。


「……明日、全てが、終わったら、わたしたち、二人で、ここから、始めましょうね」


その、言葉の、甘い、響きに、わたしは、意識を、手放した。


それが、悪魔の、囁きであることに、気づかないまま。



決戦の、当日。


部室は、完璧に、演出されていた。


窓は、黒い、布で、覆われ、部屋の中は、薄暗い、照明だけが、灯されている。空気中には、サンダルウッドの、重い、香が、焚き込められ、異様な、宗教的な、雰囲気を、醸し出していた。


そして、畳マットの、中央には、三つの、椅子が、置かれている。

中央に、小夜子さん。

その、両脇を、固めるように、薊さんと、涼さん。


三人の、女王が、静かに、座っている。


わたしたちは、その、背後に、壁のように、並んで、立っていた。


やがて、部室の、ドアが、ノックされた。

以前の、小夜子さんの、それとは、違う、無神経で、がさつな、ノック。


「……どうぞ」


小夜-子さんの、静かな、声が、響く。


ドアが、開き、一人の、男が、入ってきた。


溝口だった。


年は、四十代半ば。よれよれの、スーツを着て、脂ぎった、顔には、下品な、笑みを、浮かべている。その、小さな、目で、部室の中を、好奇心、丸出しで、見回している。


「……いやあ、どうも、どうも。週刊誌の、溝口です」


彼は、馴れ馴れしく、言った。


「……お待ちしていました、溝口さん」小夜子さんは、静かに、答えた。「どうぞ、そちらへ」


彼女が、指差したのは、三人の、女王の、正面に、一つだけ、置かれた、パイプ椅子だった。


溝口は、にやにやしながら、その、椅子に、腰掛けた。まるで、これから、始まる、ショーを、楽しむ、観客のように。


「……それで、今日は、一体、どんな、面白い、話を、聞かせてもらえるのかな? 『闘争サークル』の、女王様たち」


彼は、テープレコーダーの、録音ボタンを、押した。


その、カチッ、という音が、戦いの、始まりを、告げる、ゴングとなった。


最初に、口を、開いたのは、薊さんだった。


「……溝口さん。あなたは、なぜ、ここに、来たのですか?」


その声は、冷たく、そして、鋭かった。


「はあ? そりゃあ、もちろん、記事にするためですよ。あんたたちみたいな、面白い、ネタ、そうそう、転がっちゃいないからね」


「面白い、ネタ?」薊さんは、静かに、繰り返した。「私たちの、この、闘争が、あなたにとっては、ただの、消費されるべき、ネタにしか、見えない、と」


「まあ、そういうことだね。仕事なんでね、こっちも」


「……なるほど」薊さんは、頷いた。「では、聞きますが、あなたは、ジャーナリストとして、自らの、仕事に、誇りを、持っていますか? 真実を、追求し、社会の、不正を、暴く、という、その、崇高な、理念を」


「はは、お嬢ちゃん、青臭いこと、言うねえ。そんなもん、とっくの昔に、捨てちまったよ。大事なのは、雑誌が、売れるか、どうか。読者が、面白がるか、どうか。それだけさ」


「つまり、あなたは、真実よりも、金と、大衆の、下世話な、好奇心を、優先する、と。そういうことですね」


「まあ、身も蓋もなく言やあ、そうなるかな」


溝口は、まだ、余裕の、表情を、崩さない。


しかし、わたしには、わかった。薊さんの、論理の、網が、少しずつ、彼に、絡みつき始めているのを。


「……では、最後の、質問です」薊さんは、言った。「あなたは、女性を、どう、思いますか?」


「はあ? なんだい、藪から棒に」


「お答えください」


「……どう、思うって……。まあ、そりゃあ、弱い、生き物なんじゃないの? 男に、守られて、生きていく、っていうかさ。まあ、あんたたちみたいに、元気なのも、いるみたいだけどね」


その、あまりにも、無自覚で、あまりにも、陳腐な、答えに、部室の、空気が、さらに、冷え込んだ。


「……そうですか」


薊さんは、静かに、言った。


「……あなたの、その、言葉、そのものが、あなたが、いかに、家父長制という、構造的な、暴力に、無自覚であるかの、証明です。あなたは、女性を、対等な、人間として、見ていない。ただ、性的に、消費し、支配する、対象としてしか、見ていない。あなたのような、存在こそが、この、社会を、腐らせている、元凶なのよ」


薊さんの、言葉は、もはや、尋問ではなかった。

それは、断罪だった。


溝口の、顔から、ようやく、笑みが、消えた。


「……なんだと、てめえ……」


その時、動いたのは、涼さんだった。


彼女は、すっ、と立ち上がると、溝口の、目の前にある、サンドバッグの、元へと、歩いていった。


そして、次の瞬間。


「うおおおおおおっ!」


彼女は、雄叫びを、あげながら、サンドバッグに、強烈な、回し蹴りを、叩き込んだ。


どごおぉぉん、という、轟音が、部室に、響き渡った。


頑丈な、鎖で、吊るされていたはずの、サンドバッグが、その、一撃で、根元から、引きちぎれ、壁に、激突して、破裂した。中から、大量の、砂が、滝のように、流れ出す。


その、人間離れした、破壊力に、溝口は、完全に、言葉を、失っていた。その、脂ぎった、顔は、恐怖で、真っ青になっている。


「……おい」


涼さんは、ゆっくりと、溝口の、方へ、向き直った。


「……おれはな、弱い、生き物、なんかじゃ、ねえぞ」


その、低い声は、地獄の、底から、響いてくるようだった。


「……もう一度、言ってみろ。おれたちが、なんだって?」


溝口は、椅子の上で、がたがたと、震えている。その、口は、ぱくぱく、と動いているが、声に、なっていない。


彼の、精神は、薊さんの、言葉で、解体され。

彼の、現実は、涼さんの、暴力で、破壊された。


そして、最後に、とどめを、刺したのは、小夜子さんだった。


彼女は、静かに、立ち上がると、震える、溝口の、隣に、立った。

そして、その、耳元で、悪魔のように、囁いた。


「……溝口、さん」


その、甘い、声に、溝口の、身体が、びくん、と跳ねた。


「……あなたのこと、調べさせてもらいました」


小夜子さんは、続けた。


「……消費者金融、五社から、合計、三百万円の、借金。奥様には、内緒、なんですよね?」


溝口の、目が、信じられない、というように、大きく、見開かれる。


「……それから、田中、由美さん、でしたっけ。二十二歳の、フリーターの。あなたの、愛人。彼女、最近、あなたに、別れ話を、切り出しているそうですね。あなたが、暴力を、振るうから。そして、彼女、あなたの、奥様に、全てを、話そうか、どうか、悩んでいる、とか」


「……な、なぜ、お前が、そんなことを……」


溝口の声は、もはや、ただの、悲鳴だった。


「……わたしたちには、わたしたちの、情報網が、ありますから」小夜子さんは、にこり、と笑った。「ねえ、溝口さん。もし、この記事が、世に出たら、どうなるでしょうね。あなたの、借金のことも、不倫のことも、DVのことも、わたしたちが、懇意にしている、別の、メディアに、情報提供、させてもらうことに、なるかもしれません」


彼女は、そこで、一度、言葉を切った。


「……あなたの、家庭も、あなたの、社会的な、信用も、あなたの、人生、そのものも。わたしたちが、全部、壊して、あげますよ」


その、言葉は、最終宣告だった。


「……ひ、ひいいいぃぃぃ!」


溝口は、奇声を、あげると、椅子から、転げ落ち、這うようにして、ドアへと、向かった。


「た、助けてくれ! 誰か!」


しかし、その、ドアは、実践派の、メンバーたちによって、固く、閉ざされていた。


「……さて」


小夜子さんは、静かに、言った。


「……ショータイムの、始まりです」


彼女が、ぱちん、と指を鳴らすと、部室の、照明が、全て、消えた。


完全な、暗闇。


その中で、わたしは、聞いた。


溝口の、断末魔の、絶叫と。

何かが、何度も、何度も、叩きつけられ、破壊されていく、音を。


わたしは、目を、閉じて、耳を、塞いだ。

でも、その、音は、わたしの、頭蓋の、内側に、直接、響いてきた。


どれくらいの、時間が、経ったのだろう。


やがて、全ての、音が、止んだ。


そして、ぱちり、と、再び、照明が、ついた。


部室の、中央には、誰も、いなかった。

溝口の、姿は、どこにも、なかった。


ただ、床の上には、彼のものだったであろう、ばらばらに、壊れた、テープレコーダーと、レンズの、割れた、眼鏡だけが、無残に、転がっていた。


そして、メンバーたちは。


思想派も、実践派も、関係なく、皆、恍惚とした、表情を、浮かべて、立っていた。

その、顔は、紅潮し、その、目は、熱に、浮かされている。

彼女たちは、ついに、共通の、敵を、打ち破り、完全な、一体感を、手に入れたのだ。


その、異様な、光景に、わたしは、吐き気を、覚えた。

これは、連帯などではない。

これは、集団的な、狂気だ。リンチだ。


そして、わたしは、見てしまった。


その、狂乱の、輪の、中心で。

小夜子さんだけが、ただ、一人、冷たい、目で、静かに、微笑んでいるのを。


彼女の、真の、目的は、外部の、敵を、排除することでは、なかった。

彼女の、目的は、この、サークルを、自らの、意のままに、動く、完全な、軍隊へと、作り変えることだったのだ。

そして、その、計画は、今、完璧に、達成された。


わたしは、理解した。

わたしは、この、恐ろしい、儀式の、最後の、仕上げとして、利用されたのだ。

わたしの、「告白」が、この、集団の、結束を、高めるための、生贄に、されたのだ。


わたしは、ゆっくりと、後ずさった。

ドアへと、向かって。

ここから、逃げ出さなければ。


その時、小夜子さんが、わたしの方を、振り向いた。


そして、にっこりと、花のように、笑った。


「……晶さん」


彼女は、言った。


「……どこへ、行くんですか? 私たちの、闘いは、まだ、始まったばかり、ですよ」


その、声は、もう、わたしには、悪魔の、囁きには、聞こえなかった。


それは、わたしという、共犯者に、向けられた、絶対的な、支配者の、声だった。


わたしは、その場に、崩れ落ちた。


わたしの、地獄には、もはや、出口など、どこにも、なかったのだ。

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