1 名無し猫、都市の底へ
都市区画L-24――この街には始まりも終わりもない。
規則正しく並んだ超高層ビルが、まるで巨大なデータチップのように夜空へ向かって積み上がっている。
昼と夜の区別も、もはや明確ではない。道路には無人車が滑らかに流れ、空にはドローンが往来し、どこを見渡しても人工光が絶えず都市を照らしていた。
ビル群の合間には細い歩道。冷たいガラスの壁、街路樹すらメンテナンス用のロボットが剪定している。
空調システムの音と、無機質な広報アナウンス。人々は皆、視線を手元のデバイスかARグラスに落とし、時折小声でAIアシスタントに指示を飛ばす。
――この街は「人間より機械の方が多い」と言われている。
それでも、猫にとってはこの世界がすべてだ。
都市の片隅、湿った植え込みの中。
名無しの猫は、細い体を丸めていた。
金色の目だけが、夜の光を受けて鋭く輝いている。
猫に名前はない。
生まれた場所も、時も、誰にも知られていない。
兄弟たちは、気づけばどこかへ消えた。
人間の飼い猫になれなかった猫たちは、都市の片隅に溶け込んで、
ひっそりと、だが逞しく生きている。
都市区画L-24は、見た目ほど豊かでも優しくもない。
ゴミ箱は自動的に密閉され、残飯の匂いはセンサーで除去される。
昔ながらの「猫の餌場」など、この地区には存在しなかった。
ときどき、人間の子供がパン屑を投げてくれる。
けれど、その子も、もう最近は見かけない。
大人たちは猫に構う暇もなく、
たまにAI警備ロボットが「衛生保持のため、ここに留まらないでください」と合成音声で追い払う。
それでも猫は生きていた。
都市の合間をすり抜け、時折カラスとにらみ合い、
ビルの軒先や隙間で冷たい雨風をしのぐ。
だが今夜――
猫の胃袋は限界だった。
昼間、必死にゴミ捨て場を漁ったが、何ひとつ見つからなかった。
食べられそうなものはすべて自動回収ロボットが分別してしまう。
古いパンのかけらも、カラスが一足早く持っていった。
お腹がすいた。
胃の中に重たい石が入っているような感覚。
頭の中で、ごはんの幻がふわふわと浮かんでは消える。
夜風が冷たい。
鼻先をくすぐるのは、都会の埃とわずかな植物の青臭さ。
どこか遠くで、ビルのセキュリティドローンが小さく唸り声をあげている。
猫は、植え込みの影から体を起こし、
フェンスの向こうに広がる闇へ目を凝らした。
この地区の地下には「ダンジョン」がある――
それは猫が生まれるよりもずっと前、十年ほど前に発見された。
元は大規模な地下インフラ工事の跡地だったが、
ある日突然、物理法則が「ねじれ」、現実とは異なる空間に変質した。
人間たちは最初、危険区域として完全封鎖しようとした。
だがダンジョンは都市の地下を縦横無尽に広がり、
封鎖しても、どこか別の場所に新しい入口が現れる。
不思議なことに、その中では通常の論理や物理法則が通用しない。
重力の向きが逆転したり、時間が歪んだり、
時には「未知のアイテム」や「謎の生物」が出現することもあるらしい。
都市区画L-24の住民たちは、ダンジョンを「日常の隣の異界」として受け止めていた。
出入りは原則禁止、だが好奇心旺盛な若者や冒険家たちが時折侵入し、
何かしらの「珍事件」を起こしてはSNSで拡散する。
だが、その多くは即座に警備ロボットやAI監視システムによって排除される。
けれど、猫にはそんなルールも監視も関係ない。
ごはんの匂いがするなら、どこへでも行く。
それが猫という生き物だ。
都市の片隅にある古い排気口。
人間には目立たない場所だが、猫はその存在を知っていた。
――あそこからは、時々、不思議な匂いがする。
お腹がすいた猫は、ふらふらと排気口のそばへ近づく。
金網の隙間から、湿った地下の空気が漂ってくる。
その中に、かすかに「カリカリ」の匂い。
けれど、これは本物のごはんではない。
都市のどこにもないはずの、不思議な「ごはんの幻」。
それでも、猫には確かにわかった。
あの向こうに、ごはんがある。
猫は小さな体をフェンスの下に押し込め、排気口へと忍び寄る。
近づくほどに、匂いは濃くなった。
腹の虫がくう、と鳴く。
足元のコンクリートの感触が冷たい。
都市の真夜中、車も人もまばらな時間。
猫は一歩一歩、地下の入口へと近づく。
――その瞬間、頭上でカメラのレンズが小さく動いた。
都市のAI監視システムが、猫の動きを検知する。
だが猫は構わず、暗闇へと消えた。
排気口の向こうは、ひんやりとしたコンクリートの通路。
人間の足音も、電気のノイズも、ここでは遠い世界の出来事。
猫はそっと耳を澄ませる。
通路の先、闇の奥から、ごはんの匂いが流れてくる。
どこかで、都市のオペレーターが監視カメラの映像を見ていた。
「あ、猫だ」
SNSには「#名無し猫 #ダンジョン潜入」のタグがついた短いクリップ動画が投稿される。
都市の片隅で、ほんの少しだけ話題が広がっていく。
でも、猫はそんなことには無関心。
目の前に広がるのは未知の世界。
コンクリートの壁が湿気で黒ずみ、遠くの天井からは水滴が落ちてくる。
猫の鼻先をくすぐるのは、ごはんの幻とダンジョンの不思議な空気。
――行くしかない。
猫は、ためらいもなくダンジョンの入口へと足を踏み入れる。
世界が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
空気が重くなり、色が淡く揺らぐ。
肉球の下の感触も、どこか現実とは違う。
それでも、猫は止まらない。
お腹の空腹と、ごはんへの執着だけが、彼を前へと駆り立てる。
都市区画L-24――
この巨大な都市の底で、
小さな冒険が今、静かに始まろうとしていた。
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