七月十二日(土):帰り道

 重たい雲が垂れこめ、昼間だというのに粘りつくような空気が街を覆っていた。湿った風がアスファルトの生ぬるい熱気を運び、肌にべったりとまとわりつく不快さだった。

 高橋優太、32歳。休日出勤の帰り道だった。

 部署は繁忙期。誰もが「サービス出勤」と称する無給の労働を強いられていた。会社は「完全週休二日制」を謳っていたが、それは欺瞞に過ぎない。今日は特に上司の監視が厳しく、同僚たちは魂を抜かれたようにPCに張り付き、残業代もつかないまま夜まで働き続けた。


━━━━━━━刻━━━━━━━ 


 午後九時。ようやく仕事に区切りをつけ、退社した。背中に鉛を背負ったように足取りは重い。上司は「明日もよろしく」と薄気味悪い貼り付けたような笑みで言った。その空虚な笑顔が、優太の背筋を冷やした。

 同僚から「飲んでいこうぜ」と声をかけられたが、そんな気分ではなかった。疲れ果てて、苛立ちさえどうでもよかった。優太はただ首を振り、駅へと向かった。

 会社から最寄り駅まで歩いて十分。電車を乗り継いで三十分。駅から自宅のマンションまでは、さらに徒歩十五分の道のりだった。

 湿気のせいか、生ぬるい空気が重く、蒸し暑い夜風が肌に絡みつく。

 最寄り駅前のスーパーで、缶ビールと惣菜を買い込み、改札を抜けた。

 土曜の夜だというのに、街全体が呼吸を潜めているような沈黙に包まれていた。人通りは少なく、住宅街に差し掛かると、闇がじわりと広がる。

 優太のマンションまでは、吸い込まれるような一本道だ。両脇に生気を失ったような家々が並ぶ細い道。街灯はまばらで、闇を溶かしこんだような影が地面に長く伸びている。優太は普段から、この薄気味悪い道を早足で通り過ぎるのが常だった。


━━━━━━━刻━━━━━━━ 


 今夜もその道に足を踏み入れた途端、冷たい糸が背筋を這い上がった。まだ十時前だというのに、奇妙なほど誰一人いない。まるで、この空間だけが歪んでいるかのようだ。遠くで、車のエンジン音が遠ざかるのが聞こえた。

 急いでイヤホンを耳に差し込み、スマホから、いつものロックミュージックを爆音で流した。

 その瞬間、音楽が途切れた。

「……すいません……」

 背後から、耳の奥に直接響くような、擦れた声がした。

 心臓が跳ね上がった。びくりと振り返る。だが、闇が広がるばかりで、そこには誰もいない。気のせいだ。疲れているんだ。そう自分に言い聞かせ、優太は早足で歩き出した。

「……すいません……」

 今度は、髪が逆立つほど鮮明に、すぐ後ろで聞こえた。

全身の毛穴が開くような悪寒が走り、優太はゆっくりと、振り返った。

 そこに、影のように、女が立っていた。

二十代前半くらいだろうか。色を失ったような薄いベージュのワンピースに、長く伸びた髪。髪は湿気で濡れた海藻のように肌に張りつき、顔は深く俯いていて、表情は闇に溶けていた。

「あ……はい?」

 喉の奥から、ひきつったような声が漏れた。

 優太は、ほとんど反射的に返事をしていた。

 女はゆっくりと顔を上げた。

 そして、深淵のような黒い瞳が、優太を獲物を品定めするようにじっと見つめた。濡れたように、ただ黒いだけの目だった。

「道が……わからなくて……」

 糸のように細く、か細い声だった。

 そして、幻聴かと思った。

「この先に……駅……ありますか……?」

 優太は、息を呑んだ。駅は、完全に反対方向だ。この細い道の先は行き止まりで、優太のマンションがあるだけだ。

「あ、駅は……あっち、ですよ。戻ればすぐですから」

 優太は、来た道を指差した。声が、震えていた。

 だが、女は、まるで感情の読めない無機質な顔で、ゆっくりと首を傾げた。そして、相変わらず優太をじっと見つめていた。

「……でも……帰らなきゃ……この先に……」

 女の声は、だんだん低く、歪んだ音に変わり、掠れていく。

 優太の背筋を、冷たい氷の粒が滑り落ちていくようだった。

 優太は、もう耐えられなかった。

「じゃあ……気をつけて……」

 そう絞り出すのがやっとで、優太は駆け出した。二度と、振り返る勇気はなかった。


━━━━━━━刻━━━━━━━ 


 マンションに着いた時には、優太は全身から汗が噴き出していた。心臓が痛いほど脈打っている。エントランスで住人専用のカードキーを震える手でかざし、オートロックを解除して中へ入る。

 エレベーターが来るのを待つことなどできなかった。優太は、踊り場ごとに息を整えながら、階段を駆け上がった。

自分の部屋のドアに辿り着き、ガタガタと震える手で鍵穴を探す。なんとか鍵を開け、血相を変えて部屋に飛び込んだ。

 そして、すぐにドアを閉め、鍵を回し、さらにチェーンをしっかりとかけた。まるで、外の何かを遮断するように。

そのまま、優太は床に崩れ落ちるように倒れ込んだ。

だが、あの深淵のような黒い目が、脳裏に焼き付いて離れない。

 恐怖を打ち消すように、優太はスマホを手に取った。「駅 迷う 女」そう検索してみた。

 すると、いくつか奇妙な記事がヒットした。

『七月十二日の夜、この辺りで迷い女に声をかけられると、二度と元の場所には帰れなくなる』

 信じるものか。優太は心の中でそう吐き捨てた。

だが、心臓が握り潰されるような嫌な予感が、背中の汗となって流れ落ちる。


━━━━━━━刻━━━━━━━ 


 その時──

 カン、カン、カン……

 玄関のドアを叩く音がした。

 ハッとして耳を澄ます。

 カン、カン、カン……

 ゆっくりと、何か硬いもので叩いている。

 優太はベッドの上で耳を塞ぐ。

 だが次の瞬間、カチャリと、ドアノブが回る音がした。

 ──鍵はかけたはずなのに。

 ドアが、ほんの少し開いた。

 湿った夜風が、部屋の中に流れ込む。

 そこに、黒い目が覗いていた。

 「……一緒に……帰って……」

 低い囁き声が、頭の中に響く。

 優太は声を上げる間もなく、視界が闇に飲み込まれていった。


━━━━━━━刻━━━━━━━ 


 翌朝、管理人が見つけたのは、無人の部屋だった。

 玄関の鍵もチェーンもかかったまま、中には誰もいない。

 ただ、床に落ちていた優太のスマホの画面には、地図アプリが開かれていた。

 ルートは、住宅街を抜け、行き止まりの暗い道の先で赤いピンが立っていた。

 そこには、こう表示されていた。

 あなたの帰る場所

 そして、その住所は、どこを探しても存在しなかった。

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