七月十一日(金):夜行バスの最後尾
あれは数年前、七月十一日のことだった。
当時二十四歳だった優奈は、大学時代の友人と再会するため、大阪から東京へ夜行バスで向かうことにした。
新幹線は高い。時間には余裕がある。そう考えて、インターネットで予約したのは、ごく普通の四列シートの夜行バスだった。集合場所は梅田のバスターミナル、出発は二十三時半。優奈は夏用のカーディガンとリュックで身軽に、少し浮き立った気持ちでターミナルへと向かった。
━━━━━━━刻━━━━━━━
バスターミナルは、同じように夜行バスを待つ人々でごった返していた。出発案内のモニターに「東京行き・満席」の表示が出ているのを見て、優奈は「やっぱり人気なんだな」と漠然と思った。
バスに乗り込むと、優奈の席は最後尾の左端、窓際だった。隣には男性が座っており、その隣も満席だった。(どうせ寝るだけだし……)優奈はリクライニングをわずかに倒し、カーテンを引いて自分だけの狭い空間を作り出した。
バスはゆっくりとターミナルを出発し、街灯が次第に少なくなるにつれ、車内は暗く静まり返っていった。
ほどなくして、乗客たちはうとうとと眠り始める。優奈も目を閉じ、うつらうつらしていると……何かが、カーテンの向こうの窓ガラスを叩くような音がした。
——コン……コン……
耳を澄ますと、それは風の音のようでもあり、人が指で軽くノックしているようでもあった。優奈は無理やり「気のせいだ」と自分に言い聞かせ、ぎゅっと目を閉じた。やがて、その音も意識の彼方に消え、優奈は深い眠りに落ちていった。
━━━━━━━刻━━━━━━━
次に目が覚めたのは、午前二時過ぎだった。サービスエリアに停車するアナウンスが流れ、寝ぼけ眼の乗客たちがゆっくりと席を立ち始める。優奈もトイレに行こうと立ち上がり、最後尾の自分の座席を振り返ったとき、背筋が凍るような違和感に襲われた。
自分の席の後ろ、本来なら壁しかないはずの空間に、誰かが座っていたのだ。
真っ黒な髪を長く垂らした女が、背筋を伸ばし、じっとそこに座っている。薄い、白い顔がゆっくりと優奈を見上げ、口の端だけが、ぞっとするほど緩やかに笑った。
「え……?」
思わず声が出そうになった瞬間、隣の男性が「あ、すみません」と言って席を立ち、通路に出ていってしまった。優奈は我に返り、ふらつく足でバスを降りた。サービスエリアの冷たい空気を吸い込んでも、あの光景が頭から離れない。 ——最後尾の後ろに、座席なんてなかったはずなのに。
━━━━━━━刻━━━━━━━
バスが再び走り出し、車内が真っ暗になると、もう眠れるはずがなかった。スマホをいじる気にもなれず、ただ外の闇を眺めていると……また、あの窓ガラスを叩く音が聞こえてきた。
——コン……コン……コン……
さっきよりも強く、早いリズムで。それは、まるで優奈を急かすかのように、執拗に続いた。
怖くなって、恐る恐るカーテンの隙間から窓の外を覗いた。闇の中に、白い顔が浮かんでいた。
走るバスの速度に合わせて、信じられないことに、その顔だけがずっと窓に張り付いて並走している。風に乱れる黒髪の下で、口元が裂けるように笑っているのが見えた。目が、優奈をじっと見つめていた。
優奈は思わず悲鳴を上げ、隣の男性にしがみついていた。男性は驚いたように「大丈夫ですか……?」と声をかけてくれたが、優奈は震える指で窓の外を指差すことしかできなかった。
━━━━━━━刻━━━━━━━
しかし、男性が何事かと窓を見たとき、そこには何も映っていなかった。ただ、漆黒の闇が広がっているだけだった。
やがて、朝になり、バスは無事に東京駅に着いた。優奈は一目散にバスを降り、足早にターミナルを抜け、友人との待ち合わせ場所に向かった。
「夜行バスって疲れるね」
待ち合わせのカフェで友人にそう言うと、友人が何気なく返してきた。
「でもさ、以前ニュースで見たよ。夜行バスの事故。確か……去年の七月十一日だったかな。夜中に中央道で事故って、最後尾の乗客だけ亡くなったって。」
「え……?」
優奈の背筋に、冷たい氷の塊が滑り落ちていくような感覚が走った。友人がスマホで検索したニュースには、こう書かれていた。
——七月十一日未明、夜行バスが中央道で事故。最後尾に座っていた二十代女性が死亡。
——最後尾の席は本来、事故で破損して以来、封鎖されていた。
優奈が座っていたのは……、確かに、あの忌まわしい「最後尾の席」だった。
それからというもの、優奈は二度と夜行バスには乗っていない。
——あの女が、今も後ろの座席で、あの冷たい笑みを浮かべながら待っているような気がしてならないのだから。
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