第2話

小津小夜子さん。


彼女は、まだ、顔を覆ったまま、小刻みに震えている。彼女の存在だけが、この異常な空間の中で、唯一、まっとうな人間の反応を示していた。


「さて、と」


涼さんが、にやりと笑いながら、小夜子さんの方へ歩み寄った。


「新入り。今ので、どっちが本物か、よーくわかっただろ? 強くなりてえんなら、こっち側に来い。あんな、口だけのインテリ気取りどもと一緒にいたって、殴られ損になるだけだぜ」


涼さんが、小夜子さんに手を差し伸べる。その手は、大きく、節くれだっていて、無数の傷跡があった。それは、彼女が生き抜いてきたことの証明のような手だった。


小夜子さんは、びくりと肩を震わせ、おそるおそる顔を上げた。その涙で濡れた瞳が、涼さんの手と、その背後に立つ響子さんたちの、威圧的な姿を捉える。


「……あ……」


小夜子さんが、何かを言おうと、唇を震わせた。


その時、それを遮るように、静かな声が響いた。


「待ちなさい」


薊さんだった。彼女は、いつの間にか立ち上がり、涼さんと小夜子さんの間に、まるで壁のように立ちはだかっていた。


「橘さん。あなたの言う『強さ』は、ただの暴力の連鎖に過ぎない。彼女が本当に求めているのは、そんな野蛮なものではないはずよ」


薊さんは、ゆっくりと小夜子さんの方へ向き直った。そして、先ほどの涼さんとは対照的に、その場に屈むと、小夜子さんと視線の高さを合わせた。


「小津さん。あなたは、いじめられていた、と言ったわね。その痛み、その屈辱、その恐怖。それは、あなた個人の問題ではない。この家父長制社会が、女性という存在に押し付ける、構造的な暴力の現れなのよ」


薊さんの声は、優しく、そして、抗いがたい力を持っていた。それは、まるでカウンセラーか、あるいは、新興宗教の教祖のようだった。


「あなたのその傷を、本当の意味で理解し、そして、その根源から解放へと導けるのは、私たちだけ。暴力では、何も解決しない。必要なのは、なぜあなたが傷つけられなければならなかったのかを、正しく認識するための『思想』なのよ。さあ、こちらへいらっしゃい。私たちと一緒に、真の闘争を始めましょう」


薊さんが、そっと手を差し伸べる。その手は、涼さんの手とは対照的に、白く、細く、傷ひとつない、美しい手だった。しかし、その指先からは、有無を言わせぬ、冷たい力が放たれているように、わたしには感じられた。


二人の王が、手を差し伸べている。


一方は、生存のための、剥き出しの「力」を。

もう一方は、解放のための、絶対的な「思想」を。


小夜子さんは、その二つの手の間で、まるで蛇に睨まれた蛙のように、完全に凍りついていた。彼女の潤んだ瞳が、助けを求めるように、わたしの方を向いた。


やめて。


わたしは、心の中で叫んだ。


この子を、おもちゃにしないで。この子を、あなたたちのイデオロギーの道具にしないで。


でも、わたしには何もできなかった。わたしは、この場所では、あまりにも無力だった。わたしは、高村晶という、ただの観測者でしかなかった。


「……おい、薊」


涼さんの声が、地を這うように低くなった。彼女の顔から、先ほどまでの余裕の色が消え、剥き出しの敵意が浮かび上がっている。


「横からしゃしゃり出てきてんじゃねえぞ。こいつは、おれたち実践派がいただく。文句あんのか?」


「いただく? まるで、物のような言い方ね」薊さんは、立ち上がりながら、冷ややかに言った。「彼女は、あなたの所有物ではない。彼女の魂の救済は、あなたのような、思想なき暴力の信奉者には不可能よ」


「魂の救済だあ? くっだらねえ。そんなもんで、飯が食えるかよ」涼さんは、MA-1の袖をまくり上げながら、一歩、薊さんに近づいた。「いい加減、はっきりさせようぜ、薊。あんたとの、二年前の決着を」


二年前の、決着。


その言葉に、部室の空気が、再び凍りついた。わたしも、息を飲んだ。サークルの「建国神話」として語り継がれる、伝説のバトル。薊さんと涼さんが初めて激突し、両者KOという壮絶な引き分けに終わったという、あの戦い。以来、二人は直接拳を交えることなく、代理戦争を繰り返してきた。その、決して開けてはならないパンドラの箱が、今、開かれようとしていた。


「……いいでしょう」


薊さんは、静かに、しかし、はっきりと答えた。彼女の瞳の奥で、暗く、そして、歓喜に満ちた光が揺らめいたのを、わたしは見逃さなかった。


「あなたが、そこまでして身体での対話を望むのなら、受けて立つわ。この、小津小夜子さんの『指導権』を賭けて」


「望むところだ」涼さんは、獰猛に笑った。「ルールは、いつも通り、なしだ。どっちかが、完全に音を上げるまで。いいな?」


「ええ。もちろんよ」


二人の間で、合意が成立した。


部室は、水を打ったように静まり返った。誰もが、これから起ころうとしていることの重大さを理解し、言葉を失っている。


わたしは、ただ、震えていた。恐怖と、そして、それだけではない、何か別の感情で。それは、破滅への、抗いがたい期待感のようなものだったかもしれない。


二人の王が、ついに、直接対決する。


この、狭く、歪んだ世界の、全てを決める戦いが、始まろうとしていた。


畳マットの中央で、薊さんと涼さんが、ゆっくりと対峙する。その間には、全ての元凶となった、怯える小夜子さんが、まだ座り込んでいる。


「どきな、新入り」


涼さんの低い声に、小夜子さんは、弾かれたように立ち上がると、わたしのいる壁際まで、もつれるように走ってきた。そして、わたしの腕に、必死にしがみついた。その身体は、可哀想なくらいに、がたがたと震えていた。


わたしは、その震えを受け止めながら、ただ、目の前の光景を見つめることしかできなかった。


薊さんは、黒いロングコートを脱ぎ捨てた。その下は、沙月さんと同じ、黒いタートルネックと、黒いパンツだった。無駄な肉が一切ない、しなやかで、引き締まった身体。それは、思想を体現するために、極限まで研ぎ澄まされた、武器としての身体だった。


涼さんは、MA-1ジャケットを脱ぎ、着ていたTシャツも、頭から引き抜いて放り投げた。その上半身には、スポーツブラだけが残された。日焼けした肌、鍛えられた腹筋、そして、腕や肩に刻まれた、いくつかの古い傷跡。それは、リアルな世界を生き抜いてきた、生存のための、証としての身体だった。


二つの、全く異なる思想。

二つの、全く異なる身体。


それらが今、この四畳半のマットの上で、激突しようとしている。


わたしは、しがみついてくる小夜子さんの震えを感じながら、思った。


わたしは、一体、どちらの勝利を望んでいるのだろうか。


破壊と再構築の、聖なる儀式か。

それとも、生存を賭けた、剥き出しの暴力か。


どちらが勝っても、地獄。

どちらが負けても、地獄。


そんな、分かりきった答えしか、わたしの頭には浮かんでこなかった。


「……いつでも、いいわよ」


薊さんが、静かに言った。


「そっちこそ」


涼さんが、不敵に笑った。


そして、次の瞬間、二人の身体が、マットの中央で、激しく、衝突した。


ごん、という鈍い音が響いた。肉と肉とがぶつかる音ではない。骨と骨とが、正面から砕け合うような、そんな音だった。


先に仕掛けたのは涼さんだった。獣のように低い姿勢から、床を蹴って弾丸のように突進する。狙いは、薊さんの懐に飛び込んでのタックル。しかし、薊さんはそれを予測していた。涼さんの突進に合わせて、自らも一歩前に踏み込み、その額めがけて、硬い膝を突き上げたのだ。カウンターの膝蹴り。二つの質量が、一点で激突した。


時間が、引き伸ばされたゴムのように、伸びきって、ねじれて、そして、ちぎれた。


わたしの鼓膜の内側で、低く、長く、ハウリングのような音が鳴り続けている。目の前で起きている出来事を、わたしの脳が、わたしの身体が、処理することを拒絶している。衝突の瞬間に響いた、あの、骨と骨とが砕け合うような鈍い音は、まだわたしの頭蓋の内側に反響していた。


涼さんの、獣じみたタックル。それを迎え撃った、薊さんの、カウンターの膝蹴り。二つの身体が激突した衝撃で、畳の上の埃が、白い煙のように舞い上がった。蛍光灯の光を浴びて、きらきらと、非現実的に光っている。


「ぐっ……!」


涼さんの動きが、一瞬、止まった。額を強打した衝撃で、その瞳孔が、きゅ、と収縮するのが見えた。脳が揺れている。身体が、悲鳴をあげている。それでも、彼女は倒れない。それどころか、その勢いのまま、薊さんの身体に組み付いた。まるで、傷を負った猪が、痛みによってさらに猛り狂うように。


「おおおおっ!」


涼さんは、薊さんの腰を掴むと、力任せに持ち上げようとする。その上腕二頭筋が、岩のように硬く膨れ上がる。しかし、薊さんの身体は、まるで水の中に立つ葦のように、その力を受け流した。彼女は、涼さんの力を利用して、くるりと身体を回転させると、その背後に、猫のように静かに着地した。そして、間髪入れずに、涼さんの首に腕を回す。チョークスリーパー。息の根を止めるための、冷徹で、完成された、思想としての技。


「させっかよ!」


涼さんは、首に食い込む薊さんの前腕を、両手で掴んで引き剥がそうとする。その首筋に、血管がみみず腫れのように、何本も、何本も浮き上がった。日焼けした肌が、酸素を奪われ、みるみるうちに赤黒く変色していく。


「りょ、涼さん!」響子さんの、悲鳴のような声が飛ぶ。


涼さんの膝が、がくりと折れた。アスファルトの上で生き抜いてきたその強靭な身体が、ついに悲鳴をあげている。薊さんの腕が、蛇のように、さらに深く、その喉に食い込んでいく。涼さんの口から、「かはっ」という、空気が漏れる、最後の音がした。


決まる。このまま、薊さんが、涼さんの意識を刈り取る。わたしは、そう思った。思想が、暴力を制圧する。その、あまりにも静かで、あまりにも残酷な瞬間を、わたしは目撃するのだ、と。わたしの身体の中で、安堵と、そして、名状しがたい失望とが、渦を巻いていた。


しかし、次の瞬間、わたしは信じられない光景を見た。


涼さんが、最後の力を振り絞るようにして、ほとんど意識のないまま、本能だけで、後ろに振り返り、薊さんの太腿に、思いきり噛み付いたのだ。


「っ……!」


初めて、薊さんの顔に、純粋な苦痛の色が浮かんだ。表情を変えずに耐えようとしているが、その眉が、わずかにひくついている。黒いパンツの上からでもわかるほどの力で、涼さんの歯が、その肉に食い込んでいる。ぶちり、と、布地が裂ける音がした。


それは、ルール無用のこのキャットファイトにおいても、暗黙の裡に避けられてきた行為だった。あまりにも、剥き出しの、動物的な攻撃。それは、生存本能そのものだった。それは、思想でも、理論でも、美学でもない、ただ、生きたい、負けたくない、という、魂の叫びだった。


思想派のメンバーから、小さな悲鳴が上がる。彼女たちにとって、それは「対話」の範疇を逸脱した、ただの野蛮な行為にしか見えなかっただろう。彼女たちの信じる、クリーンで、イデオロギカルな闘争が、泥と血にまみれた、ただの喧嘩に堕ちていく。


薊さんの腕の力が、激痛によって、一瞬だけ、緩んだ。


その、ほんのコンマ数秒の隙を、涼さんは逃さなかった。彼女は、薊さんの拘束から抜け出すと、振り返りざま、その顔面に、拳を叩き込んだ。


ごしゃり、という、鼻の軟骨が砕けるような、水気を含んだ、嫌な音がした。


薊さんの身体が、大きくのけぞる。その鼻から、真っ赤な血が、まるで噴水のように噴き出した。白く、陶器のようだった彼女の肌に、鮮血が、いくつもの、赤い花を咲かせる。その光景は、あまりにも暴力的で、そして、わたしの目には、あまりにも、美しく映った。


「あ、薊さん……!」沙月さんの、か細い声が聞こえる。


薊さんは、ふらつきながら、二、三歩後ずさった。そして、自分の鼻から流れる血を、手の甲で無造作に拭った。その瞳は、もはや、冷静な光を失っていた。そこにあるのは、憎悪と、屈辱と、そして、彼女自身が最も忌み嫌っていたはずの、剥き出しの闘争本能だった。彼女は、自分の血を見て、そして、笑った。声もなく、ただ、口の端を吊り上げて。


「……よくも」


薊さんの唇から、低い声が漏れた。それは、もはや、理論を語るための声ではなかった。


「よくも、やってくれたわね……橘、涼……!」


彼女の身体から、それまで抑え込まれていた、黒いオーラのようなものが立ち上るのが見えた。それは、彼女の理論や思想といった、上辺の仮面が剥がれ落ち、その奥に隠されていた、純粋な暴力性そのものだった。父への憎悪、母への侮蔑、そして、自分自身への嫌悪。それら全てが、今、解放されようとしていた。


もはや、そこに、思想派も実践派もなかった。


ただ、傷つけられた二匹の獣が、互いの喉笛を食い千切るために、対峙しているだけだった。


そこからの戦いは、もはやバトルと呼べるようなものではなかった。それは、ただの、殺し合いだった。


薊さんは、それまでのクレバーな戦い方を捨て、涼さんと同じように、殴り、蹴り、髪を掴んで引き倒し、馬乗りになって殴りつけた。その動きは、洗練されてはいないが、一つ一つに、明確な殺意が込められていた。白い肌は、返り血と、自らの血で、まだらに染まっている。彼女の長い黒髪が、振り乱され、汗と血で、その頬に張り付いている。


涼さんもまた、額から血を流しながら、狂ったように拳を振るった。その目には、もはや理性のかけらもなく、ただ、目の前の敵を破壊することしか考えていないようだった。彼女の口からは、意味の成さない、獣のような唸り声が、絶え間なく漏れていた。


ど、が、ご、ばき、という、肉と骨が砕ける音が、部室に響き渡る。飛び散る汗と血が、畳を濡らし、壁を汚していく。わたしは、隣で震える小夜子さんの身体を抱きしめながら、その光景から目を離すことができなかった。怖い。気持ち悪い。吐きそうだ。でも、目が離せない。わたしの身体の奥底で、なにかが、歓喜の叫びをあげていた。


もっと、やれ。もっと、壊せ。


その黒い感情の正体に、わたしは気づきたくなかった。それは、わたしがずっと抑圧してきた、わたし自身の、破壊衝動だったのかもしれない。


二人の動きが、徐々に鈍くなっていく。互いに、致命的なダメージを負いすぎている。それでも、彼女たちは、戦うのをやめない。それは、もはや意地とか、プライドとか、そういうものではなかった。ただ、相手を屈服させるまで、自分は倒れるわけにはいかない、という、本能だけが、彼女たちを動かしていた。


薊さんの右ストレートが、涼さんの顎を捉えた。涼さんの身体が、大きく揺れる。しかし、彼女は倒れない。逆に、そのがら空きになった薊さんの腹部に、渾身のボディブローを叩き込んだ。


「ぐ、ふっ……!」


二人の口から、同時に、苦悶の声が漏れた。


そして、まるで、示し合わせたかのように。


二人の身体が、ゆっくりと、崩れ落ちていった。


薊さんは、仰向けに。

涼さんは、うつ伏せに。


二人は、畳マットの中央で、互いに数センチの距離を置いて、ぴくりとも動かなくなった。


勝者は、いなかった。


部室は、死んだような静寂に包まれた。


先ほどまでの、怒号も、歓声も、肉体がぶつかる音も、すべてが嘘のように消え去り、ただ、二人の荒い呼吸音だけが、天井の高い旧館の部室に、不気味に響き渡っていた。


誰も、動けなかった。


思想派のメンバーも、実践派のメンバーも、ただ、呆然と、畳の上に転がる二つの身体を見つめているだけだった。自分たちの信じていた、絶対的な王が、二人とも、地に伏している。その事実が、彼女たちの思考を停止させていた。


わたしは、腕の中で震える小夜子さんの存在を、ようやく思い出した。彼女の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。その瞳は、恐怖に染まりきっている。


わたしは、彼女に、何か言葉をかけてあげなければ、と思った。大丈夫だよ、と。もう、終わったから、と。


でも、本当に、終わったのだろうか。


わたしは、ゆっくりと、畳の上で伸びている二人に視線を戻した。


薊さんの、黒いタートルネックは、血と汗で汚れ、ところどころが破れていた。その下からのぞく白い肌には、無数の痣が浮かび上がり、まるで、抽象画のようだった。彼女の胸は、か細く、しかし確かに、上下している。その口元には、先ほどわたしが見た、あの、ほんのわずかな笑みが、まだ、残っているように見えた。それは、勝利の笑みではない。かといって、敗北のそれとも違う。それは、自らが望んだ「破壊」が、ついに達成されたことに対する、満足の笑みのように、わたしには思えた。


涼さんの、日焼けした背中もまた、無数の引っ掻き傷と、打撲の跡で、赤黒く変色していた。彼女の金色の髪は、汗で濡れそぼり、額に張り付いている。彼女もまた、かろうじて、息をしている。その指先が、畳を掴もうとするかのように、かすかに、動いていた。それは、最後まで諦めない、という、彼女の生存本能の、最後の現れなのかもしれない。


二人の王は、倒れた。

しかし、二つの思想は、まだ、死んではいなかった。


その時だった。


「……あ、薊さん……」


最初に動いたのは、沙月さんだった。彼女は、仲間に支えられながら、ふらつく足で立ち上がると、もつれるようにして、薊さんの元へ這っていった。その顔は、殴られて腫れ上がり、痛々しい姿だったが、その瞳には、先ほどまでの絶望の色はなかった。そこにあるのは、殉教者を見るような、恍惚とした光だった。


「素晴らしい……。これこそが、真の……破壊と、再構築……」


沙月さんは、うわごとのように呟きながら、薊さんの血に濡れた手に、そっと触れた。


「……涼さんっ!」


ほぼ同時に、響子さんも、涼さんの元へ駆け寄っていた。彼女は、涼さんの身体を抱き起こすと、その名を、何度も、叫んだ。


「しっかりしてください、涼さん! 立て! まだ、終わってねえ! あんたが、最強のタチなんだろうが!」


響子さんの目には、涙が浮かんでいた。それは、敗北への悔し涙であり、そして、自らの信じる神が傷つけられたことへの、純粋な悲しみだった。


二つの派閥は、それぞれの王の元へと集い、それぞれのやり方で、その存在を確かめようとしていた。


しかし、もはや、そこに、絶対的な王はいなかった。


地に伏した、二人の、ただの女がいるだけだった。


そして、わたしは、気づいてしまった。


この、均衡の崩れた世界で、唯一、立っている存在がいることに。


わたしは、恐る恐る、腕の中にいる小夜子さんに視線を落とした。


彼女の震えは、いつの間にか、止まっていた。


彼女は、顔を覆っていた手を下ろし、その涙で濡れた瞳で、目の前で繰り広げられている光景を、じっと、見つめていた。


その目に、もはや、怯えの色はなかった。


そこにあるのは、見たこともないほどに、冷たく、そして、飢えたような光だった。彼女は、この地獄絵図を、この世界の崩壊を、まるで、栄養分を吸い込むかのように、その小さな身体に、取り込んでいるようだった。


彼女は、思想派の狂信も、実践派の忠誠も、そして、二人の王の、壮絶な自己破壊も、全てを、その目で見て、学んでいた。


わたしは、ぞっとした。


わたしは、この瞬間まで、小夜子さんのことを、守られるべき、か弱い存在だと思っていた。この異常な世界に迷い込んでしまった、ただの被害者なのだと。


でも、違った。


彼女は、この世界の崩壊を、誰よりも望んでいたのかもしれない。


そして、この瓦礫の中から、最初に立ち上がり、全てを支配するのは、一条薊でも、橘涼でもない。


この、小津小夜子という、誰もが侮っていた、小さな怪物なのかもしれない。


わたしは、腕にしがみつく彼女の、そのか細い指先に、力が込められていくのを感じていた。それは、もはや、助けを求めるための力ではなかった。


それは、何かを、掴み取ろうとするための、力だった。


旧館の、高い天井から、ぽつり、と、何かが落ちてきた。雨漏りだろうか。それは、畳の上に転がる薊さんの、白い頬の上に落ちて、彼女の流した血と混じり合い、まるで、一筋の、赤い涙のように見えた。


わたしの地獄は、まだ、始まったばかりだった。



それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。十分か、あるいは一時間か。部室の中では、時間の感覚が麻痺していた。


やがて、薊さんと涼さんは、それぞれの派閥のメンバーに抱えられ、部室を後にして行った。薊さんは、最後まで意識が戻らなかった。沙月さんたちが、タクシーを呼んで、おそらくは懇意にしている、口の堅い医者の元へ運んでいったのだろう。涼さんは、途中で意識を取り戻したが、ひどく消耗しており、響子さんの肩に寄りかかって、やっとのことで歩いていた。彼女たちは、二丁目の、自分たちのねぐらへと帰っていったに違いない。


二人の王が去った部室には、異様な静けさと、権力の空白だけが残された。


そして、その空白を埋めるように、新たな動きが、静かに、しかし確実に始まっていた。


「……あの、大丈夫ですか」


最初に口を開いたのは、小夜子さんだった。彼女は、いつの間にかわたしから離れ、救急箱の前に座り込んでいた。そして、その中から、消毒液とガーゼを取り出すと、おどおどとした、しかし、妙に落ち着いた様子で、わたしに尋ねてきた。


「高村、さん……。どこか、怪我は……?」


わたしは、はっとした。わたし自身、いつの間にか、腕や足に、いくつかの擦り傷を作っていた。おそらく、小夜子さんを庇って壁際に追いやられた時にでも、作ったのだろう。


「あ、ううん、大丈夫。たいしたことないから」


「でも、血が……。手当て、します」


小夜子さんは、そう言うと、わたしの隣に座り、わたしの腕を取った。そして、小さな手つきで、丁寧に、消毒液をガーゼに染み込ませていく。その仕草は、ひどく手慣れて見えた。


「……あなたこそ、大丈夫なの? 怖かったでしょう」


わたしは、彼女に尋ねた。


小夜子さんは、手を止めずに、小さく頷いた。「……はい。すごく、怖かったです。でも……」


彼女は、そこで言葉を切ると、顔を上げて、わたしをじっと見つめた。その眼鏡の奥の瞳は、もう、潤んではいなかった。


「……でも、すごく、勉強になりました」


勉強に、なった?


わたしは、彼女の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。


「薊さんも、涼さんも、すごかったです。どっちが、とかじゃなくて……。どっちも、すごかった。自分の信じるもののために、あそこまで、自分の身体を懸けられるなんて……。わたしには、まだ、できません」


彼女の声は、か細いが、そこには、確かな意志の光が宿っていた。


「わたしも、見つけなくちゃ。わたしの、闘い方を」


その時、わたしは、はっきりと理解した。


彼女は、怪物だ。


彼女は、このサークルの、二つの巨大なイデオロギーを、まるで教科書のように読み解き、そして、自分自身の、新たな思想を、今、まさに、構築しようとしているのだ。


「……高村さんは、どうなんですか?」


小夜子さんが、わたしの傷にガーゼを当てながら、尋ねてきた。


「え?」


「高村さんは、どっちなんですか? 思想派なんですか? それとも、実践派なんですか?」


その問いは、これまで、わたしがずっと、自分自身に問い続けてきた問いだった。しかし、誰かから、こんなにもまっすぐに問われたのは、初めてだった。


わたしは、答えられなかった。


わたしは、薊さんの理論に救いを求めた。でも、その理論が、人を人とも思わない、冷たい狂気に変わる瞬間を見た。

わたしは、涼さんの強さに惹かれた。でも、その強さが、ただの自己破壊的な暴力に堕ちていく様を見た。


わたしは、どちらでもない。

わたしは、どこにも属せない。


わたしが黙っていると、小夜子さんは、ふ、と、小さく笑った。


「……わたしと、同じですね」


その言葉に、わたしは、どきりとした。


「わたしも、まだ、どっちでもありません。だから、一緒に、考えませんか? わたしたちの、闘い方を」


小夜子さんが、わたしの手を、きゅっと握った。その手は、驚くほどに、冷たかった。


その後の数日間、部室は、奇妙な平和に包まれた。


王を失った二つの派閥は、互いに干渉することなく、それぞれの傷を癒すことに専念しているようだった。沙月さんは、顔に痛々しい痣を残しながらも、以前にも増して、難解な哲学書に没頭していた。その姿は、まるで、失われた神の言葉を、テクストの中に探し求めているかのようだった。響子さんは、部室の隅で、ただひたすらに、サンドバッグを殴り続けていた。その拳には、悲しみと、怒りと、そして、行き場のないエネルギーが満ち満ちていた。


そして、わたしと小夜子さんは、二人で、多くの時間を過ごすようになった。


小夜子さんは、驚くべき速さで、このサークルの全てを吸収していった。彼女は、思想派のメンバーに、臆することなく質問を浴びせ、クィア理論やフェミニズムの基礎を学び取った。そして、実践派のメンバーには、トレーニングの方法を教わり、受け身や、基本的な護身術を、その小さな身体に叩き込んでいった。


彼女は、まるで、乾いたスポンジが水を吸うように、二つの派閥の知識と技術を、貪欲に吸い上げていったのだ。


そして、わたしは、そんな彼女の、一番の話し相手になった。


「晶さん」


ある日の放課後、二人きりの部室で、小夜子さんは、わたしを初めて、下の名前で呼んだ。


「晶さんは、どうして、ここに来たんですか? 本当の、理由を、聞かせてください」


わたしは、ためらった。わたしの、あの、汚らわしい秘密。女性にしか惹かれない、という、罪悪感。それを、この、得体の知れない後輩に、話していいものだろうか。


でも、わたしは、話した。


金沢の家のこと。厳格な父と、ヒステリックな母のこと。優秀な兄と比べられ続けたこと。そして、同性の友人に、恋心を抱いてしまい、そのことで、自分を責め、罰し続けてきたこと。


わたしが、ぽつり、ぽつり、と話すのを、小夜子さんは、ただ、黙って、聞いていた。相槌も打たず、同情の言葉もかけず、ただ、じっと、わたしの目を見て。


全てを話し終えた時、わたしは、自分が泣いていることに気づいた。


「……だから、わたしは……。薊さんの言う、身体の破壊に、救われると思ったんだ。こんな、汚れた身体、いっそ、壊してしまえばいいって……」


「汚れてなんかいませんよ」


小夜子さんは、きっぱりと言った。


「晶さんの身体は、何も、汚れてなんかいません。それは、晶さんの、大切な、あなただけのものです」


彼女は、そう言うと、わたしの涙を、そっと、指で拭った。


「悪いのは、晶さんじゃない。悪いのは、晶さんに、そう思わせた、この世界の、構造です」


その言葉は、薊さんが言っていた言葉と、よく似ていた。でも、薊さんの言葉が、冷たい理論の刃のように聞こえたのに対し、小夜子さんの言葉は、不思議と、わたしの心に、すっと、染み込んできた。


「だから、闘いましょう。晶さん」


小夜子さんは、わたしの手を握りながら、言った。


「薊さんのように、自分を破壊するのでもなく。涼さんのように、ただ暴力を振るうのでもなく。わたしたちの、やり方で。わたしたちの言葉と、わたしたちの身体で、この、クソみたいな世界と、闘いましょう」


その時、わたしは、初めて、このサークルに来て、救われた、と思った。


薊さんの思想でもなく、涼さんの力でもなく、この、小津小夜子という、小さな怪物の、その言葉によって。


わたしたちの、奇妙な共犯関係は、その日から、始まった。


しかし、その平穏は、長くは続かなかった。


一週間後、薊さんと涼さんが、同時に、部室に姿を現したのだ。


二人の姿は、一変していた。


薊さんは、顔の腫れは引いていたが、鼻筋には、痛々しいギプスが当てられていた。そして、何よりも変わったのは、その雰囲気だった。以前の、全てを見透かすような、冷たいカリスマ性は消え失せ、そこには、まるで、燃え尽きた炭のような、虚無感が漂っていた。


涼さんもまた、額の傷は癒えていたが、その目からは、以前のような、獰猛な光が消えていた。彼女は、どこか、自信を失ったように、所在なげに、部室の隅に立っているだけだった。


二人の王は、あの死闘によって、何か、決定的なものを、失ってしまったのだ。


そして、その日、薊さんの口から、衝撃的な言葉が、告げられた。


「……このサークルを、解散します」


その言葉に、部室にいた全員が、息を飲んだ。


「もう、終わりよ。こんな、不毛な闘争ごっこは」薊さんは、虚ろな目で、言った。「理論も、暴力も、何もかも、無意味だった。私たちは、何も、変えることなどできなかった……」


「待ってください、薊さん!」


沙月さんが、悲痛な声をあげた。「そんなこと、言わないでください! あの日の闘争は、無意味なんかじゃありません! あれこそが、私たちの……!」


「黙りなさい、氷川さん」薊さんは、冷たく、言い放った。「あなたには、もう、うんざりよ」


沙月さんは、絶望に顔を歪ませ、その場に崩れ落ちた。


「……涼さんも、それで、いいんすか」


響子さんが、信じられない、といった表情で、涼さんに尋ねた。


涼さんは、何も答えなかった。ただ、力なく、首を横に振るだけだった。


二人の王が、自ら、その座を降りた瞬間だった。


権力の空白。


いや、違う。


わたしは、隣に立つ、小夜子さんを見た。


彼女の口元に、ほんのわずかに、笑みが浮かんでいるのを、わたしは見逃さなかった。


全ては、この瞬間のために、あったのだ。


「――待ってください」


凛とした、しかし、どこまでも静かな声が、部室に響いた。


声の主は、小夜子さんだった。


彼女は、ゆっくりと、一歩、前に出た。そして、部室にいる、全員を見渡して、言った。


「解散なんて、させません。この場所は、わたしたちが、生きるための、唯一の場所なんですから」


その、あまりにも堂々とした態度に、誰もが、言葉を失っていた。


「薊さん、涼さん。あなた方は、確かに、強かった。でも、あなた方は、間違っていた」


小夜子さんは、続ける。


「あなた方は、自分たちの思想と、自分たちの強さだけを信じて、他者を、切り捨ててきた。でも、本当の闘争は、そこからは生まれない」


彼女は、そこで、一度、言葉を切ると、わたしの手を、強く、握った。


「本当の闘争は、連帯から生まれるんです。傷つけられ、奪われ、声を持たない者たちが、手を取り合うことから、始まるんです」


そして、彼女は、宣言した。


「今日から、このサークルは、わたし、小津小夜子が、引き継ぎます。そして、高村晶さんと、二人で、新しいルールを、作ります」


その言葉に、部室は、完全に、沈黙した。


沙月さんは、憎悪に満ちた目で、小夜子さんを睨みつけている。

響子さんは、何が起こったのか理解できず、ただ、呆然と、立ち尽くしている。


そして、薊さんと涼さんは。


二人は、初めて、目の前の、この小さな、おかっぱ頭の少女を、一人の「敵」として、認識したようだった。その虚ろな目に、ほんのわずかに、かつての光が、戻りかけていた。


わたしは、小夜子さんに手を握られたまま、震えていた。


でも、それは、もはや、恐怖の震えではなかった。


それは、これから始まる、本当の闘争を前にした、武者震いだった。


わたしの地獄は、終わった。

そして、わたしたちの、闘いが、今、始まる。

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