第9話嫉妬と誤解と、優しさの理由

昼休み、相川は給湯室で紙コップにコーヒーを注いでいた。

すると、いつの間にか後ろに立っていた吉川が声をかけてきた。


「今日もあの子と会ってから出社?」


「……なんの話ですか」


「近所の“知り合い”でしょ? この前言ってた」


吉川の声は冗談めいていたが、言葉の奥にほんのりと棘があるのを相川は感じた。


「……別に何もないよ。ただの挨拶みたいなもんだし」


「へぇ。でも、ずいぶん嬉しそうだったよ。あの子。駅の改札で、相川さんの背中見送ってからも、笑ってた」


「……見てたのか」


「たまたまね」


吉川はカップにミルクを入れて、かき混ぜる。その手はなぜか少しぎこちなかった。


「高校生でしょ? あの子」


「……ああ」


「……ちゃんと考えたほうがいいと思うよ。

あなた、優しいから。自分では意識してないかもしれないけど、誰かを期待させるようなこと、

してるかもしれない」


相川は何も言い返せなかった。

吉川の言葉は正論だった。だからこそ、何も言えなかった。


「……俺、そんなつもりじゃ……」


「でも、あの子はそう思ってないかもよ」


そう言って、吉川はカップを片手に給湯室を出ていった。



その日の夕方。

駅前の自動販売機の陰で、咲はスマホを握りしめて立っていた。


「……あの、ちょっといい?」


その声に振り返ると、そこには吉川がいた。

仕事帰りのスーツ姿。咲の制服とは対照的で、少しだけ威圧感があった。


「あなた、相川さんとよく一緒にいる子よね?」


「はい……あの……何か?」


「少しだけ話せる? 時間、あるでしょ」


咲は戸惑いながらも、頷いた。


「ねえ、あなた……相川さんのこと、本気?」


「……え?」


「毎朝一緒に歩いたり、連絡取ったりしてるの、知ってるから。……悪いけど、ああいう人って、すごく優しいけど鈍いから。相手の気持ちに気づかないまま、誤解を生むこともあるの」


咲は言葉をなくしたまま、立ち尽くしていた。


「あなた、まだ高校生なんでしょ? 彼は社会人で、大人。あなたといる時間は、たぶん“暇つぶし”とか“癒し”くらいのものじゃない?」


「……そんなこと、ないです」


絞り出すように、咲が言った。


「私は、ほんとに……相川さんに助けられたんです。最初に助けてくれたときだけじゃなくて、そのあとも、毎朝会えるのが……すごく、嬉しくて」


「……そっか。ごめん、ちょっと意地悪だったね」


吉川は目を伏せて、少しだけ息を吐いた。


「あなたが思ってるより、私はずっと長く、あの人のこと見てる。だから……ちょっと、嫉妬したのかも」


咲は目を見開いた。


「でも、言いすぎた。……ごめんなさい」


吉川はそのまま歩き去っていった。

残された咲は、胸の奥に小さく刺さった言葉を抱えたまま、駅の柱にもたれて立ち尽くしていた。



その数分後、相川が駅に到着する。


咲は相川の顔を見ると、ふっと表情を戻した。

けれどその瞳の奥には、微かに曇りが残っていた。


「こんばんは、相川さん。今日、ちょっといいですか?」


「どうした?」


「……さっき、知らない人に話しかけられて。

相川さんとどういう関係かって聞かれて……

ちょっと、嫌な感じで」


「……誰に?」


「その……女性の人。職場の人、ですか?」


相川は一瞬で察した。吉川だ。


「咲、ごめん。多分、それ……俺の同僚だ」


「やっぱり……なんか、私が邪魔してるみたいなこと、遠回しに言われて。ほんとは私、出しゃばりすぎてるのかなって……」


咲の声が少しだけ震えていた。

その顔は、普段見せる笑顔ではなく、戸惑いと不安が混じった表情だった。


「咲。……お前は何も悪くない」


言いながら、自分でも驚いた。

こんなふうに誰かを真っ直ぐかばう言葉を、

どれだけの間使ってなかっただろう。


「……でも、相川さん。やっぱり、迷惑なんじゃないかなって思っちゃって」


「……正直、迷惑って思ったこともある。最初はな。でも……今は違う」


咲が顔を上げた。目が揺れていた。


「俺は、たぶん……お前に助けられてる。毎朝、誰かが待っててくれるって、こんなに救われる

もんなんだなって思った」


「……本当?」


「ああ。だから……無理して笑うの、やめろ。心配になるから」


咲は、ほんの一瞬きょとんとしたあと、静かに目を伏せた。


「……泣きそうになったの、久しぶりです」


それは、彼女が見せた“ほんとうの顔”だった。



この日を境に、相川の中で何かが変わりはじめた。

それが“恋”という名前だと気づくには、もう少しだけ時間がかかった。

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