第4話
鉄のドアが、ばたん、と閉まる音は、まるで、一つの時代の終わりを告げる、断頭台の刃が落ちる音のようだった。
野々村響子さんが、あの、鋼鉄の鎧をまとったような彼女が、涙でぐしゃぐしゃの顔で、子供のように逃げ出していった後、部室には、真空のような静寂が訪れた。誰も、何も、言えなかった。実践派の残されたメンバーたちは、自分たちの信じていた「力」の象徴が、目に見えない「言葉」という刃によって、いともたやすく解体されてしまった事実を、受け入れられずにいるようだった。彼女たちの顔からは、血の気が失せ、ただ、呆然と、畳マットの中央に座る、小さな少女を見つめている。
思想派のメンバーたちも、同じだった。いや、彼女たちの表情は、もっと、複雑だった。そこには、長年の宿敵が打ち負かされたことに対する、歪んだ喜びと、しかし、それ以上に、自分たちの信じる思想闘争とは全く異質な、得体の知れない「何か」が、この場所を支配し始めたことへの、明確な恐怖と、憎悪が、渦巻いていた。
そして、わたしは。
わたしは、小夜子さんに、まだ、手を握られていた。その、冷たい指先から、彼女の、勝利の、静かな、しかし、絶対的な確信が、わたしの身体へと、じわじわと、侵食してくる。わたしは、彼女の共犯者。わたしは、彼女の、最初の、信奉者。わたしは、彼女が、この、瓦礫の山から、新しい王国を築き上げるための、礎石にされてしまったのだ。
逃げたい。でも、逃げられない。
わたしの足は、恐怖で、床に縫い付けられていた。
その、張り詰めた静寂を、最初に破ったのは、意外な人物だった。
「……ふん」
それは、うつ伏せに倒れたままだった、橘涼さんの、声だった。彼女は、ゆっくりと、身じろぎすると、片腕で、自分の身体を、支え起こした。その顔は、額から流れた血で汚れ、唇は切れ、見るも無残な状態だったが、その瞳には、ほんのわずかに、かつての、獰猛な光が、戻りかけていた。
彼女は、逃げていった響子さんのことには、一瞥もくれなかった。彼女の視線は、ただ、まっすぐに、畳マットの中央に座る、小夜子さんに、注がれていた。
「……おもしれえじゃねえか、新入り」
涼さんは、口の端に溜まった血を、ぺっ、と畳に吐き捨てながら、言った。
「言葉、か。なるほどな。そういう、戦い方もあるってわけか。勉強になったぜ」
その声には、敗北を認めるような響きは、なかった。それは、むしろ、新しい、おもちゃを見つけた、子供のような、残酷な、好奇心に満ちた響きだった。
「……涼さん……」
実践派のメンバーが、心配そうに、彼女に駆け寄ろうとする。しかし、涼さんは、それを、手で制した。
「だがな」涼さんは、続けた。「おれは、おれのやり方しか、知らねえ。これからも、そうだ。言葉で、魂を、ぶっ殺すのが、あんたのやり方なら、おれは、拳で、骨を、ぶっ壊す。それだけだ」
彼女は、ふらつく足で、ゆっくりと立ち上がった。そして、響子さんとは、違う方向へ、つまり、薊さんが倒れている、ソファの方へと、歩き始めた。
「おい、薊」
涼さんは、ソファの前に立つと、その場に、あぐらをかいた。そして、ほとんど意識のない、薊さんの顔を、じっと、覗き込んだ。
「いつまで、寝てやがる。お前も、見たんだろ? 今の、あいつの、戦いを。このまま、この場所を、あんな、得体の知れねえガキに、くれてやるのか? それで、お前の、プライドは、許すのかよ」
その言葉に、薊さんの瞼が、ぴくり、と動いた。彼女は、ゆっくりと、その、虚ろな目を開けた。そして、その視線は、涼さんを通り越し、まっすぐに、小夜子さんを、捉えた。
その目に、何が、宿っていたのか、わたしには、わからなかった。
ただ、わたしは、この、崩壊したはずの世界が、今、再び、動き出そうとしているのを、肌で、感じていた。
旧い、二人の王と。
そして、新しく生まれた、一人の、女王。
三つ巴の、新たな、地獄が、始まろうとしていた。
*
小夜子さんの、クーデターが成功した、あの日から、部室の空気は、完全に、変わってしまった。
それは、もはや、思想と暴力が、二元論的に対立する、わかりやすい世界ではなかった。そこは、三つの、異なる権力が、互いに、牽制し合い、水面下で、複雑な、駆け引きを繰り広げる、より、陰湿で、緊張感に満ちた、政治の空間へと、変貌していた。
まず、小夜子さんと、わたし。
わたしたちは、このサークルの、新しい、支配者となった。しかし、その権力基盤は、あまりにも、脆かった。わたしたちには、思想派のような、理論的背景もなければ、実践派のような、物理的な力もない。わたしたちの武器は、小夜子さんの、その、悪魔的なまでの、人心掌握術と、わたしという、彼女の、唯一の、理解者であり、共犯者である、という、事実だけだった。
次に、氷川沙月さんを中心とする、思想派の、残党。
彼女たちは、薊さんという、絶対的な神を失い、その憎悪と、復讐心を、全て、小夜子さんに、向けていた。彼女たちは、毎日、部室の隅で、ひそひそと、何かを話し合い、小夜子さんを、失脚させるための、策謀を、練っているようだった。彼女たちの武器は、長年、このサークルで培われてきた、フェミニズムや、クィア理論に関する、膨大な知識。そして、薊さんから受け継いだ、「言葉」という、刃だった。
そして、橘涼さんと、彼女に、まだ、付き従う、数人の、実践派。
響子さんが去った後、実践派は、その数を、大きく減らした。しかし、涼さんの、その、カリスマ的な魅力に、まだ、惹きつけられている者たちが、残っていた。彼女たちは、小夜子さんの、新しいルールを、公然と、無視した。部室の隅で、タバコをふかし、大声で笑い、そして、時折、鬱憤を晴らすかのように、サンドバッグを、殴りつけた。彼女たちの武器は、言うまでもなく、純粋な、暴力。そして、この、新しい秩序を、いつでも、破壊できる、という、潜在的な、脅威だった。
地に伏した、二人の王、薊さんと涼さんは、部室に、姿を見せなくなった。それぞれの場所で、傷を癒しているのだろう、と、誰もが、思っていた。
わたしは、そんな、一触即発の、冷戦状態の中で、毎日、胃の痛むような、思いをしていた。わたしは、小夜子さんの、隣に立つことで、権力の一端を、手に入れた。しかし、それは、常に、剥き出しの敵意に、晒される、ということでもあった。
わたしは、怖かった。
沙月さんたちの、その、粘着質な、憎悪の視線が、怖かった。
涼さんたちの、その、いつ、爆発するともわからない、暴力の気配が、怖かった。
そして、何よりも。
わたしの隣で、穏やかに、微笑んでいる、小夜子さんの、その、底知れない、瞳が、一番、怖かった。
*
クーデターから、一週間が経った、ある日の、定例会。
もちろん、それを、主導するのは、小夜子さんだった。
「……皆さん、お集まりいただき、ありがとうございます」
小夜子さんは、畳マットの中央に、正座をして、言った。その声は、相変わらず、静かで、穏やかだった。しかし、その声が発せられた瞬間、部室の空気が、ぴん、と張り詰めるのを、わたしは、感じた。
彼女の正面には、沙月さんを中心とした、思想派のメンバーが、敵意を隠そうともせずに、座っている。
そして、部屋の隅では、涼さんの残した、実践派のメンバーが、腕を組み、壁に寄りかかって、こちらを、見下ろしている。
わたしは、小夜子さんの、すぐ、斜め後ろに、座っていた。そこが、わたしの、新しい、定位置だった。女王の、側近。あるいは、監視役。
「今日は、皆さんに、わたしたちの、新しい、活動方針について、お話ししたいと思います」
小夜子さんは、そう言うと、一枚の、プリントを、取り出した。
「これまでの、このサークルは、二つの、大きな、問題点を、抱えていました。一つは、あまりにも、閉鎖的で、排他的であったこと。もう一つは、その活動が、思想の探求か、身体の鍛錬か、という、二元論に、終始していたことです」
彼女は、そこで、一度、言葉を切ると、沙月さんたちを、じっと、見つめた。
「思想は、重要です。しかし、それは、現実から、遊離した、観念の、お遊びであってはならない。それは、私たちの、具体的な、痛みに、寄り添うものでなければ、意味がない」
次に、彼女は、実践派のメンバーたちに、視線を移した。
「身体も、重要です。しかし、それは、ただ、他者を、支配し、屈服させるための、暴力装置であってはならない。それは、私たちの、尊厳を、守り、そして、他者と、連帯するための、ものでなければ、意味がない」
その言葉は、あまりにも、正論だった。そして、それゆえに、両方の派閥の、プライドを、深く、傷つけた。沙月さんの唇が、悔しさに、きつく、結ばれる。実践派のメンバーの一人が、ちっ、と舌打ちをするのが聞こえた。
「そこで、わたしは、新しい、活動を、提案します」
小夜子さんは、プリントを、掲げた。
「これからは、週に一度、『告白と、聞くこと』の、会を、開きたいと思います」
「……告白と、聞くこと?」
沙月さんが、訝しげに、呟いた。
「はい」小夜子さんは、頷いた。「ルールは、簡単です。毎回、一人が、前に出て、自分の、一番、辛かったこと、苦しかったこと、誰にも言えなかった、痛みを、告白します。そして、他のメンバーは、ただ、それを、聞く。評価も、批判も、分析も、アドバイスも、一切、しません。ただ、その人の、痛みを、その人の、言葉で、そのまま、受け止める。聞くことに、徹するんです」
その、あまりにも、意外な提案に、部室は、再び、静まり返った。
それは、セラピーのようでもあり、グループカウンセリングのようでもあった。しかし、この、憎悪と、暴力と、権力闘争が渦巻く、この場所で、そんな、生ぬるいことが、通用するのだろうか。
「……ばっかじゃねえの」
最初に、沈黙を破ったのは、実践派の、一人のメンバーだった。
「なんだそりゃ。傷の、舐め合いかよ。そんな、女々しいこと、やってられるか」
「女々しい?」小夜子さんは、静かに、問い返した。「自分の、弱さを、見せること、自分の、痛みを、語ることは、女々しいことですか? むしろ、それこそが、本当の、強さではないですか? あなたは、それが、怖いだけじゃないんですか?」
その言葉に、実践派のメンバーは、ぐ、と、言葉に詰まった。それは、かつて、響子さんを、打ち負かした、あの、言葉の刃と、同じ、切れ味を持っていた。
「……くだらない」
今度は、沙月さんが、吐き捨てるように、言った。
「個人の、感傷的な、痛みの、告白に、何の意味があるというの。それは、構造的な、問題の、矮小化でしかない。私たちは、そんな、ミクロな、レベルで、足踏みしている、場合ではないはずよ」
「では、聞きますが、氷川さん」小夜子さんは、沙月さんを、まっすぐに、見つめた。「あなたは、一条薊さんの、痛みを、本当に、理解していましたか?」
「……え?」
「あなたは、彼女の、その、崇高な、思想の、奥にあった、彼女自身の、個人的な、叫びを、聞いたことがありますか? 彼女が、なぜ、あれほどまでに、破壊に、こだわったのか。その、本当の、理由を」
沙月さんは、何も、答えられなかった。彼女は、薊さんの、一番、忠実な、信奉者だった。しかし、彼女は、薊さんの、理論を、崇拝するあまり、その、奥にある、一人の、人間としての、痛みに、気づいていなかったのかもしれない。
「この会は、傷の、舐め合いではありません」小夜子さんは、宣言した。「これは、私たちの、新しい、闘争です。まず、互いの、痛みを、知る。そして、なぜ、その痛みが、生まれたのかを、考える。その先にしか、本当の、連帯も、本当の、解放も、ないと、わたしは、信じます」
彼女は、にこり、と笑った。
「というわけで、第一回目は、わたしから、始めたいと思います」
その言葉に、わたしは、息を飲んだ。
彼女は、一体、何を、話すつもりなのだろう。
彼女の、あの、じめじめした、逃げ場のない、日常に根差した、痛み、とやらを。
*
小夜子さんの、告白は、淡々と、そして、恐ろしいほどに、具体的だった。
彼女は、小学校の頃から、ずっと、いじめられ続けてきた、と言った。
最初は、些細なことだった、と。持ち物が、隠される。教科書に、落書きをされる。上履きを、トイレに、捨てられる。
でも、それは、次第に、エスカレートしていった。
無視される。仲間外れにされる。掃除の時間に、汚いものを、押し付けられる。体育の時間に、わざと、ボールを、ぶつけられる。
そして、中学校に上がると、それは、身体的な、暴力に、変わった。
トイレに、呼び出されて、殴られる。蹴られる。髪を、切られる。制服を、破られる。
彼女は、その一つ一つの、出来事を、まるで、天気の話でもするかのように、淡々と、語った。感情を、一切、込めずに。
しかし、その、感情の欠落こそが、逆に、その、地獄のような、日々の、リアリティを、際立たせていた。
部室は、水を打ったように、静まり返っていた。
誰もが、息を詰めて、彼女の、その、告白に、聞き入っていた。
実践派のメンバーたちも、もはや、せせら笑うような態度は、取っていなかった。彼女たちの顔には、動揺と、そして、わずかな、共感のような色が、浮かんでいた。
沙月さんでさえ、その、憎悪に満ちた目を、伏せて、何かを、耐えるように、唇を、噛み締めていた。
「……でも、一番、辛かったのは、暴力そのものじゃ、ありませんでした」
小夜子さんは、静かに、言った。
「一番、辛かったのは、誰も、助けてくれなかったことです」
彼女は、顔を上げて、部室の中を、見渡した。
「先生も、見て見ぬふりをした。クラスメイトたちは、面白がって、見ていたか、あるいは、自分に、火の粉が、飛んでくるのが怖くて、目を、逸らした。そして……」
彼女は、そこで、一度、言葉を切った。
「そして、一番、辛かったのは、家に、帰っても、地獄だったことです」
彼女は、自分の、両親の話を、始めた。
過干渉で、ヒステリックな、母親。
無関心で、存在感のない、父親。
母親は、小夜子さんの、成績のことしか、頭になかった。彼女は、小夜子さんが、いじめられていることに、薄々、気づいていながら、それを、認めようとしなかった。「あなたに、原因があるんじゃないの?」と、彼女を、責めた。
父親は、そもそも、家に、ほとんど、いなかった。たまに、顔を合わせても、小夜子さんのことなど、まるで、家具か何かのようにしか、見ていなかった。
「……わたしには、どこにも、居場所が、ありませんでした」
小夜子さんの声が、ほんの少しだけ、震えた。
「学校も、家も、わたしにとっては、地獄でした。わたしは、毎日、毎日、死にたい、と、思っていました。でも、死ぬ勇気も、なかった。だから、わたしは、ただ、耐えるしかなかった。息を、殺して、嵐が、過ぎ去るのを、待つしか、なかったんです」
彼女は、そこで、話を、終えた。
そして、顔を上げて、にこり、と笑った。
「……以上が、わたしの、告白です。聞いてくれて、ありがとうございました」
その、あまりにも、不釣り合いな、笑顔に、わたしは、背筋が、凍りつくような、思いがした。
彼女は、泣かなかった。
一度も、涙を、見せなかった。
彼女は、自分の、その、地獄のような、過去を、完全に、客観視し、そして、分析し、自らの、武器へと、昇華させているのだ。
わたしは、理解した。
彼女が、響子さんとの、あの、言葉のバトルで、なぜ、あれほどまでに、強かったのか。
彼女は、人の、痛みが、わかるのだ。
いや、違う。
彼女は、人の、痛みを、「知っている」のだ。
そして、その、どこを、どう、突けば、相手が、一番、苦しむのかを、知り尽くしているのだ。
それは、彼女が、ずっと、そうされてきたからだ。
わたしは、恐ろしくなった。
この、少女の、その、穏やかな、笑顔の、奥にある、底知れない、闇の、深さに。
そして、同時に、わたしは、彼女に、どうしようもなく、惹きつけられている、自分に、気づいていた。
彼女の、その、強さに。
その、孤独に。
その、絶望に。
わたしは、彼女と、同じだ、と、思った。
わたしも、ずっと、独りだった。
わたしも、ずっと、居場所が、なかった。
その時、わたしは、決意した。
わたしは、もう、ただの、観測者では、いられない。
わたしは、この、小津小夜子という、怪物の、隣に、立とう。
彼女の、共犯者として。
彼女の、唯一の、理解者として。
たとえ、その先にあるのが、さらなる、地獄だとしても。
わたしは、ゆっくりと、手を、挙げた。
「……あの」
部室中の、視線が、わたしに、集まる。
「……次の、告白は、わたしが、やります」
わたしは、震える声で、しかし、はっきりと、そう、宣言した。
わたしの、隣で、小夜子さんが、満足そうに、微笑んだのが、わかった。
わたしたちの、闘争が、今、本当に、始まったのだ。
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