第6話

三つの、視線が、交錯する。


旧い、二人の、女王と。

新しい、一人の、女王。


その、三点から、放たれる、見えない、力が、部室の、重い、空気を、まるで、巨大な、プレス機のように、圧縮していく。わたしは、その、圧力の、中心点で、呼吸の、仕方さえ、忘れかけていた。


小夜子さんの、あまりにも、不遜な、しかし、揺るぎない、協力要請。

それは、地に落ちた、王たちへの、慈悲の、ようにも、最後通牒の、ようにも、聞こえた。


最初に、沈黙を、破ったのは、一条薊さんだった。


彼女は、その、虚ろな、瞳で、小夜子さんを、じっと、見つめたまま、静かに、言った。


「……面白いことを、言うのね、あなたは」


その声は、以前の、冷たい、響きとは、違っていた。そこには、全てを、失った者だけが、持ちうる、奇妙な、軽やかさと、そして、底知れない、闇が、同居していた。


「協力、ですって? この、わたしに、何を、しろと、言うのかしら。わたしは、もう、王ではない。ただの、敗北者よ」


「いいえ」小夜子さんは、きっぱりと、否定した。「あなたは、敗北してなどいない。あなたは、あなたの、やり方で、闘った。そして、あなたの、信じる、思想を、その、身体で、証明した。その、経験と、知識が、今の、私たちには、必要なんです」


その言葉は、薊さんの、プライドを、巧みに、くすぐる、計算され尽くした、刃だった。薊さんの、唇の端が、ほんの、わずかに、動いたのを、わたしは、見逃さなかった。


「……ふん」


今度は、橘涼さんが、鼻を鳴らした。彼女は、まだ、床に、座ったままだったが、その、背筋は、ぴんと、伸びていた。


「おれは、協力なんざ、しねえぞ。だいたい、なんで、おれたちが、この、サークルを、守らなきゃならねえんだ。もう、おれたちの、場所じゃ、ねえだろうが」


「あなたの、場所ですよ」


小夜子さんの、声が、静かに、響いた。


「ここは、あなたが、あなたの、強さを、証明し続けてきた、唯一の、リングでしょう? それを、外部の、汚れた、男たちの、好奇の、目に、晒されて、平気なんですか? あなたの、闘いの、歴史が、ただの、ゴシップとして、消費されていくのを、黙って、見ているんですか? あなたの、その、『真のタチ』としての、誇りが、それを、許すんですか?」


小夜子さんの、言葉は、涼さんの、魂の、一番、柔らかくて、一番、譲れない、部分を、的確に、抉り出した。


涼さんの、顔が、苦痛に、歪んだ。彼女は、畳を、強く、拳で、殴りつけた。


「……うるせえな」


彼女は、吐き捨てるように、言った。しかし、その声には、もはや、反論の、力は、残っていなかった。


小夜子さんは、ゆっくりと、立ち上がった。そして、部室にいる、全員を、見渡して、宣言した。


「これは、命令では、ありません。提案です。そして、これは、わたしの、闘いでは、ありません。わたしたち、全員の、闘いです」


彼女は、そこで、一度、言葉を切った。


「まず、第一に、裏切り者を、見つけ出します。誰が、私たちの、聖域を、外部に、売り渡したのか。それを、明らかにしない限り、私たちは、一枚岩には、なれない」


その言葉に、部室の、空気が、再び、緊張する。互いを、疑う、視線が、交錯する。


「そして、第二に、来たるべき、敵を、迎え撃ちます。週刊誌の、記者、でしたっけ。彼には、来てもらいましょう。そして、彼に、見せてあげるんです。この場所が、どのような、場所であるのかを。彼が、一生、忘れることのできない、悪夢を」


小夜子さんの、その、穏やかな、顔に、初めて、はっきりと、冷たい、笑みが、浮かんだ。


「これは、防衛戦では、ありません。私たちの、側から、仕掛ける、殲滅戦です」


その、あまりにも、過激な、宣言に、わたしは、背筋が、凍りついた。


しかし、その、狂気に、満ちた、熱が、不思議と、部室の、澱んだ、空気を、変えていくのを、わたしは、感じていた。


絶望と、無気力に、支配されていた、メンバーたちの目に、少しずつ、光が、戻り始めていた。


それは、憎悪の光であり、復讐の光であり、そして、闘争への、渇望の光だった。


「……いいでしょう」


薊さんが、静かに、言った。彼女は、ソファから、ゆっくりと、立ち上がった。


「あなたの、提案に、乗ってあげるわ。ただし、勘違いしないで。あなたに、協力するわけじゃない。わたしは、わたしの、思想を、汚した、外部の、敵を、排除するだけ。そのために、一時的に、あなたを、利用するに、過ぎない」


「……ちっ、しょうがねえな」


涼さんもまた、立ち上がった。


「おれも、乗ってやるよ。あんな、クソみてえな、記者に、おれたちの、喧嘩を、笑いものにされて、たまるかよ。ぶっ殺してやる」


こうして、この、部室に、歴史上、最も、奇妙で、最も、危険な、三頭体制が、生まれた。


旧い、二人の、女王と。

新しい、一人の、女王。


それぞれの、思惑と、憎悪を、胸に、抱いたまま、彼女たちは、ただ、一つの、目的のために、一時的な、共闘関係を、結んだのだ。


わたしは、その、三人の、間に、立って、これから、始まる、本当の、地獄の、様相を、ただ、呆然と、見つめていることしか、できなかった。



「裏切り者は、誰か」


その、問いは、亡霊のように、部室の中を、彷徨い始めた。


小夜子さんが、主導する、「犯人探し」は、彼女が、以前、始めた、「告白と、聞くこと」の会を、より、邪悪で、より、陰湿な、形へと、変貌させたものだった。


それは、「尋問と、査問」の会、とでも、言うべきものだった。


メンバーが、一人ずつ、畳マットの中央に、座らされる。

そして、三人の、女王が、彼女を、取り囲むのだ。


小夜子さんが、言葉の、メスで、その、心の、内側を、切り開いていく。

薊さんが、理論の、ピンセットで、その、思考の、矛盾を、摘み出していく。

涼さんが、暴力の、脅威で、その、魂を、隅々まで、威圧していく。


わたしは、その、全ての、尋問に、書記として、立ち会うことを、義務付けられた。わたしが、これまでに、記録してきた、「告身ノート」が、最も、強力な、尋問の、武器として、利用された。


最初の、ターゲットは、氷川沙月さんだった。


「……氷川さん」小夜子さんは、静かに、尋ねた。「あなたは、わたしに、このサークルの、主導権を、奪われたことを、快く、思っていませんね」


「当たり前でしょう」沙月さんは、憎悪を、隠そうともせずに、答えた。「あなたは、この、神聖な、場所を、感傷的な、おままごとの、場所に、変えてしまった」


「神聖な、場所?」小夜子さんは、小さく、首を傾げた。「薊さんが、血を流し、地に伏した、あの、場所が、ですか?」


その言葉に、沙月さんの顔が、さっと、青ざめる。


「あなたは、薊さんを、神として、崇拝していた。しかし、その神は、あなたの、目の前で、ただの、血を流す、人間に、堕ちた。あなたは、それが、許せなかった。あなたの、信じていた、世界が、壊れてしまった。だから、あなたは、復讐を、考えた。この、サークルそのものを、破壊することで、あなたの、傷ついた、プライドを、守ろうとした。違いますか?」


「違う……!」


「では、聞きますが」今度は、薊さんが、冷たく、口を挟んだ。「あなたは、あの、頂上決戦の後、わたしに、こう、言ったわね。『素晴らしい、これこそが、真の、破壊と、再構築だ』と。しかし、その、あなたの、言葉とは、裏腹に、あなたの、その後の、行動は、ただ、過去の、秩序に、固執するだけの、保守的な、ものでしかなかった。その、理論と、実践の、乖離を、あなた自身は、どう、説明するのかしら?」


薊さんの、その、的確な、理論的、矛盾の、指摘に、沙月さんは、言葉に、詰まった。


「……う、るさい……」


「おい」


最後に、涼さんが、低い声で、言った。


「ごちゃごちゃ、言ってねえで、白状しろや。やったのか、やってねえのか、どっちだ」


その、剥き出しの、暴力の、気配に、沙月さんの身体が、びくり、と震えた。


彼女は、最後まで、否認し続けた。しかし、その、精神は、明らかに、疲弊しきっていた。


尋問は、思想派の、他のメンバーにも、及んだ。

そして、次に、実践派の、残党たちにも。


誰もが、疑心暗鬼に、陥っていた。

昨日までの、仲間が、今日には、裏切り者として、吊し上げられる。

この、密室の中で、 paranoia(偏執病)の、菌が、急速に、増殖していく。


わたしは、その、地獄のような、光景を、ただ、記録し続けた。

メンバーたちの、顔が、日に日に、歪んでいくのを、見ながら。

わたし自身の、心もまた、少しずつ、麻痺していくのを、感じながら。


わたしは、小夜子さんの、忠実な、道具と、化していた。

彼女が、「晶さん、あの時の、彼女の、告白は、どうでしたか?」と尋ねれば、わたしは、ノートを、開き、その、魂の、秘密を、機械のように、読み上げた。


「……彼女は、父親から、経済的な、援助を、打ち切られそうに、なっている、と、言っていました。金に、困っていた、可能性は、あります」


わたしの、その、言葉が、引き金となって、また、一人の、メンバーが、血祭りに、あげられていく。


わたしは、罪悪感を、感じていた。

でも、それ以上に、わたしは、この、新しい、ゲームに、酔いしれていたのかもしれない。

観測者だった、わたしが、初めて、物語を、動かす、側に、回っている。その、倒錯した、全能感に。


しかし、そんな、わたしの、心を、見透かすように、小夜子さんは、ある日、わたしに、こう、言った。


「……晶さんは、楽しそうですね」


二人きりの、部室で、彼女は、にこり、と笑って、言った。


「……え?」


「人の、秘密を、暴いて、その、魂を、支配するのは、楽しいでしょう?」


わたしは、何も、言い返せなかった。

彼女の、その、瞳は、全てを、お見通しだった。


「……でも、気をつけてくださいね、晶さん」


彼女は、わたしの、頬に、そっと、触れた。その、指先は、氷のように、冷たかった。


「……あなたも、いつ、そちら側に、回るか、わからないのですから」


その、言葉は、優しい、忠告のようでもあり、そして、冷たい、脅迫のようでも、あった。


わたしは、その時、改めて、理解した。

わたしと、彼女の、関係は、決して、対等な、ものではないのだと。

わたしは、彼女の、手のひらの上で、踊らされている、ただの、駒、なのだと。


そして、その、駒で、あり続けることに、わたしは、言いようのない、安心感を、覚えてしまっているのだと。



犯人探しは、難航した。

誰もが、容疑者であり、誰もが、決定的な、証拠を、持っていなかった。


部室の、空気は、最悪だった。

もはや、誰も、互いを、信用していなかった。

「告白と、聞くこと」の会は、完全に、その、機能を、停止し、ただの、魔女狩りの、儀式へと、変貌していた。


そんな、ある日の、夕暮れ。


部室の、ドアが、ゆっくりと、開いた。


そこに、立っていたのは、誰もが、予想しない、人物だった。


「……響子さん……」


わたしは、思わず、声を、漏らした。


野々村響子さんだった。


彼女は、あの日、泣きながら、部室を、飛び出していったきり、一度も、姿を、見せなかった。


彼女は、ひどく、痩せていた。あの、鋼鉄のようだった、筋肉は、削げ落ち、その、目は、落ち窪んでいた。しかし、その、瞳には、奇妙な、静けさが、宿っていた。


「……話が、ある」


彼女は、短く、そう言うと、部室の、中へと、入ってきた。


部室にいた、全員の、視線が、彼女に、集まる。

沙月さんたち、思想派は、警戒の、目を。

かつての、仲間だった、実践派のメンバーたちは、困惑の、目を。


そして、三人の、女王は、ただ、静かに、彼女を、見つめていた。


響子さんは、畳マットの、中央まで、歩いてくると、その場に、土下座をした。


「……わたしが、やりました」


彼女は、震える声で、言った。


「わたしが、週刊誌に、タレこみました」


その、衝撃的な、告白に、部室は、水を打ったように、静まり返った。


「……どうして」


最初に、口を開いたのは、涼さんだった。その声は、怒りよりも、むしろ、深い、悲しみを、帯びていた。


「どうして、お前が、そんなことを、したんだ、響子」


響子さんは、顔を、上げないまま、答えた。


「……あんたを、見てられなかったんだよ、涼さん」


その声は、涙で、濡れていた。


「あんたは、おれの、神様だった。誰よりも、強くて、誰よりも、格好よくて……。なのに、あんたは、薊に、負けた。いや、引き分けたのかもしれねえけど、おれの目には、あんたが、負けたようにしか、見えなかった。あんたは、ボロボロになって、プライドも、ズタズタにされて……。そんな、あんたを、見てるのが、辛かった」


彼女は、そこで、一度、言葉を切った。


「……そして、あの、ガキが、現れた」


彼女の、声に、憎悪が、こもる。


「あいつが、この、場所を、めちゃくちゃにしやがった。おれたちの、喧嘩を、ただの、お遊戯に、変えやがった。もう、ここは、おれたちの、知ってる、場所じゃ、なくなった。だから、おれは、思ったんだ。もう、全部、壊しちまえばいい、って」


「……だからって、なんで、週刊誌なんだよ!」実践派の一人が、叫んだ。


「……わからなかったんだよ!」響子さんは、絶叫した。「おれは、馬鹿だから、わからなかったんだ! あの、記者は、言ったんだ。『君たちの、その、熱い、生き様を、記事にしたい』って。『世の中の、理不尽と、闘う、君たちは、ヒーローだ』って。おれは、その、言葉を、信じちまったんだ……。そうすりゃ、涼さんの、名誉も、回復できるって……。あんたの、強さが、正しかったって、証明できるって……。でも、違った……。あいつらは、おれたちを、ただの、見世物として、消費しようとしてただけだったんだ……」


彼女は、畳に、額を、擦り付けて、泣きじゃくった。


「……ごめん、なさい……。涼さん……。ごめんなさい……」


その、あまりにも、痛々しい、告白に、誰も、何も、言えなかった。


彼女の、動機は、金ではなかった。

それは、裏切りですらなかったのかもしれない。

それは、ただ、あまりにも、不器用で、あまりにも、純粋な、愛と、絶望の、果てに、犯した、過ちだったのだ。


涼さんは、しばらく、黙って、泣きじゃくる、響子さんの、背中を、見つめていた。


そして、ゆっくりと、彼女の、隣に、座ると、その、大きな、背中を、ぽん、と、一度だけ、叩いた。


「……もう、いいよ」


彼女は、静かに、言った。


「……お前の、気持ちは、わかった。もう、泣くな」


その、言葉に、響子さんは、さらに、声を、あげて、泣いた。


わたしは、その、光景を、見て、胸が、締め付けられるような、思いがした。


わたしは、この、一ヶ月間、一体、何を、してきたのだろう。

人の、痛みを、知り、連帯を、目指す、と、言いながら、わたしは、結局、小夜子さんと、一緒になって、メンバーたちの、心を、切り刻んで、いただけではないのか。


わたしは、自分の、ノートに、目を、落とした。

そこには、メンバーたちの、魂の、叫びが、無機質な、文字として、びっしりと、記録されている。

わたしは、この、ノートを、武器として、使ってしまった。


その時、わたしは、小夜子さんが、わたしの、隣で、静かに、微笑んでいるのに、気づいた。


その、笑みは、まるで、「計画通りですね、晶さん」と、語っているかのようだった。


わたしは、ぞっとした。


まさか、彼女は、最初から、こうなることを、予測していた、というのか。

この、魔女狩りを、通じて、メンバーたちの、結束を、逆に、強め、そして、旧い、王たちを、再び、舞台に、引きずり出すことまで、全て。


わたしは、目の前にいる、この、少女が、もはや、人間では、ないように、思えた。

彼女は、人の、心を、あまりにも、知りすぎている。

そして、それを、あまりにも、巧みに、操りすぎる。


「……さて」


小夜子さんが、静かに、立ち上がった。


「裏切り者は、見つかりました。これで、私たちの、内なる、問題は、一つ、解決しましたね」


彼女は、部室の、全員を、見渡して、言った。


「残る、問題は、一つ。外部からの、敵です」


彼女の、視線が、薊さんと、涼さんに、注がれる。


「……作戦会議を、始めましょうか。三人の、女王で」


その、言葉は、もはや、提案ではなかった。

それは、この、場所の、絶対的な、支配者による、命令だった。


薊さんと、涼さんは、何も、言わなかった。

ただ、静かに、頷くだけだった。


こうして、この、サークルの、運命を、賭けた、最後の、戦争の、火蓋が、切って、落とされた。


わたしは、その、三人の、女王の、後ろに、立ちながら、思った。


あの、週刊誌の、記者は、まだ、知らない。

自分が、今、踏み込もうとしているのが、どのような、地獄であるのかを。


そして、わたしもまた、その、地獄の、一部に、なってしまったのだ、ということを。

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