第3話
わたしの声帯は、恐怖で凍りついていた。小夜子さんが、わたしの手を握っている。その小さな、冷たい手から、彼女の、巨大で、底知れない意志が、わたしの身体へと流れ込んでくる。わたしは、彼女の共犯者。いや、彼女が作り上げた、新しい物語の、最初の登場人物にされてしまったのだ。
部室の空気は、もはや空気ではなかった。それは、粘性を持った、重い液体だった。呼吸をするたびに、その液体が、わたしの肺を、じわじわと満たしていく。
小夜子さんの、あの、あまりにも場違いな、しかし、揺るぎない宣言の後、最初に動いたのは、氷川沙月さんだった。
「……ふざけないで」
その声は、か細く、震えていたが、その奥には、純度百パーセントの、煮えたぎるような憎悪が込められていた。彼女は、床に崩れ落ちたまま、顔だけを上げて、小夜子さんを睨みつけていた。その、殴られて腫れ上がった顔は、もはや、美しい知性の仮面を保ってはいなかった。それは、自らの信仰を、土足で踏み躙られた、狂信者の顔だった。
「あなたに、何がわかるっていうの……。つい昨日、ここに来たばかりの、何も知らない、ただの子供が……。薊さんの、あの、崇高な闘争を、私たちの、この、血と痛みにまみれた歴史を、あなたに、汚されてたまるものですか……!」
「汚す?」小夜子さんは、静かに首を振った。「いいえ、氷川さん。わたしは、汚したりしない。わたしは、続けるんです。あなたたちが、壊して、捨てようとしている、この場所を」
「黙りなさい!」沙月さんは、絶叫した。「あなたに、薊さんの代わりが務まるはずがない! あなたの言う『連帯』なんて、ただの、感傷的な、ブルジョワのおままごとよ! 痛みを知らない人間の、欺瞞だわ!」
「痛みなら、知っていますよ」
小夜子さんの声は、どこまでも、平坦だった。
「わたしは、ずっと、いじめられてきましたから。言葉で、身体で、視線で、毎日、毎日、殺され続けてきました。あなたたちの言う、観念的な痛みじゃない。もっと、じめじめした、逃げ場のない、日常に根差した痛みです。だから、わかるんです。このままじゃ、駄目だって。あなたたちのやり方じゃ、誰も、救われないって」
その言葉に、沙月さんは、ぐ、と息を詰まらせた。彼女の理論の刃が、小夜子さんの、その、あまりにも個人的で、あまりにも具体的な「痛み」の告白の前に、行き場を失っている。
次に、動いたのは、響子さんだった。
「……おい、ガキ」
彼女は、うつ伏せになったままの涼さんの傍らから、ゆっくりと立ち上がった。その巨体は、まるで、怒れる熊のようだった。
「ごちゃごちゃ、理屈並べてんじゃねえぞ。ここはな、強いもんが、全てを決める場所なんだよ。あんた、さっきのバトル、見てたろ? それでもまだ、わかんねえのか?」
響子さんは、指の関節を、ぼき、ぼき、と鳴らした。それは、明確な、脅迫だった。
「新しいルールだか、連帯だか知らねえがな。そんなもんは、こいつで、全部、ぶっ壊してやるよ」
彼女は、自分の拳を、小夜子さんの目の前に、突きつけた。
「わたしと、やれ。今、ここで。あんたが、本当に、この場所を引き継ぐって言うんならな。わたしを、倒してみろよ。できんのか? ああ?」
実践派の、最終言語。暴力による、問いかけ。
部室にいる、全員の視線が、小夜子さんに集中した。誰もが、思っただろう。この、か細い、一年生の少女が、あの、野獣のような響子さんに、敵うはずがない、と。わたしも、そう思った。わたしの心臓が、恐怖で、また、激しく脈打ち始める。小夜子さんの手を、引いて、逃げ出したい衝動に駆られた。
しかし、小夜子さんは、動じなかった。
彼女は、響子さんの、その、凶器のような拳を、ただ、じっと、見つめていた。そして、ゆっくりと、口を開いた。
「……いいですよ。やりましょう、野々村さん」
その言葉に、今度こそ、部室の全員が、息を飲んだ。響子さんでさえ、一瞬、面食らったような顔をしていた。
「ただし」
小夜子さんは、続けた。
「ルールは、わたしが、決めさせてもらいます」
「ああん?」響子さんの眉が、ぐ、と吊り上がる。「ルールだと? このサークルに、んなもん、ねえだろうが」
「いいえ。あります」小夜子さんは、きっぱりと言った。「あなたたちのルールが、『勝者が全てを得る』というものなら、わたしたちのルールは、別のものです」
彼女は、そこで、一度、言葉を切ると、ゆっくりと、部室の中を見渡した。そして、その視線を、畳の上で、まだ、ぴくりとも動かない、二人の王に向けた。
「あなたたちは、二人とも、強すぎた。そして、その強さで、全てを、壊してしまった。だから、わたしたちの新しいルールは、こうです」
小夜子さんは、人差し指を、一本、立てた。
「――相手に、一切、触れてはならない」
「……は?」
響子さんの口から、間の抜けた声が漏れた。他のメンバーも、何を言っているんだ、という顔で、顔を見合わせている。
「
「おかしくなんかいませんよ」小夜子さんは、静かに言った。「あなたたちのバトルは、相手の身体を支配し、破壊することが目的でした。でも、わたしたちのバトルは、違います。目的は、相手の『心』を、折ることです」
彼女は、畳マットを、指差した。
「このマットの上で、向かい合います。制限時間は、十分間。その間、互いに、一歩も、動いてはいけません。そして、相手に、指一本、触れてもいけません」
「……それで、どうやって、勝敗を決めんだよ」
「言葉です」
小夜子さんは、言った。
「言葉だけで、相手を、屈服させるんです。相手の、一番、触れられたくない部分を、一番、抉られたくない傷を、言葉だけで、暴き立てる。そして、先に、涙を流した方が、あるいは、この場から、逃げ出した方が、負けです」
その、あまりにも、異質で、あまりにも、残酷なルールに、部室は、再び、静まり返った。
それは、もはや、
それは、魂の、拷問だった。
響子さんは、しばらく、呆然としていたが、やがて、腹を抱えて、大声で笑い出した。
「ぎゃははは! なんだそりゃ! 言葉ぁ? そんなもんで、おれが、屈するとでも思ってんのか、このチビが!」
「……できないんですか?」
小夜子さんは、挑発するように、言った。
「あなたには、その、鍛え上げた身体以外に、武器は、ないんですか? わたしを、言葉だけで、泣かせる自信が、ないんですか?」
その言葉は、響子さんの、一番、痛いところを、的確に、突いていた。彼女は、理論や言葉を、ずっと、軽蔑してきた。それは、彼女が、そこに、コンプレックスを抱えていたからだ。
響子さんの顔から、笑みが、すっと、消えた。
「……上等じゃねえか」
彼女は、低い声で、言った。
「やってやるよ。その、くだらねえ、お遊戯。お前を、泣いて、喚いて、お母ちゃんに助けを求めるまで、徹底的に、いたぶってやるからな。覚えとけよ」
「……望むところです」
小夜子さんは、静かに、頷いた。
こうして、このサークルにおける、最初の、そして、最も異様な
わたしは、小夜子さんの手を握りしめながら、彼女の横顔を見ていた。彼女は、何を考えているのだろう。本当に、勝算はあるのだろうか。あの、野獣のような響子さんを、言葉だけで、屈服させることなど、可能なのだろうか。
わたしの不安を、見透かしたかのように、小夜子さんが、わたしの耳元で、囁いた。
「大丈夫ですよ、晶さん。見ていてください。わたしたちの、新しい闘争の、始まりを」
その声は、悪魔の囁きのように、甘く、そして、抗いがたく、わたしの鼓膜を、震わせた。
*
畳マットの中央で、小夜子さんと響子さんが、向かい合って、正座をした。
その距離、約二メートル。
手を伸ばしても、決して、届かない距離。しかし、言葉の刃が、届くには、十分すぎる距離。
響子さんは、腕を組み、ふんぞり返るようにして、小夜-子さんを睨みつけている。その顔には、「いつでもかかってこい」という、余裕の表情が浮かんでいる。
対する小夜子さんは、ただ、静かに、背筋を伸ばし、その小さな手を、膝の上に、きちんと揃えて置いていた。その姿は、まるで、これから、茶道の稽古でも始まるかのように、穏やかで、落ち着き払っていた。
部室の壁にかけられた、古びた時計の秒針が、カチ、カチ、と、やけに大きく聞こえる。
わたしは、固唾を飲んで、その異様な光景を見守っていた。わたしの隣では、沙月さんが、憎悪に満ちた目で、小夜子さんを睨んでいる。実践派のメンバーたちは、自分たちのリーダーである響子さんの勝利を信じて、ニヤニヤと笑っている。
そして、部屋の隅では、地に伏した二人の王が、それぞれの側近に介抱されながら、この、新たなゲームの行方を、静かに、見守っていた。
「……では、始めます」
小夜子さんが、静かに、宣言した。
「……ああ、さっさと始めろよ」響子さんが、吐き捨てるように言った。
小夜子さんは、ゆっくりと、息を吸い込んだ。そして、最初の、言葉の刃を、放った。
「野々村さん。あなたは、どうして、そんなに、強さに、こだわるんですか?」
その問いは、あまりにも、穏やかで、そして、あまりにも、核心を突いていた。
響子さんは、一瞬、虚を突かれたような顔をしたが、すぐに、鼻で笑った。
「はあ? 当たり前だろうが。強いってのは、いいことだからだよ。誰にも、負けねえ。誰にも、文句言わせねえ。それが、一番、気持ちいいだろうが」
「……本当に、そうでしょうか」
小夜子さんは、静かに、続けた。
「あなたは、本当に、自分のために、強くなったんですか? 誰かに、認められたかったから、じゃないんですか? 誰かに、『すごい』って、言ってもらいたかったから、じゃないんですか?」
「……なんだと?」
響子さんの顔から、余裕の色が、少しずつ、消えていく。
「あなたは、ずっと、寂しかったんじゃないですか?」
小夜子さんの声は、静かだが、まるで、鋭いメスのように、響子さんの心の、一番、柔らかい部分を、切り裂いていく。
「体育会系の家庭で育って、柔道に打ち込んできた。でも、その強さゆえに、男の子からは、敬遠された。女の子からは、『女らしくない』って、陰口を叩かれた。あなたは、ずっと、独りだった。あなたの、その、強さを、誰も、認めてはくれなかった。だから、あなたは、もっと、もっと、強くなろうとした。誰にも、文句を言わせないくらいに、圧倒的に、強くなれば、きっと、誰かが、認めてくれるって、信じて」
「……黙れ」
響子さんの、低い声が、漏れた。
「そんな時、あなたは、橘涼さんと、出会った」
小夜子さんは、構わずに、続けた。
「彼女は、あなたの強さを、初めて、認めてくれた。褒めてくれた。『お前、すげえな』って、言ってくれた。あなたは、それが、たまらなく、嬉しかった。だから、あなたは、彼女に、心酔した。彼女のためなら、何でもしようと思った。彼女の、一番の、暴力装置になることで、彼女の隣にいる、自分の居場所を、確保しようとした。違いますか?」
「黙れっつってんだろ!」
響子さんが、絶叫した。その顔は、怒りと、そして、それ以上に、動揺と、苦痛で、歪んでいた。図星だったのだ。小夜子さんの言葉は、一言一句、全て、真実だったのだ。
わたしは、息を飲んだ。小夜子さんは、いつの間に、響子さんの、そんな、個人的な情報を、手に入れたのだろう。おそらく、この数日間で、実践派の、他のメンバーから、巧みに、聞き出したのに違いない。彼女の、その、情報収集能力と、分析能力に、わたしは、改めて、恐怖を感じた。
「あなたは、涼さんのことが、好きなんですね」
小夜子さんは、最後の、とどめの一撃を、放った。
「でも、それは、本当の、愛じゃない。それは、ただの、依存です。あなたは、涼さんがいないと、自分一人では、立っていられない。あなたは、彼女の強さに、寄生しているだけだ。だから、あなたは、彼女が、薊さんに負けることを、何よりも、恐れている。もし、彼女が、最強でなくなってしまったら、あなたの、存在価値も、なくなってしまうから」
「……う、るさい……」
響子さんの、その、鋼鉄のようだった身体が、がたがたと、震え始めた。その、いつも、自信に満ちていた目に、涙が、みるみるうちに、溜まっていく。
「うるさい、うるさい、うるさいっ!」
彼女は、両手で、自分の耳を、塞いだ。まるで、そうすれば、小夜子さんの、その、呪いのような言葉から、逃れられるとでも、言うように。
「わたしは……! わたしは、涼さんの、ためじゃねえ! わたしは、わたしのために、強くなったんだ! 誰にも、文句は、言わせねえ……!」
その言葉は、もはや、誰に、言い聞かせているのか、わからなかった。
そして、ついに。
ぽろり、と。
響子さんの目から、大粒の涙が、一筋、こぼれ落ちた。
その瞬間、部室は、再び、完全な、静寂に、包まれた。
勝敗は、決した。
言葉が、暴力を、屈服させた、歴史的な瞬間だった。
響子さんは、しばらく、その場で、声を殺して、泣いていた。その、大きな身体を、子供のように、丸めて。その姿は、もはや、鉄のようには見えなかった。それは、傷つき、迷子になった、ただの、一人の、女の子の姿だった。
小夜子さんは、そんな彼女を、ただ、静かに、見つめていた。その目に、勝利を誇るような色は、なかった。そこにあるのは、深い、深い、憐憫の情のようにも見えたし、あるいは、獲物を仕留めた、捕食者の、冷たい満足感のようにも、見えた。
わたしには、もう、彼女のことが、何も、わからなかった。
やがて、響子さんは、ふらふらと、立ち上がった。そして、誰に言うでもなく、小さな声で、「……負けだ」と、呟いた。
そして、彼女は、一度も、こちらを振り返ることなく、まるで、何かに、追われるように、部室から、逃げ出していった。
鉄のドアが、ばたん、と、虚しい音を立てて、閉まった。
後に残されたのは、呆然とする、実践派のメンバーたちと、憎悪と、それ以上に、恐怖の色を、その目に浮かべている、沙月さんたち、思想派のメンバー。
そして、畳マットの中央で、静かに、座っている、小夜子さん。
この、新しい、女王の姿だった。
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