第八話

 これは五年前の話です。当時私は新社会人として会社に勤め始めるころでした。入社式を終え、それぞれの配属先か知らされます。私と同期のエリートたちは、東京の本社や、都市部の支社など入社当時から出世街道まっしぐらのようでした。私はというと、エリートなどではなかったので九州地方の支社配属となりました。ありがたいことに引っ越しの手続きなどは会社がすべて片付けてくれるらしいので、業者が荷物を運び出す日程だけ合わせてほしいということでした。私はもともと田舎で育ったこともあり、田舎で働くことに特に抵抗はありませんでした。それどころか、実家が近くなったので里帰りもらくちんだなと浮かれており、どのような家へ引っ越すのか、完全に聞きそびれていました。その時しっかり聞いていれば、あんな目に合うこともなかったのですが、それを忘れるあたりエリートには程遠いということを痛感します。

 それから何日か過ぎ、引っ越しの業者が荷物を運び出すためにやってきました。彼らは私の顔を一目見ると、なんだか可哀想なものを見る目をしましたが、すぐに普通の目に戻りました。私はただの見間違いかと思って、特に気にしてはいませんでした。私はあまりものを持たない主義なので、業者の方もそれほど苦労せず、持っていきたい荷物の梱包が終わりました。業者の方にお茶を渡し労をねぎらうと、いきなり向こうから聞いてきたのです。「引っ越し先がどんな場所か知っていますか?」と。私は知らなかったので「いえ、知りません」と返しました。今思えばかなり非常識ですよね。あと少しで自分が住むことになる家がどんな家か知らないというのは。

 業者の方も私の非常識さに少し驚いていたようですが、気を取り直したのか話し始めてくれました。彼の話によれば、私が住むことになるのは最近できた三階建てマンションの一室らしいのです。正直田舎にそんなものがあるのか半信半疑でしたが、料金は会社持ちでそんなところに住めるのはまさに幸運だと、当時の自分は思っていました。

 翌日、私がこれから住む予定のマンションへと到着しました。話に合った通り、新築らしい綺麗な見た目のマンションです。駅からもそこまで遠くなく、駅まで自転車で大体十分と言ったところでしょうか。中へ入り管理人の方に部屋の鍵をもらいます。どうやらここは私が勤めていた会社の持ちマンションで、社員寮として使っているようでした。管理人からもらった鍵のタグには『307』と書かれています。これが私がこれから生活する部屋の番号でしょう。管理人は私にこれを渡した時、「運がよかったな」とつぶやいていました。どういう意味かはすぐに分かりました。三階建てのマンションなので、最上階ということになります。階段の上り下りは面倒でしたが、高いところから少しさびれた町を見渡すというのは存外良いものでした。おそらく管理人はこの景色のことを言っているのでしょう。

 私は部屋に入ると圧倒されました。中はリビングダイニングと、洋室が一部屋。それに和室も一部屋あり、一人暮らしにしては十分すぎるほどの広さです。その上、風呂トイレは別で、洗濯機を置くスペースもしっかりと用意されています。私が業者に頼んで運び込んでもらった家電以外にもエアコンなどが備え付けられており、これで毎月家賃は光熱費込みで四万円弱だというので、私は会社の太っ腹加減に驚き続けていました。

 ほとんど手続きはしていないとはいえ、荷ほどきなどで忙しくしているとすっかり夜になってしまいました。キッチンも使えるようでしたが材料が何もないので買いに出かけることにしました。マンションから出る時、管理人の方に「夜道には気を付けて」と言われました。私は成人しており、体格もそれなりだったのでそこまで危険な目に合うこともないだろうと、「はい、わかりました」と適当に返事をして聞き流していました。マンションを出て少し駅方面に歩くとここら一帯を牛耳っているであろう大きなスーパーが目の前に現れます。夜七時前だったので、店内にはまだ大勢の買い物客がいました。みんな田舎体質なようで、今日ここに来たばかりの私をじろじろ品定めするように見てきます。それが不快だった私は野菜や、肉。今日食べる分の総菜などをカゴに放り込み足早にレジを目指しました。

 スーパーの中にいる間、周りからじろじろ見られているせいで嫌な窮屈さをずっと感じていましたが、外に出ることでようやく解放されました。買ったものを持ち、新たな家であるマンションへと急ぎます。すっかり日が暮れた夜道はかなり暗く、田舎のせいか街灯もあまりないので、ところどころ完全な暗闇を歩かねばなりませんでした。いくら成人しているとはいえ、人通りがあまりない夜道を歩くのにはクるものがあります。風が吹き、木が揺れる音ですら肩を震わせるほどでした。私はなんだか無性に怖くなって、家までの道を急ぎます。

 無事、マンションの前に着くとまだ春先だというのにびっしょりと汗をかいてしまっていました。流した汗のほぼすべてがただの冷や汗で、体がべたついてしょうがありません。管理人に戻ってきたことを軽く伝え、部屋へと急ぎました。すでにガスと水道は通っているはずですから、風呂に入れるはずです。食事の前に汗を流すためひとっぷろ浴びようかと思っていました。支度を整え風呂に行くと、風呂場の上の方に換気用の窓がついています。私は風呂の音を誰かに聞かれても困るわけではないので、窓を開けてから風呂に入りました。湯船につかり、その日の疲れを癒していると、窓を開けているせいか外から大きな音が聞こえてきます。大勢がバタバタ早足で歩き回っているような音でした。それは、私の部屋の前を抜け、隣の308の前あたりで止まったようでした。

 外を歩き回っている彼らは308に出入りして何かしているようです。風呂上がりに少しドアを開けて覗いてみると、308の部屋の前には大量に段ボールが積まれていました。もう時刻は夜八時近いのですが、引っ越し業者の方はこの時期随分と忙しいようで、私がドアから覗いている間も、何度も段ボールをもって目の前を通り過ぎて行きました。308の住人の方はそれをどんどん部屋の中へ運び込んでいきます。私はそれをいつまでも見ている必要はなかったので、さっさとドアを閉め夕食の支度を始めました。とはいっても、買ってきた総菜を電子レンジなりトースターなりで加熱するだけですが。その日は移動ですっかり疲れていたので、ちゃんとした食事は明日からにしようと考えていました。

 私が余り物のない殺風景な部屋で食事をしていると、隣の部屋からバタバタ音がします。荷ほどきをしているのだろうというのは何となく理解していたので、その騒音にはあまり腹を立てることもありませんでした。それに、そのマンションは防音まではいかずとも遮音までは対策されているらしく、そこまで気になるような音ではなかったことも理由でした。その音は私が食事を終え、スマホで一時間ほど動画を見ている間、ずっと鳴り続けていました。

 翌日、私は役所へ諸々の手続きをしに行く予定でした。さすがに会社持ちと言えどもすべてできるという訳ではなく、個人情報でもありますし、当然と言えば当然なんですが。ですのでその日、確か十時半ごろには床についていたと思います。見慣れない天井に、いつもとは違う部屋の雰囲気。ベッドと枕が普段と同じとはいえ簡単に寝ることはできません。その上、隣の部屋のバタバタ音がまだ鳴り続けています。十時を過ぎてまだ騒音を出すのはあまりに非常識だ。そう思ったのですが、一度ベットに寝た後もう一度起き上がるのは億劫で。それに、まだ見たこともないお隣さんに怒りに行くのもいかがなものかと思い、その日は我慢して寝ることにしました。

 当初は寝れないだろうと思っていたのですが、体の疲れというものは思っていたよりも正直なもので、いつの間にか寝てしまっていました。ですが、目覚めは最悪な物でした。まだそのバタバタ音がするのです。もしや一晩中何かし続けていたのかと、私はもはや恐怖を覚え始めていました。ここに住むということは私と同期でもあるということです。同年代にここまで非常識な奴がいるとはどうしても信じられません。私が朝ご飯の支度をしているとき、朝ご飯を食べているとき、皿を洗っているとき。それから、役所に行くための準備をしているとき。いつまでたってもその音は止みません。いったいどれほど荷物を運びこんだのか気になった私は、部屋を出る前に308の方をちらりと見ました。そこに段ボールはなく、一応すべての荷物を部屋に運び入れてはいたようです。

 私は308のドアベルを鳴らしました。挨拶がてら、一晩中騒がしかった同期の顔を拝んでおこうと思ったのです。少しして出てきたのは見るからに根暗そうな男でした。極端な猫背で姿勢も悪く、寝不足なのか目つきもぎらついているように見えます。その上出てくるやいなや「……誰だ?」と警戒心が非常に強く、第一印象でこの男は好ましくないと思えるほどでした。私は「隣に住む者だ」ということと、「昨日からずっと騒がしかったのは聞こえている。できればもう少し静かにできないものか」という二つを伝えました。しかし彼は「……俺はうるさいと思わない。我慢していろ」と言ってドアを閉め鍵をかけてしまいました。私はその時、正直勘弁してほしい気持ちがありました。別にお隣さんと仲良くなりたいという訳ではないのですが、トラブルをいくつも引き起こしそうな人物が隣の部屋なのは運がありません。マンションを出る前、管理人の方にも話したのでそれなりに改善はされたりしないものかと期待していました。

 役所での用事を終えて、昼食も駅前のレストランで済ませマンションへと帰ると大きな騒ぎが起こっていました。あの308の部屋の前に、2、3人ほどが集まって、ドアを叩いたりドアベルを鳴らし続けています。私は隣の部屋ですから、嫌でも彼らの近くを通らねばなりません。案の定、部屋へと入る時に呼び止められました。彼らは下の階の住人だそうで、今日引っ越して来たばかりのようです。しかし、入居してから数時間絶えず続くこの音に耐えきれず苦情を言いに来たようでした。

 彼らは私を苦情申し出の仲間に引き入れ、少しでも迷惑をこうむってる人が多いことをアピールするつもりのようです。一人が私と話している間、残りの二人はずっとドアを叩き続けたり、ドアベルを鳴らし続けています。その音を聞きつけて、他の階の住人や管理人までもが集まる事態となりました。それでも、中にいるはずの男は出てきません。部屋の中でまだ音がしていたので、中にいるということは分かっていました。しかし、それは思っていた形ではなかったのですが。

 管理人の方もしびれを切らしたようで、一度管理人室に戻ると、308の部屋の鍵のスペアを持ってきました。そして鍵を差し込み、扉を開けます。すっかり頭に血が上っていた最初の三人はドアが開いた瞬間、中へと飛び込みました。もしかすると彼らは怒りのあまり手を出してしまうかもしれない、そう考えていましたがそれは杞憂でした。……それとはまた、全く違うトラブルが起きたのです。中へ入っていた者達が驚きの声をあげます。……308の住人の男が、リビングの床に大の字で仰向けになっていました。目はカッと見開いていますが、瞬きをしている様子はありません。口も限界まで開いており、まるで何かに驚かされたときのような表情で固まっていました。……どう見たってまともな状態ではありません。私たちはすぐに救急車を呼びました。

 それから三日後、私のもとに警察がやってきました。ここのマンションに住む人全員のもとを訪ねているから、訝しむのはやめてくれと前置きされます。それから警察は、私が308の住人と会話していたという情報を他の住人から聞いたと話します。おそらく私が役所に行くとき、苦情を伝えた時のことでしょう。私はそれを隠さず話します。すると警察は妙なことを聞いてきました。「それは何時ごろだったか?」と。私は自分の記憶を呼び起こし、「確か九時ごろだ」と答えました。正直に答えたはずなのに、警察は怪訝な表情を隠そうともしません。それが少し気に障った私は聞き返しました。「何かおかしいところでも?」と。……警察は「検視の結果、あの男の死亡推定時刻は、通報前夜の午後7時50分ごろです。……あなたの証言と合わないんです」……。通報の前の日の午後7時50分ごろというと、私がちょうどお風呂に入っていて、隣が騒がしくなってきた時間帯でした。

 あれから私は一か月足らずで、新たな住居に引っ越しました。こちらの方が少々家賃は張りますが、隣人トラブルも、騒音トラブルもありません。……けれど、今でもまだ耳に残っているんです。一晩中鳴り続けていたあのバタバタ音が。……あの音は一体だれが出していたんでしょうか、それに私があの日話した308の男の正体は一体何だったのでしょうか。

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