2 名無し猫、ダンジョン1層を歩む
都市区画L-24の地下深く、現実の隙間にねじり込まれた迷宮――それがダンジョンである。
その入口をくぐった瞬間、猫の身体は、かすかな眩暈とともに世界の「ズレ」を感じた。
周囲は薄闇に包まれ、足元には柔らかく沈む床。
ただの土でもコンクリートでもなく、未知の物質でできている。
壁は半透明の薄膜で覆われており、向こう側の光がにじむように揺れている。
天井には、天然とは思えない幾何学的なパターンの結晶が無数に散りばめられ、かすかに青白く輝いていた。
猫は警戒しつつも、歩みを止めない。
においを嗅ぎ、耳をそばだて、しなやかに床を踏みしめていく。
この空間には、都市の上で嗅いだことのない匂いが渦巻いていた。
わずかに漂う「ごはん」の幻の香り――その微かな手がかりだけが、猫を前へと導いていた。
壁の一部が鼓動するように脈打ち、時折、液体のしずくがぽたりと床に落ちる。
温度は低い。だが不快な冷たさではなく、どこか水族館の深海コーナーを思わせるひんやりとした空気だ。
床の模様が、歩くたびに微かに光を返す。
猫の金色の瞳は、その微細な変化を見逃さない。
やがて、道はゆるやかに下り坂になる。
その先で、空間が急に開けていた。
広間――直径十メートルほどのホール。
中央には、何か光る物体が浮いている。
猫は本能的に身を低くし、足音を殺して進んだ。
――その時、床の影から何かが動いた。
半透明のゼリー状の物体。
大きさは猫の頭ほど。
ぷるぷると揺れながら、猫の行く手をふさいでいる。
スライム。
都市のネットニュースやAIの記録では、人間のダンジョン潜入者がよく出会う「最初の敵」とされていた。
けれど、猫にとっては初めて見る生き物だった。
猫はしばし観察する。
スライムは警戒しているのか、じりじりと間合いを詰めてくる。
触手のようなものが、床をぬるりと撫でている。
――にゃ。
猫は、低く身構えた。
背中の毛が逆立ち、しっぽがふくらむ。
だが恐怖よりも、好奇心と空腹のほうが強かった。
スライムが、じわりと近づく。
猫は素早く横へ跳ねた。
スライムも反応して伸びあがるが、猫の動きには追いつけない。
次の瞬間、猫は一気に距離を詰めて、鋭い爪でスライムの本体を引っかいた。
――ぴしっ、と音がした。
ゼリー状の体が大きく震え、内部にきらりと光る何かが見えた。
スライムは怒ったように大きく膨らむ。
だが猫は怯まない。
跳ねて、さらに前脚で連続してひっかく。
ゼリーの体はぷるんと跳ね返るが、何度も爪を立てているうちに、
ついに中心部のコアが「ぱきん」と音を立てて割れた。
スライムの体が静かに崩れ、床にしみこむように消えていく。
その跡には、キラキラと光る小さな物体が残されていた。
猫は警戒しつつ、そっと鼻を近づける。
そこには、小さな銀色の粒――カリカリの形をした何か。
匂いを嗅ぐと、たしかに「ごはん」の香りがした。
にゃあ。
猫はそれを一粒、ぱくりと口に入れた。
予想以上においしかった。
体の中に、温かなエネルギーが満ちていく。
床の結晶が、猫がカリカリを食べたのを合図に、ひときわ強く光った。
空間の空気が微かに震える。
その時、猫の視界に、もう一つ、奇妙なものが映った。
壁の影に、まるで「扉」のようなものが浮かんでいる。
形は不定形、でも猫にはその向こうにさらに強い「ごはん」の匂いが感じられた。
猫はもう一度、落ち着いて周囲を見渡す。
ダンジョン1層の広間には、まだ未知の出口がいくつもあった。
それぞれから、違う匂い、違う空気。
都市の地上とは異なる、どこまでも自由な世界。
猫はごはんの余韻にひたりながら、もう一粒カリカリを舐め、
自分の世界がまた少しだけ広がったのを感じた。
この時――
地上のAI監視システムは、猫の行動をリアルタイムで検出していた。
「ダンジョン1層、スライムとの戦闘、ドロップアイテム取得」
SNSにはクリップ動画が流れ、「#名無し猫 #ダンジョン1層初戦闘」が都市のトレンドになる。
人々は画面の中で戦う猫の姿に驚き、笑い、コメントを連ねる。
だが猫自身は、そんなことを知らない。
彼にとって重要なのは、目の前のごはん。
これから先の未知の空間と冒険だけだった。
ダンジョン1層。
そこは、無数の分岐と罠、不思議な光と柔らかい闇の混在する場所。
けれど、猫にとっては「ごはんの気配がする新しい世界」――それだけが真実だった。
猫は、再び耳を澄ませた。
どこか遠くから、また新たな匂いが漂ってくる。
冒険は、まだまだ続く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます