紅色のお客様
カランコロンカランコロンカラーン
扉が開くと、少し冷たい風が部屋に入ってくる。夏は少し前に終わって、徐々に冬の足音が聞こえてきた。
「はじめまして。いらっしゃい、追憶工房の乖離屋へ。私はキリコ。ここの店のオーナーで切り絵師です。」
そう言ってキリコが客を迎え入れた。綺麗な身なりの女性がおずおずと入ってくる。
「こちらへどうぞ。お名前は?」
「舞元彩羽です。」
するとキリコはぴくりと反応した。
「舞元……?」
小声でキリコがつぶやく。そして、何でもないようにまた振り返った。
「舞元さんね。どうぞ。」
目元は布で隠れている。本当の表情は分からなかった。
「どうしてここへ?」
キリコが聞いた。奥からびいどろがお盆を持って二人の間を隔てるローテーブルに湯飲みを置く。秋は緑茶がよく合う。キリコはその湯飲みを持ってすすり始めた。
「忘れたい記憶があって。」
「あらそう。」
彩羽の湯呑みには茶柱がたっていた。キリコの方はたっていない。それにキリコは口をついっと尖らせていた。その間にびいどろは奥へ戻り箱を持ってくる。呂色も一緒についてきた。呂色は彩羽の横に丸くなって、寒そうに身を捩らせている。
「呂色がそうなるのなら、きっとそうね。」
キリコはびいどろが持ってきた箱を開いた。その中はキラキラと色とりどりの色紙がしまってあった。その中から端の方にある真っ白な紙を取って、キリコら彩羽の前に置いた。
「さぁ、コレに触れてみて。」
私のなにがいけなかったの?私のどこが悪かったの?ついこの間まであんなに仲良くしてたのに。大好きって言い合ってたのに。一昨日の二年記念も一緒に過ごしたのに。
「ごめん、別れて欲しい。」
それは急だった。何の前触れもなく、私に無情に突きつけてきた。
「え、なんで……」
「好きな人ができた。」
間髪入れずに彼は言った。彼は浮気なんてする人じゃない。どんな時も私を大切にしてくれて、守ってくれて。なのに、なのに。
「だれ……?」
「それは……言えない。」
「どうして!?」
「彩羽傷付くから。」
今更なによ。私を裏切ったくせに。私を差し置いて別の女を好きになったくせに!
「そう、もういいわ。」
鞄を掴み取って、大きな足音を鳴らして出ていく。もう知らない。彼のことなんか知らない。
――って簡単に心が入れ替えればよかったんだけど。私はできなかった。昔から家が特殊だったせいで友達は少なかった。家を離れて私の事を知らない人しかいない大学で彼と出会った。
お互いに一目惚れだった。
それからは速かった。デートを重ねて、私たちは結ばれた。もうそれが二年前。二年経ったらこんなことになるなんて。あの時の私は思ってもいなかった。婚約してるのかな、なんて考えてた。二年はもうとっくに大学は卒業してるし、仕事も始められてる。二人で力を合わせて生活していこう。同棲して、あんなことやこんなこともして。なのに、なのに。
気づいたら私は彼との思い出の場所を巡っていた。初めてのデートで来た河川敷。告白された高架橋。今は私を裏切った彼のことが憎くて思い出したくもないのに、私の過去を否定されないように思い出の場所を練り歩いてる。そんな生活を
三ヶ月した。
もうそろそろ限界だった。私は彼ともとに戻りたい。こんなにも私はあなたのことが好きなの。きっとあなたもそう。他の誰かを好きになるなんて何かの気の迷いよ。彼も私と同じ気持ちに違いないわ。だから、もう一度話し合おう。そうして私は彼へ連絡を取ろうとスマホを取り出した。
その時だった。彼が新しい女と楽しそうに二人で並んで歩いていったのを見たのは。
あ、終わった。そう思った。私、もう無理かも。そのままの足で私は近くの川へ行った。
もう終わろう。
もう無理。
耐えられない。
私、あの人なしじゃ生きていけない。
いつからなの。私の中で彼がこんなにも大きくなってたなんて。こんなんじゃなかった。私はこんなに人に執着する人間なんかじゃなかった。家のせいで友人関係を整理されても、嫌だとか思わなかったのに。どうして。彼はなにが違うの。思い詰めれば思いつめるほど涙があふれる。今まで我慢してたのに。前が見えない。そのまま私は川に転落した。
次に目が覚めたのは白い天井の部屋で、私はどうやら病院に連れて行かれたらしい。病院の先生に何かといろいろ聞かれたけど、ホントのこと言えなかった。なんだか、バカバカしくなった。なんで私こんなにも一人の男に感情振り回されてるんだろう。一度破綻したせいでなんだか急な冷静さがやってきた。
でも、あの頃の記憶は綺麗なままで、また私の頭を蝕んだ。たぶん、これで私死ねなかったんなら、次も死ねんのだろうな。なんとなく感じた。どこかスッキリさせたい。これズルズル引きずる。心のどこかであの人が陣取ってるの嫌だ。何とかして無くさないと。
「あの人との記憶を形にしたい。そしてきれいさっぱりこの気持ちとさようなら。」
彩羽はため息混じりにそう言った。どこかもう何もかもを諦めてて、どうでもいいような顔。それをキリコはじっと見つめていた。
「そう。」
短く返事をして、キリコはびいどろに目線を送る。そうするとびいどろは『誓約書』を取り出す。紫紺色の文字がキラキラと輝いていた。
「ここにサインをして私に感情を渡してくれるなら、あなたの記憶を形にしましょう。」
そうして、びいどろがペンを隣に置く。
「感情?」
「どれでもいいわ。貴方がいらない感情。こっちから指定は特にしない。好きなのにすればいいのよ。」
それでも彩羽の手は動かなかった。そのまま時間が過ぎていく。呂色が隣でにゃあと一鳴きした。退屈そうに身体を伸ばすと、また先ほどと同じ体勢に戻って眠りにつく。その時、彩羽の手が動いた。
「お願いします。」
至極色の『舞元彩羽』の文字。しっかりと交わされた。
「……ちゃんと受け取ったわ。できたら呼ぶから来てちょうだい。」
「来るってどうやって……」
「私から呼ぶわ。安心して。」
キリコが彩羽が持っていた色紙を取って箱にしまう。びいどろが彩羽を送り出した。
「ありがとうございました。次は作品完成後にお会いしましょう。」
季節はすっかり冬を極めた。一つ息をつくだけで白く視界が霞む。彩羽はまた乖離屋の前に立っていた。
「ほんとに呼ばれるのね……」
マップを調べても『乖離屋』の名前は出てこない。不思議な店だ。
カランコロンカランコロンカラーン
「あら、いらっしゃい。久しぶりね。こちらへ座って。」
キリコが笑って迎える。見えるのは口元だけだが。
奥に通されると、すぐに箱を持ってきた。丁寧に包装された箱はどこか厳かで、そう簡単に触れていいような気がしなかった。
「あなたのものよ。」
キリコは湯呑みのお茶をすすっている。ぱかりと開けると、そこにはシオンの花が咲いていた。細かな花弁がまるで生きているかのように照明を一身に浴びて輝いている。
「すごい……!」
「ふふふ、お気に召したならよかったわ。」
どこか嬉しそうにキリコは笑う。彩羽は愛おしそうにその絵を抱きしめた。
「どう?前は向けそう?」
彩羽は深く息を吸うと、満開の笑顔でこう言った。
「ええ、もうこれ以上ないくらいに。」
「お嬢様。」
「なに?びいどろ。」
「シオンの花言葉をびいどろめに教えていただけませんか?」
「あら、あなたは気づいていたのね。」
びいどろがキリコに訊いた。彩羽はあの顔のまま店を去っていった。そのせいもあってか、店の中はどこか晴れ晴れしい空気が漂っていた。
「彼女の心よ。」
「左様ですか。」
びいどろは奥に戻っていった。呂色は相変わらずそのまま寝ていた。
紅色。意味は『何ごとにも心から喜べる素直な人』。あなたらしいわ。喜べるし悲しめる。忙しい人ね。たった一人の人間でここまで心悩めるもの。
――そういうこと、あなたは彼への「哀惜」を渡したのね。彼への思いを忘れるために。これ以上彼を想い続けるのをやめるために。
人間って面白いわ。嫌いだったらすぱんと切れるのに、好きだと切れないもの。
でも、私も私ね。一人と一匹になにかあったらきっと、いえ絶対。私どうにかなってしまいそうだもの。
切り絵ちょきちょき 白雲ガイ @Sh1raKawaNayuta
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