七月十三日(日):フードコートの家族
朝から真夏のような日差しが照りつけ、気温はぐんぐん上昇していた。
昼過ぎには、東京都心でも35度を超え、駅のホームでは小さな子供が泣き出していた。
そんな中、佐伯洋介(28)は、駅前の大型ショッピングモールに来ていた。
といっても、買い物の目的は特になかった。
休日に一人家にいることが耐え難く、彼は人混みに紛れて時間を潰すのが常となっていた。
カップルや家族連れの姿を見ると、胸の奥がざわめく。だが、その不快さすら、彼にとっては生の実感にも似ていた。
昼過ぎ、館内をぐるりと歩いたあと、フードコートで遅めの昼食をとることにした。
日曜日のフードコートは、当然ながら混雑していた。
子供たちの甲高い声、トレイを持って席を探す人々、空調の冷気が肌にまとわりつき、熱気と混ざり合うことで、奇妙に落ち着かない空間を作り出していた。
洋介は端の方のテーブルが空いているのを見つけ、牛丼を手に腰掛けた。
ふう、と一つ息を吐くと、彼は黙々と牛丼を掻き込み始めた。
周囲の喧騒は、いつしか意識の外に追いやられていた。
━━━━━━━刻━━━━━━━
――その時だった。
向かいの列のテーブルに、一組の家族が座った。
父親、母親、小学校低学年くらいの娘、そしてベビーカーに乗った乳児。
日曜の午後のフードコートでは珍しくもない光景だ。
だが、妙に気になってしまう何かがあった。
父親は背が高く、痩せていて、無表情だった。
母親は髪をきっちりとまとめ、どこか暗い目をしていた。
娘はテーブルの下でじっとしており、乳児はぴくりとも動かず、その存在がまるで無音の塊であるかのようだった。
洋介は最初、子供たちが騒がず落ち着いていることに、漠然とした居心地の良さを覚えた。
しかし、何かがおかしいと気づいたのは、しばらく経ってからだった。
この家族は、奇妙なことに、微動だにせず、食事に手をつけようとしないのだ。
テーブルには、出来立てと思しき湯気を立てた料理の数々が並べられていた。ラーメン、カレー、うどん、ハンバーグプレート、そしてジュース。
しかし、誰も箸をつけようとしない。
母親は虚ろな目でテーブルを見つめ、父親は虚空を真っ直ぐに、娘は深々と俯き、そして乳児は、瞳孔の開いた目で天井を凝視していた。
――ただの家族喧嘩か?
そんな風に思いながらも、視線を逸らせなかった。
ふと、母親が洋介の方を見た。
その瞳に、洋介は一瞬、全身の血の気が引くような寒気を覚えた。
――黒い。白目を食い尽くすかのような、異様に肥大した黒い瞳。
そのまま、母親はかすかに口元を動かした。
「……コッチ、キテ……」
その声は、まるで直接耳元で囁かれたかのように響き、洋介の背筋を冷たい悪寒が駆け上がった。
思わず立ち上がり、トレイを持ってゴミ箱に向かう。
「気のせいだ、疲れてるんだ」
自分にそう言い聞かせ、フードコートを出た。
━━━━━━━刻━━━━━━━
館内をぐるりと回り、気を紛らわせて再びフードコートに戻ると、あの家族の席は空いていた。
安堵と、同時に言いようのない虚脱感に囚われながら、洋介は別の空席に身を沈めた。
だが――
その足元には、先ほどの家族が残したであろう、夥しい食べかけの皿が散乱していた。
冷え切ったハンバーグ、麺が汁を吸い込み膨れ上がったラーメン、そしてテーブルから不気味に垂れ落ちる汁の跡。
まるで、何かに追われるようにして、忽然と姿を消したかのような、異様な光景だった。
「すみませーん、掃除お願いしまーす」
洋介が近くの店員に声をかけ、片付けてもらう。
だが、ゴミを回収していた女性店員が、ハッとしたように洋介を見て呟いた。
「えっ……お客様、あそこ……今日は、誰も座っていらっしゃいませんでしたけど……?」
洋介は耳を疑った。
「いや……家族が……座ってましたよ」
「えっ……わ、私、ずっとこの辺りを見ていたんですが……あそこには、誰も……」
洋介は無言でフードコートを出た。
足早にエスカレーターを降り、出口へ向かう。
自動ドアが開き、解放された空間へ一歩踏み出した、その瞬間だった。背後から、あの女の声がした。
「……マダ、コッチ、キナイノ……?」
振り向くと、あの母親が、ベビーカーを押しながら、無表情でこちらを見ていた。
子供たちもまた、虚ろな目つきで洋介を凝視していた。
その、白目の見えない黒い瞳が、洋介の脳裏に焼き付いて離れなかった。
━━━━━━━刻━━━━━━━
――あの日以来、洋介は二度と、そのショッピングモールには行かなかった。
だが、あの日以来、洋介は日曜日の午後になるたび、ふと耳元に、あの女の囁きを聞くようになった。
「……マダ……コッチ、キナイノ……?」
まるで、あのフードコートに、彼の「一部」が置き去りにされ、今もなお、家族が彼を待ち続けているかのように。
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