会長
「おー、貴方が長沢先生ですか。いやあ、先生のような方を社に抱えていられて、私は幸せ者ですよ」
タイムフリーザは科学界でいくつもの新発見を産んだ。そして、今や実社会にも浸透している。瀕死のけが人を病院まで保たせるための医療機器、劣化の進んだ美術品や文化財の保護装置、応用できる分野はいくらでもあった。トオシバのタイムフリーザは理化学分野では出遅れたものの、どうにか他の分野で巻き返しを遂げていた。
「光村会長、初めまして。でも、先生という呼び方はくすぐったいので勘弁してください」
イッコーははにかんで、禿頭の老人に応えた。トオシバ本社の社長室には、美里山社長の他に見慣れない品の良い老人が居た。美里山の紹介によると、老人はトオシバグループの会長だという。イッコーは実物を見るのは初めてだ。聞くところによると、近頃はめったに人前には出ず、トオシバに関するビッグニュースがあるときだけカメラの前に姿を現すらしい。最早伝説上の神獣である。
「いやいや、ノオベル賞受賞者の先生を、クンづけで呼ぶわけにはいかないですよ」
傍らに立つ美里山が、笑顔で手を振る。ノオベル財団からトオシバ宛に電話が入ったのは昨晩の事だった。今年度のノオベル物理学賞にイッコー・ナガサワを選出した、と告げるその電話は最初はイタズラだと思われた。確かにタイムフリーザはその革新性から、発明者にノオベル賞を、と推す声は強かった。が、なにしろ当初は、理化学機器としてのタイムフリーザと言えば、それを世に普及させた某外国企業の物と思っている人が多かった。従って、そこの開発者が受賞者候補として有力視されていたのだが、ノオベル財団が詳しく調査した結果、その根本にはトオシバが開発した技術があると認められたのだった。トオシバ社内は大騒ぎになった。
翌朝、直属上司からの電話でニュースを知らされた長沢は、半信半疑ながら普段は袖を通さないスーツとネクタイを着用し、始発の電車で出社した。慣れないネクタイがうっとうしかった。しかし、出社するとすぐ社長室に呼び出され、そこで神獣こと光村を見たことで、ようやく信じる気になったのだった。
「さて、間もなくノオベル賞受賞の記者会見じゃな。準備は出来ておるかな」
「ええ、緊張はしますが」
イッコーはさりげなくネクタイを直した。今更ながら、結び目が緩んでいないか心配になったが、大丈夫なようだ。
「そりゃ、結構。じゃが、その前に先生に一つお伝えしておきたいことがありましてな」
「なんでしょう」
光村老人は、ひどく真面目な顔になっていた。長沢は思わず気をつけの姿勢になる。
「ノオベル賞受賞者を抱えている企業として、技術投資をおろそかにする訳には行かん。そこで、トオシバは今後、技術投資を増額し、改めて技術開発部門を集約した研究所を立ち上げようと思うのじゃ」
「おお、それは良い考えですね。是非、お願いいたします」
イッコーは頭を下げた。技術者の端くれとして、技術投資が大きくなるのは歓迎だった。予算が増えれば、出来る研究の幅も広がるだろう。
「そうじゃろう。細かい計画はこれからじゃがな、所長だけはもう決まっておるんじゃ。どうでしょう、長沢先生。初代の所長の役目、引き受けていただけませんかな」
「ふえっ」
イッコーは思わず変な声を出した。思わず頭が上がったところを、背中をとんと叩かれる。振り返ると、美里山だった。
「ノオベル賞受賞者の先生には、それなりの待遇が必要でしょう。先生ももう、トオシバで10年以上叩き上げたエンジニアの鑑です。後進のためにも、ここは一つ、お願いします」
美里山が青々とした坊主頭を下げていた。自分に向かって頭を下げるお偉いさんたちの姿を見て、イッコーは自問した。所長と言えば大任だ、自分に務まるだろうか? しかし、これまでの自分を振り返ると、答えはすぐに出た。
「はい、謹んでお引き受けします」
これまで、研究組織に不満を覚えることはいくらでもあった。つまりそれは、自分が改善させられることがあるということだ。イッコーの返事を聞いた光村は満面の笑みを浮かべ、イッコーの手を両の手で握った。
「そうおっしゃってくれると思っていましたわい。是非、よろしくお願いします」
光村は子供のように喜んで、イッコーの手をぶんぶんと上下に振り続けた。
「それにしても、長沢先生の心意気は素晴らしいですな」
記者会見会場に向かって歩きながら、光村が口を開いた。上機嫌な光村の言葉に、イッコーは困惑する。
「はて、光村会長。心意気とは、何のことですか?」
「それはもちろん、この大発明に対して特許を取らなかったことじゃよ」
思いがけない一言にイッコーはぽかんと口を開ける。イッコーは気づかなかったが、後ろを歩いていた美里山も同じ表情になっていた。
「普通の人間なら、これだけの大発明をしたら私欲に走って特許の一つも取ろうとするじゃろうな。ところが、先生はあえて特許を取らず、製品として世の中に公開することによって広く人類社会にこの技術を行きわたらせた。いや、発明をした長沢先生も素晴らしいが、その特許を取らない決断をした美里山君はじめ関係者全員の心意気が素晴らしい。これぞトオシバ精神、実に天晴じゃ」
「いえ、会長。実は……」
「分かっていただけますか、会長!」
イッコーが言いかけるのを遮って、美里山が揉み手をしながら会長に呼び掛けた。
「時間冷蔵庫は素晴らしい技術です。だからこそあえて特許取得を省略して市場に出したのです。この決断を責める人間は沢山いました。しかし、会長にそうおっしゃって頂けて、千万の味方を得た気分です」
歯の浮くような世辞を聞きながら、光村はうんうんと満足そうに頷いていた。イッコーは苦笑する。初めてタイムフリーザ対策会議が開催された時、特許取得をしなかったことを誰よりも厳しく指摘したのは美里山だったのだ。
自分は所長になるという。だったら、後進のためにやるべきことはまず何だろうか。苦笑を浮かべながらも歩みを止めず、イッコーは頭の中で未来について考え続けていた。
【了】
【短編SF】時間冷蔵庫狂想曲【全四回】 山本倫木 @rindai2222
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