第8話それでも、君は笑う

翌朝、相川が玄関を出ると、咲はいつも通りにそこにいた。

制服のリボンを整え、両手を背中で組み、

にっこりと笑って。


「おはようございます、相川さん!」


まるで昨夜のやりとりなんてなかったかのように、屈託のない声。

その明るさが、どこか痛々しく見えた。


「……おはよう」


声を返しながら、相川は複雑な気持ちを抱えていた。


あの子は、本当に分かってるんだろうか。

大人と子ども。

社会的な距離。

何より、俺の気持ちが今どこにあるのか、俺自身ですら分からないのに。


「今日は天気いいですね。ほら、あったかくなるって言ってたとおり」


咲はそう言いながら、いつもより少し早足で歩き出した。


相川も後ろからついていく。

駅までの道は変わらない。神社の前、交差点、電柱の影。


でも、今朝の咲はどこか違っていた。


「ねえ、相川さんって、怒ったことありますか?」


唐突にそう聞かれて、相川はまばたきを一つした。


「怒ったこと?」


「はい。わたし、あんまり怒ってる相川さんを想像できなくて……でも、誰かに本気で怒ったり、ぶつかったりしたこと、あるのかなって」


「……そうだな。怒鳴ったりとか、喧嘩したりは、ほとんどないな」


「そっか。やっぱり、優しいんですね」


「優しいっていうか……面倒ごとが嫌いなだけだよ」


そう答えると、咲は「ふふっ」と笑った。


「でも、その“面倒ごとを避ける相川さん”が、

あのとき助けてくれた。……あれは、すごく嬉しかったです」


またその話か、と思いながらも、彼女の言葉を否定する気にはなれなかった。


「昨日の夜……ちょっと変なこと言って、ごめんなさい」


「……別に、気にしてないよ」


「ううん。私、自分で言っておいて落ち込んでました。やっぱり私、子どもだなって……」


咲は歩きながら、自嘲気味に笑った。

でも、その笑顔はどこか、泣きそうに見えた。


「……それでも、笑ってるんだな。お前は」


相川がぽつりと呟くように言うと、咲は少し驚いたように立ち止まり、振り返った。


「だって……笑ってないと、心まで崩れそうになるんです」


その言葉が、胸に刺さった。

言葉の強さじゃなくて、その奥にある“弱さ”が、相川のなにかを揺らした。


(この子は、無理して笑ってる)


思えば、最初に会ったあの日もそうだった。

怯えながら、それでも笑って「ありがとう」と言っていた。


「……変なこと聞くけどさ」


「はい?」


「無理して笑ってる時って、……苦しくならないか?」


咲は一瞬だけ黙って、でもすぐに、穏やかな声で返した。


「なりますよ。でも、苦しくないフリをするの、慣れてるから」


その声が、あまりにも自然で

相川は何も返せなかった。


けれどその日、彼は初めて思った。


この子に笑わせられるんじゃなくて。

この子を、ちゃんと笑わせられる大人でいたいと。

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