七月十日(木):ベランダの音

 これは、都内にあるワンルームマンションで、一人の女性が実際に体験したおぞましい話である。

 彼女の名は美穂、当時二十六歳。都内の広告代理店に勤める、ごく普通の、どこにでもいそうな女性だった。

 新しい生活を始めるため、美穂は会社の近くのマンションに引っ越した。

 築浅の十階建て、オートロック完備。二階の角部屋で、駅からも近く、家賃も手頃だった。

 不動産屋の担当者も「このあたりでは、一番人気で間違いありませんよ」と、妙に胸を張っていたという。

 美穂自身、多少古びた建物よりも、こういう真新しいマンションの方が安心できると信じ、特に悩むこともなく契約を決めた。

 ——しかし、引っ越して間もなく、彼女は“異変”に気付かされることになる。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 最初は「気のせいだろう」と、美穂は自身に言い聞かせていた。

 引っ越し初日の夜。疲れ切って帰宅し、シャワーを浴びてベッドに潜り込んだ深夜零時頃のことだった。

「……カリ……カリ……」

 壁の向こうから、まるで固い爪で執拗にひっかくような音が聞こえるのだ。

 隣の部屋の住人かと思い耳を澄ませたが、それにしても場所が変だ。

 音がするのは、美穂のベランダ側の壁——つまり、外なのだ。

「猫かな……」

 最初はそう思い、気にせず眠りに落ちた。

 ——けれど、その音は、次の日も、その次の日も、毎晩必ず深夜零時頃に聞こえる。

「カリ……カリ……カリ……」

 その音は日を追うごとに、少しずつだが確実に強くなっている気がして、美穂は拭い去れない不安に苛まれ始めた。

 ある晩、ついに我慢できず、音が聞こえたタイミングでベランダのカーテンをそっと開けてみた。

 だが、そこには何もいなかった。

 猫の姿も、虫の影もない。

 マンションの前の通りには車が何台か通り過ぎるだけで、静まり返っている。

 怖くなった美穂は、不動産屋に「夜中に変な音がするんです」と相談した。

 すると担当者は、少し困った顔をして「上の階か、風のせいじゃないですかねえ」と、つれない返事だった。


━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 それから数日後。

 いつものように夜、仕事を終えて帰宅した美穂は、帰りがけにコンビニで買った冷たいお茶を飲みながら、何となくベランダに出てみた。

 外は生ぬるい風が吹いていて、夜景は意外と綺麗だった。

「なんだか、気分が悪いというか……気のせい、だよね……」

 そう自分に言い聞かせながら、部屋に戻ろうとした、その時——

 ぞっとするような視線を、下方から感じたのだ。

 ベランダの柵から身を乗り出して、下を覗き込んだ。

 だが、そこにも……、何もいなかった。

 駐車場には車が停まっていて、街灯の光に照らされているだけ。

「……やはり、疲れているだけなのだろうか」

 美穂はそう呟き、ベランダのサッシを閉めた。

 すると、その瞬間——

「コン……コン……」

 今度は、ベランダのガラスを、何かが叩いた音がしたのだ。

 美穂はドキリとして振り返るが、やはりそこには誰もいない。

 外は暗い夜空が広がるばかり。

(やはり……何かおかしい)

 それでも、この程度のことで管理会社に文句を言うのも気が引けて、美穂は窓に鍵をかけてその夜は寝た。


━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 そして……その日から数日後。

 美穂はとうとう“それ”を見てしまうことになる。

 その夜も残業で遅くなり、午前一時過ぎに帰宅。

 風呂を済ませて、眠気まなこでカーテンを閉めようとベランダ側に近寄った時——

 ガラス越しに、“何か”が見えた。

 そこには……女がいたのだ。

 白っぽいワンピースを着た髪の長い女が、ベランダの柵の向こう側に、美穂に向かって張り付くようにして立っていた。

 手の爪が折れそうなほど柵を握りしめ、顔は髪に隠れて見えない。

「ひっ……!」

 美穂は慌てて後ずさりしたが、足がもつれて転びそうになる。

 恐る恐るもう一度ガラスの向こうを見やると……女は、確かにそこにいる。

 そして……その女が、ゆっくりと顔を上げた。

 爛々と光るような目で、美穂を睨みつけ、口の端を引き裂くように笑っていたのだ。

 その口元は、ガラスに醜く押し付けられ、おぞましいほどに真っ赤に汚れていた。

 美穂は悲鳴を上げて部屋の奥まで逃げると、そのまま朝まで震えながら過ごした。


━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 翌日、美穂は意を決して管理会社に電話し、ベランダのことを相談した。

 すると電話口の担当者が、少し沈黙した後、小さな声で言ったのだ。

「……あの、お部屋は……二百七号室で……間違いありませんか……?」

「はい……」

「……実を言うと、そのお部屋のベランダから……数年前、女性が飛び降りて……亡くなられているんです」

 美穂は言葉を失った。

 それ以上、何も聞くことはできず、数日後には引っ越しを決めたという。

 しかし、それからも深夜零時になると、美穂の耳には、あのひっかくような音が、今なお届くという。

「カリ……カリ……カリ……」

 まるで、まだ“自分の部屋”に戻ろうとしているかのように——。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る