名無し猫、ダンジョンを征く

ばこ。

プロローグ

 深夜の街に、奇妙な静けさが漂う。

 路地裏で、ひときわ鋭い金色の目が、暗闇を切り裂く。

 ――猫だ。名前は、ない。生まれたときから、誰にも呼ばれず、ただ「猫」として、ここにいる。


 都市区画L-24。

 人口、およそ八十万。高度自律化インフラ。地下には、無数の施設が網の目のように広がる。だが、その最深部には――「ダンジョン」と呼ばれる領域があった。


 「発見されたのは十年前。もともと下水道か何かだったはずが、ある日、物理法則が“ねじれた”らしい」

 人間たちはそう噂する。けれど、猫にとっては、ただの“知らない場所”だ。

 ごはんの匂いがするなら、どこにだって行く。

 好奇心と本能。

 それが、彼――名無し猫を動かしている。


 今夜も、ごはんを求めて歩く。

 深夜二時。空は霞み、都市の光がうっすらと雲に滲んでいる。

 猫は、フェンスの隙間をすり抜けて、地下入口のひとつへと滑り込んだ。


 L-24管理局のAI監視カメラが、猫の動きを捉える。

 「また、あの猫か」

 コントロールルームの職員が、苦笑しながら映像をSNSに投稿する。

 《#名無し猫 #ダンジョン潜入 #今日も自由》

 ――バズる。

 そして、都市中の注目を集める。


 けれど、猫はそんなこと知らない。

 地下通路を進むと、空気が変わる。

 そこから先は「通常空間」ではない、とAIは警告する。

 物理法則の一部が乱れ、時間が歪み、重力さえも揺らぐ。

 けれど、猫は耳を澄ませる――かすかに、ごはんの匂い。


 ダンジョンの入り口。

 壁はぬめり、空間がゆがむ。

 それでも、猫は躊躇なく足を踏み入れる。


 ――と、その瞬間。

 視界が虹色にきらめく。

 「空間転移」現象。人間が入れば高確率で迷い、危険なモンスターに遭遇する。

 けれど猫は、小さな体をすり抜けながら、器用に通路を駆ける。


 (カリカリの匂い……!)


 猫の嗅覚は鋭い。

 未知の空間で、ごはんの粒ひとつまで嗅ぎ分ける。

 やがて、半透明の物体が通路をふさぐ。

 ――スライム。

 人間なら逃げ出すが、猫はしっぽを立てて突撃する。


 肉球で跳ね、スライムを飛び越える。

 爪を立て、ひっかく。

 スライムがぶるぶると震える。

 ――その瞬間、何かが「ドロップ」する。

 銀色に光る「謎のおにぎり」。


 猫は警戒しつつも、くんくんと匂いを嗅ぎ、おにぎりをひとくち。

 ――うまい。

 口の中に、未知のエネルギーが満ちていく。


 その頃、地上では。

 「ダンジョン内で未知の生命体(猫)が“アイテム取得”」

 AI監視データが即座に解析され、ネットニュースのトレンド欄に上がる。


 「また例の猫がやらかした!」

 「伝説の猫ついにおにぎりドロップwww」


 SNSには、猫のGIF動画が拡散される。

 猫自身は、そんな騒ぎに無関心。

 ごはんを食べて、エネルギーを得て、さらに奥へ進む。


 だが、ダンジョンはそう甘くない。

 不意に、周囲の重力が反転し、猫は天井に張り付く。

 「にゃ……?」

 頭をひねると、視界がグルリと回る。

 ――物理法則の破綻。それもこのダンジョンの醍醐味だ。


 それでも、猫は落ち着いてヒゲを整える。

 「強くなる」――それはごはんのため。

 ダンジョンの奥、さらに美味いものがあるかもしれない。


 そして、猫は知る。

 このダンジョンには「出口」がいくつもある。

 時にそれは、ごはんの匂いが満ちる台所だったり、

 あるいは、見知らぬ誰かの夢の中だったり。


 猫の冒険は、誰にも予測できない。

 だが、確かなことがひとつ。

 ――この都市で、今夜もまた、「名無し猫」が話題になる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る