第5話
わたしは、手を、挙げていた。
自らの意思で。
その事実に、わたし自身が、一番、驚いていた。わたしの身体は、ずっと、観測者であることに、安全な傍観者であることに、慣れきっていたはずだった。傷つくことを恐れ、関わることを避け、ただ、壁際のパイプ椅子から、この、狂った世界の、演劇を、眺めているだけ。それが、高村晶という、人間の、あり方だったはずだ。
なのに、今、わたしは、この、新しい劇の、舞台の、真ん中に、自ら、歩み出ようとしている。
わたしの宣言の後、部室の、凍りついたような静寂は、さらに、その純度を増した。憎悪、侮蔑、好奇、そして、恐怖。あらゆる種類の、負の感情が、無数の、目に見えない針となって、わたしの全身に、突き刺さる。
わたしの隣で、小夜子さんが、満足そうに、微笑んだのが、わかった。彼女は、わたしの手を、解放すると、その、小さな手で、わたしの背中を、そっと、押した。
「……どうぞ、晶さん」
その声は、演出家が、役者を、舞台に送り出す時の、声に、似ていた。
わたしは、ふらつく足で、立ち上がった。そして、畳マットの中央へと、歩みを進めた。そこは、数時間前まで、薊さんと涼さんが、血と汗を流して、互いの存在を、削り合っていた場所。畳には、まだ、その、生々しい痕跡が、黒い染みとなって、残っている。
わたしは、その、聖域であり、処刑場でもある、その場所の中央に、正座をした。
目の前には、小夜子さんが座っている。彼女は、もはや、ただの、新入生ではない。彼女は、この場所の、新しい、秩序そのものだ。そして、彼女の、その、穏やかで、しかし、底知れない瞳が、わたしを、じっと、見つめている。
さあ、話しなさい、と。
あなたの、一番、醜くて、一番、みじめな、その、魂の、形を、ここにいる、全員に、晒しなさい、と。
その瞳は、そう、語っていた。
わたしは、ゆっくりと、息を吸い込んだ。肺が、痛かった。
「……わたしは」
わたしの声は、自分のものではないように、か細く、震えていた。
「わたしは、ずっと、自分が、罪人だと、思っていました」
わたしは、語り始めた。
金沢の、あの、息の詰まる、家のことを。
開業医として、地域の名士であり、家庭では、絶対的な、暴君として、君臨していた、父のこと。
「女の子は、愛嬌が一番」「早く、いい人を見つけて、お嫁に行くのが、あなたの、幸せなのよ」と、呪いのように、囁き続けた、母のこと。
出来が良く、常に、わたしを、見下していた、兄のこと。
「……わたしの家には、わたしの、居場所は、ありませんでした。わたしは、ただ、父の、機嫌を損ねないように、母の、期待を、裏切らないように、息を、殺して、生きていました。わたしは、あの家にとって、ただの、置物でした。都合のいい、娘という、役割を、演じるだけの、人形でした」
わたしの言葉は、ぽつり、ぽつり、と、部室の、重い、沈黙の中に、落ちていった。
沙月さんたちが、侮蔑の目で、わたしを見ているのが、わかった。ブルジョワの、感傷的な、身の上話。彼女たちは、そう、思っているのだろう。
でも、わたしは、構わなかった。
これは、彼女たちに、聞かせるための、言葉ではない。
これは、わたし自身の、魂を、解剖するための、儀式なのだ。
「……そんな、わたしに、初めて、光を、見せてくれた人が、いました」
わたしは、高校時代の、同級生の話をした。彼女は、美術部で、いつも、絵を描いていた。ショートカットが似合う、ボーイッシュな、女の子だった。わたしは、彼女に、どうしようもなく、惹かれた。彼女の、その、何にも、縛られない、自由な、魂に。
「わたしは、彼女のことが、好きでした。でも、その気持ちが、何なのか、わからなかった。ただ、彼女と、一緒にいると、息が、できるような、気がした。彼女と、話していると、わたしが、わたしで、いていいような、気がしたんです」
わたしは、彼女と、交換日記を、始めた。そこには、他愛のない、日常のことしか、書かなかった。でも、わたしにとっては、それが、世界との、唯一の、繋がりだった。
しかし、ある日。
その、交換日記を、母に、見つけられた。
「……母は、狂ったように、わたしを、罵りました。『みっともない』『恥ずかしい』『気味が悪い』と。そして、わたしの、目の前で、その、日記を、びりびりと、破り捨てたんです」
わたしの、世界が、壊れた、瞬間だった。
「……母は、言いました。『あなたは、病気なのよ』と。わたしは、その時、初めて、自分が、抱いていた、この、感情が、『罪』なのだと、知りました。女性を、好きになることは、許されないことなのだと。わたしは、汚れているのだと」
わたしは、それ以来、誰にも、心を、開かなくなった。自分を、罰するように、哲学書や、思想書の世界に、閉じこもった。そこにしか、救いはないと、信じて。
「……だから、わたしは、このサークルに、来ました。一条薊さんの、思想に、惹かれたからです。彼女の言う、『家父長制によって、植え付けられた、女を、破壊し、再構築する』という、言葉に、わたしは、救いを、求めたんです」
わたしは、顔を上げて、部室の中を、見渡した。
「わたしは、この、汚れた、罪深い、わたしの、身体を、誰かに、破壊してほしかった。そして、全く、別の、何かに、生まれ変わりたかった。そうすれば、この、苦しみから、解放されると、信じていたからです」
わたしは、そこで、話を、終えた。
そして、わたしは、自分が、泣いていることに、気づいた。
小夜子さんのように、感情を、コントロールすることなど、わたしには、できなかった。熱い涙が、次から次へと、わたしの頬を、伝って、落ちていく。
それは、悲しみの涙ではなかった。
それは、長年、わたしの、魂を、縛り付けていた、呪いが、解けていく、解放の、涙だった。
わたしは、初めて、自分の、痛みを、他者の前で、言葉に、できたのだ。
部室は、静まり返っていた。
誰も、何も、言わない。
小夜子さんの、作った、新しいルール。「ただ、聞くこと」。
その、ルールが、この、異様な空間を、支配していた。
わたしは、しばらく、声を殺して、泣き続けた。
やがて、わたしが、少し、落ち着いた頃。
「……高村さん」
静かに、声をかけてきたのは、沙月さんだった。
わたしは、びくりとして、顔を上げた。彼女の、その、憎悪に満ちた、視線を、覚悟した。
しかし、彼女の目に、宿っていたのは、憎悪ではなかった。
それは、困惑と、そして、ほんの、わずかな、共感の、色だった。
「……あなたの、その、痛みは……」沙月さんは、言葉を、選びながら、言った。「それは、決して、あなた、個人の、ものではない。それは、まさに、我々が、闘ってきた、家父長制の、構造的な、暴力、そのものよ。あなたの、その、個人的な、経験は、我々の、思想を、補強する、極めて、有効な、事例、だと言えるわ」
彼女は、あくまで、思想家として、わたしの告白を、分析しようとしていた。しかし、その声は、以前のような、冷たい、響きを、失っていた。
「……くだらねえ」
今度は、実践派の、一人が、吐き捨てるように、言った。しかし、その声にも、以前のような、刺々しさは、なかった。
「……まあ、なんだ。大変だったんだな、あんたも」
その、不器用な、言葉に、わたしは、また、涙が、こぼれそうになった。
わたしは、気づいた。
小夜子さんの、この、「告白と、聞くこと」という、新しいルールは、ただ、相手の、心を、折るための、残酷な、ゲームではなかったのだ。
それは、バラバラになった、わたしたちの、心を、もう一度、繋ぎ合わせるための、唯一の、方法だったのかもしれない。
互いの、痛みを、知ること。
そして、その、痛みの、奥にある、それぞれの、孤独を、想像すること。
その先にしか、本当の、連帯は、ない。
小夜子さんは、そう、言っていた。
わたしは、ようやく、その、言葉の、本当の、意味を、理解したような、気がした。
*
わたしの、告白を、きっかけに、部室の、空気は、また、少しずつ、変わり始めた。
「告白と、聞くこと」の会は、週に一度、続けられた。
最初は、誰もが、戸惑い、警戒していた。しかし、一人、また一人と、自らの、痛みを、語り始めるうちに、部室の中には、奇妙な、一体感が、生まれ始めていた。
ある者は、親からの、過剰な期待に、苦しんだ、過去を、語った。
ある者は、容姿のことで、からかわれ続けた、トラウマを、語った。
ある者は、信頼していた、教師に、裏切られた、経験を、語った。
誰もが、それぞれの、地獄を、抱えていた。
そして、わたしたちは、ただ、それを、聞いた。
ジャッジすることなく、ただ、その、魂の、叫びを、受け止めた。
それは、慰めでも、同情でもない。
それは、承認だった。
あなたは、独りじゃない。
あなたの、痛みは、確かに、ここに、存在している。
その、声なき、メッセージが、わたしたちの、心を、少しずつ、溶かしていった。
もちろん、全てが、うまくいったわけではない。
沙月さんを中心とする、思想派の残党は、依然として、小夜子さんのやり方を、「理論なき、感傷主義」として、批判し続けていた。彼女たちは、「告白の会」には、参加するものの、そこで語られる、個人的な痛みを、常に、自分たちの、思想の、フレームワークに、当てはめて、分析しようとした。
「その、あなたの、痛みは、ラカンの言う、去勢コンプレックスの、女性版として、解釈できるわね」
そんな、彼女たちの、無神経な、分析に、告白者が、激昂し、口論になることも、少なくなかった。
涼さんの、残した、実践派のメンバーたちも、相変わらずだった。彼女たちは、「告白の会」を、ボイコットすることも、しばしばだった。そして、部室の隅で、自分たちの、存在を、誇示するように、筋トレに、励んだ。
「言葉なんざ、信じられるかよ。結局、最後に、頼りになるのは、自分の、身体だけだ」
彼女たちの、その、頑なな、態度は、変わらなかった。
しかし、それでも、部室の、雰囲気は、確実に、変わりつつあった。
以前のような、一触即発の、緊張感は、薄れ、その代わりに、互いの、顔色を、うかがうような、より、複雑で、繊細な、人間関係が、生まれ始めていた。
わたしは、そんな、新しい、秩序の中で、小夜子さんの、右腕として、振る舞うようになっていた。
わたしは、持ち前の、生真面目さで、メンバー、一人一人の、告白を、ノートに、記録した。そして、その、膨大な、記録を、小夜子さんと、二人で、分析し、共有した。
「……沙月さんたちは、やはり、薊さんの、呪縛から、逃れられていないわね。彼女たちは、全ての、事象を、薊さんから、教わった、理論の、フィルターを、通してしか、見ることができない。だから、わたしたちの、やり方が、理解できないのよ」
「実践派の人たちは、逆に、言葉を、恐れている。自分の、内面と、向き合うことを、避けている。彼女たちには、まず、自分の、弱さを、認める、勇気を、持ってもらう、必要があるわね」
小夜子さんの、分析は、常に、的確で、そして、冷徹だった。わたしは、彼女の、その、恐るべき、洞察力に、舌を巻きながらも、彼女の、その、言葉を、一つ一つ、自分の、血肉へと、変えていった。
わたしは、もはや、ただの、観測者ではなかった。
わたしは、この、新しい、ゲームの、プレイヤーだった。
そして、そのことに、わたしは、言いようのない、高揚感を、覚えていた。
*
そんな、奇妙な、平和が、一ヶ月ほど、続いた、ある日のこと。
事件は、起こった。
その日、部室に、一本の、電話が、かかってきた。
旧式の、黒電話。それは、主に、大学の、事務連絡用として、置かれているだけの、ものだった。
電話に、出たのは、わたしだった。
「……はい、クィア・フェミニズム研究会です」
「……ああ、もしもし」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、知らない、男の、声だった。その、ねっとりとした、しゃがれた声に、わたしは、思わず、眉をひそめた。
「……あの、どちらさまでしょうか」
「ん? ああ、俺は、週刊誌の、記者だがね」
週刊誌? 記者?
わたしは、一瞬、何を言っているのか、わからなかった。
「……何か、御用でしょうか」
「ああ、用なら、大有りだ」男は、げへへ、と下品な笑い声を立てた。「あんたたちの、サークルのことだよ。いやあ、面白いこと、やってるじゃないか、お嬢ちゃんたち。『闘争サークル』、だっけ? 女の子同士で、裸で、取っ組み合いの、喧嘩、してんだろ? いいねえ、そそるじゃないか」
わたしは、全身の、血の気が、引いていくのを、感じた。
なぜ、この男が、私たちのことを、知っている?
この、サークルのことは、外部には、絶対に、漏れないはずの、秘密だったはずだ。
「……何を、おっしゃっているのか、わかりません。間違い電話では、ないでしょうか」
わたしは、震える声で、そう言うのが、精一杯だった。
「はは、とぼけなさんな。こっちはな、全部、お見通しなんだよ。あんたたちの、写真も、持ってるんだぜ」
写真?
「……何の、ことですか」
「だから、言ってるだろ。あんたたちが、部室で、取っ組み合ってる、写真だよ。いやあ、傑作だったぜ。特に、あの、黒髪の、美人ちゃんと、金髪の、ボーイッシュな子の、泥仕合は、最高だったなあ。あれ、記事にしたら、売れるだろうなあ」
薊さんと、涼さんの、あの、頂上決戦のことだ。
誰かが、あの、バトルを、盗撮し、そして、この、週刊誌に、売ったのだ。
誰が?
一体、誰が、そんなことを?
わたしの頭は、パニックに、陥っていた。
「……まあ、そういうわけだからさ」男は、続けた。「近々、そっちに、取材に、行かせてもらうから。そのつもりで、よろしくな。じゃあな」
がちゃん、と、一方的に、電話は、切られた。
わたしは、受話器を、握りしめたまま、その場に、立ち尽くしていた。
「……晶さん、どうしたんですか?」
小夜子さんが、心配そうに、わたしに、声をかけてきた。
わたしは、震える声で、今、電話であったことを、皆に、話した。
部室は、水を打ったように、静まり返った。
誰もが、顔面蒼白だった。
自分たちの、秘密の、聖域が、外部の、汚れた、視線に、晒されようとしている。その、事実に、誰もが、打ちのめされていた。
「……誰なの」
最初に、口を開いたのは、沙月さんだった。その声は、憎悪に、震えていた。
「誰が、裏切ったの……? 誰が、私たちの、闘争を、こんな、下劣な、男たちの、見世物として、売り渡したの……!」
彼女の視線が、実践派の、残党たちに、突き刺さる。
「……あなたたちでしょう! 金に、困って、やったんでしょう!」
「ふざけんじゃねえ!」実践派の一人が、激昂した。「おれたちが、そんな、ダセえこと、するかよ! 売ったのは、てめえら、インテリどもだろうが! 自分たちの、立場が、危うくなったからって、おれたちを、陥れるために!」
二つの派閥が、再び、互いに、牙を、剥き出し始めた。
この、一ヶ月間で、築き上げてきた、脆い、平和が、音を立てて、崩れていく。
「やめなさい!」
その時、部室のドアが、勢いよく、開け放たれた。
そこに、立っていたのは。
「……薊さん……!」
沙月さんが、驚愕の、声を、あげた。
一条薊だった。
彼女は、鼻のギプスも取れ、以前と、変わらない、美しい、姿をしていた。しかし、その、纏う、空気は、全く、違っていた。以前の、冷たい、カリスマ性は、影を潜め、その代わりに、そこには、全てを、諦観したような、静かな、しかし、底知れない、迫力が、あった。
そして、彼女の、隣には。
「……涼さん……!」
響子さんの、抜けた、穴を埋めるように、実践派のメンバーが、驚きの声をあげた。
橘涼が、立っていた。
彼女もまた、傷は、癒えているようだった。しかし、彼女も、変わっていた。以前の、剥き出しの、暴力性は、鳴りを潜め、その代わりに、まるで、鞘に、収められた、日本刀のような、研ぎ澄まされた、静かな、殺気が、あった。
二人の、旧い、王が、一ヶ月の、沈黙を破り、今、この、最大の、危機の、瞬間に、帰ってきたのだ。
「……今の、話は、聞いたわ」
薊さんは、静かに、言った。
「週刊誌の、記者が、来るそうね」
彼女は、部室の中を、ゆっくりと、見渡した。そして、その視線は、畳マットの中央で、この、事態を、静観している、小夜子さんに、注がれた。
「……小津さん」薊さんは、言った。「あなたの、言う、『連帯』とやらは、この、程度の、危機で、崩れ去る、脆い、ものだったのかしら」
その言葉は、明確な、挑戦状だった。
小夜子さんは、動じなかった。
「……いいえ」彼女は、静かに、答えた。「これは、危機では、ありません。これは、好機です」
「好機、ですって?」
「はい」小夜子さんは、頷いた。「外部に、敵が、現れた。これほど、私たちが、一つに、なるための、絶好の、機会は、ありません」
そして、彼女は、薊さんと、涼さんを、まっすぐに、見つめて、言った。
「……お二人にも、協力して、いただきます。この、サークルを、守るために」
その、あまりにも、不遜な、物言いに、部室の、空気が、再び、凍りついた。
しかし、薊さんと、涼さんは、怒るでもなく、ただ、静かに、小夜子さんを、見つめていた。
その、三人の、視線が、火花を、散らすように、交錯する。
旧い、二人の、女王と。 新しい、一人の、女王。
この、サークルの、運命を、賭けた、最後の、闘争が、今、まさに、始まろうとしていた。
わたしは、その、三人の、間に、立って、ただ、震えていることしか、できなかった。
わたしの、地獄は、まだ、終わらない。
いや、むしろ、本当の、地獄は、これから、始まるのだ。
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