第九話

 これは、私が入院していた時の話です。その時私は学生で、通学中に運悪く信号無視の車に轢かれてしまって。相手が気づいてブレーキを踏んだおかげで、命に関わるような怪我にはならなかったのですが、それでもいくつかの骨折は避けられず入院することになりました。相手方は逆切れするような非常識な方ではなかったので、治療費の全額負担で示談が成立しました。おかげで金銭面では特に不安はなかったのですが、それ以上の問題がありました。入院生活が退屈なのです。

 轢かれた際、とっさに利き手で体をかばってしまったせいで骨が折れてしまい、碌に利き手が使えなくなってしまいました。そのせいで暇つぶしにゲームなり、自習なりをしようと思ったのですが、利き手と逆の手は満足に動かせません。そのせいでやりたいことも碌にできず、ただ寝るだけの日がいくつかありました。それに、入院中の食事も退屈さに拍車をかけていました。当時学生だった私は、部活が運動部だったこともあり、それなりに食べ盛りでした。それなのに出される食事は普段から考えると半分以下の量で、常に微妙に腹を空かせている状態でした。

 しかし、そんな日も終わりが来ます。骨がほとんど治り、リハビリが始まりました。今までは車いすで移動していたのですが、これからは松葉杖です。その日から私は、看護師の目を盗んでは病院内の購買に顔を出すようになりました。学生ゆえ、お金はそれなりに持っています。トイレに行くと言っては購買により、菓子パンやおにぎりを買う生活が始まりました。

 その後のリハビリも順調に進み、今まで二本使っていた松葉杖は一本でも十分になりました。看護師の方からも「思っていたよりも治りが早いので、そろそろ退院ですね。リハビリ以外でも歩く練習をした方がいいですよ」と言われ、暇さえあれば散歩をするようになりました。とある日、いつもの習慣で病院内に作られた広場を一周歩いていたところ、ベンチに座っていた小さな女の子が看護師と揉めていました。女の子はしきりに「お部屋に戻りたくない!怖いの!」と訴えていますが、看護師の方は話を聞こうともせず、「怖くないから帰りましょう」と女の子の手を引きます。それが何となく気になった私は、こっそりと後をついていくことにしました。

 その女の子が入院している部屋は405号室でした。その女の子のベッドは一番奥の窓際のようです。看護師が車いすでベッドの前まで連れて行きますが、女の子は一向に車いすから降りようとはしません。私の目には、その子はベッドを怖がっている。そう見えました。何故なのかはさっぱりわかりませんが、それだけは確実です。そうしてドアの隙間から様子を窺っていると、彼女を部屋へと連れて来た看護士がドアの方へと近づいてきます。私は急いでその場を離れました。

 私はその日からその女の子が気になって仕方ありませんでした。ただの子供のわがまま、そう思えればよかったのですが、私の直感が絶対にそうではないと訴えているのです。私が首を突っ込んでどうにかなる問題かどうかは分かりません。けれど、一度知ってしまった以上放っておくことはできませんでした。あの出来事から二日後、私はついに声をかける決心をしました。散歩のとき、その女の子はいつものように花壇の近くにしゃがみ込んでいます。私はゆっくり近づいて「お花好きなの?」と話しかけました。その子は最初私を警戒していたようですが、一人で過ごすのが寂しかったのか私を話し相手に選んでくれたようでぽつぽつと会話をしてくれました。

 その女の子は真美ちゃんというお名前だということと、生まれながらに病弱だということを教えてくれました。家に帰ることができる期間ももちろんあるらしいのですが、一年の内、半分近くは病院で過ごしているとのことです。身勝手ながら私は彼女を可哀想に思い、そんな子を悩ませる問題ならできる限り解決してあげようと思いました。私は早速405号室のベッドについて聞いてみます。彼女は「ベッドの下に何かいるの」と言っています。当初、その訴えを聞き入れた看護師の方がベッドの下を覗いたことが何度かあったらしいのですが、看護師たちはそろって「何もいない」と言っていたそうです。しかし彼女は「でも、夜になるといるの。何をしてるかわからない、ベッドの下でじっとしてるだけ」と泣きそうな顔で訴えていました。

 ちょうどその時、真美ちゃんを担当している看護師の方が車いすを押してこちらへとやってきます。その方は私に一度会釈をすると、彼女を車いすに乗せようとします。しかし、いつも通り彼女はそれを嫌がります。見ていられなかった私はとっさに、「私の部屋と交換してもらえませんか?」と看護師に頼んでいました。真美ちゃんの不気味な話を信じていなかったわけではありません、ただこれ以上その子に怖い思いをさせたくなかったので、つい。看護師は最初呆気にとられ、次に「小さな子のお願いだからって、なんでもわがままをかなえようとするのはいけませんよ」と諭されます。それでも、私の必死のお願いにとうとう折れたのか、「……わかりました。シーツを取り換えますから少し待っていてください」と言って、病院内へと戻っていきました。

 少しした後、看護師が戻ってきて「シーツの交換が終わったから、行きましょうか」と真美ちゃんを車いすに乗せていきます。私は自分の荷物を片付けるため、看護師に着いて行きました。病室へと着き、彼女が今日から使う予定のベッドのもとへと案内されます。女の子は何事もなくベッドへと寝転がりました。今まで感じていたであろう何かの気配を感じることもなく、ニコニコして私に「ありがとう」と言ってくれました。「どうしたしまして」と返した私はそこまで多くない荷物を片付け、看護師の方に手伝ってもらいながら新たな病室へと移動しました。

 その移動の最中、私は気になっていたことを聞きます。「あの部屋には何かいわくつきの話でもあるんですか」と。看護師の方は本当に何も知らないといった様子で「聞いたことがありません」と首を振ります。その方は続けて「ここで働いてもう十年以上になりますが、そのような話はめったに聞きません。それに聞いたとしても、あの部屋は関係ないんです。深夜、手術室から変な音がするとか、霊安室から変な音がするとか。……あの子が嘘をついているとは思えません。けれど、眼に見える異変がない以上どうすることもできず。その上、今はどこの病室も空いてませんので、場所を移そうにも難しかったのです。……どうも、ありがとうございます」と話しました。

 看護師の方の案内で、今日から使う部屋の前に到着しました。部屋には他の入院患者が何人かおり、こちらをちらと見ただけで何かをいう訳でもありません。まるで品定めされているようで不気味でしたが、どうせ退院まではあと三日ほど。気にすることはないと思い込みました。今日から使うベッドは先ほど看護師の方が掃除してくださったのかとても清潔です。荷物を近くの机に置き、一度ベッドで寝てみました。視界の右側には窓があり、そこから外を見ることができます。ちょうど先ほどまで私たちがいたあの広場が見えました。結構いい景色じゃないかと眺めていると、怪しい人物を見つけました。

 病院の広場は入院患者の息抜きの場でもあると同時に、見舞いに来た方とのおしゃべりの場でもあります。要するに、あの広場は病院に関係ない人でも立ち入ることのできる場所なのです。その証拠に、毎日端っこのベンチに座って本を読んだりするおじいさんがいたりします。その中に一人、いるんです。どう見てもまともではない人が。入り口の影に隠れてはいますが、こちらからならよく見えます。ただじっとこちらを見ている40か50ぐらいの男が。彼は呆けたように口を開け、焦点の定まらない目でこちらを見ています。彼は私と目が合うと、驚いたかのように目をそらします。私も、なんだか見てはいけないものを見ているような気になって、眼をそらしました。でも、どうしても気になってもう一度そこを見たんです。……もうその男はいなくなっていました。

 その日の夜、私はいつも通り寝ていました。真美ちゃんの話では夜になると何かがベッドの下にいるらしいのですが、寝ているせいかそのような気配は感じられません。そして夜中、おそらく零時を回ったころでしょうか。私はトイレに行きたくなって目を覚ましました。病院の廊下は夜のため、必要最低限の照明しかついていません。その上足音は自分の者しか聞こえず、何か霊的なものが出てきてもおかしくはないなと思いながら歩いていました。しかし、そんな非現実的なことは起こることもなく、私は無事に用を足し部屋へと戻りました。

 真っ暗な病室の中を手探りで歩き、自分のベッドの所まで進みます。松葉杖を壁に掛け、もうひと眠りしようかと思った時、カーテンの隙間から月明かりが漏れ出していました。私は月明かりの中で眠るのもオツなものだと思いながらベッドに振り返ると、下に何かがいるのが見えました。ニタニタと笑っているような顔で、ベッドの下の隙間にある闇に浮かび上がっています。驚いた私はとっさに足を出していました。怪我をしていた足の方で思いきりその顔を蹴ろうとしてしまったのです。足を出した瞬間、やってしまったと思ったのですが、すぐに止められるわけでもありません。後悔の中放った蹴りが闇に浮かんだ顔に届いた時、意外な事実が判明しました。

 それはプラスチックのような軽い音を立て、ベッドの下で跳ねまわっているのです。その音で近くにいた人が起きてしまった挙句、私が蹴った顔がその人のもとに滑って行ってしまい、大事になってしまいました。他の誰かがナースコールを押し、部屋に看護師の方が来て、全員が起きていることを確認すると部屋の電気をつけました。看護師が「いったい何があったのか」と聞く前に小さな悲鳴を上げました。部屋の中央に不気味なピエロのお面が落ちていたのです。それはおそらく私がベッドの下から蹴り飛ばしたものでした。

 看護師の方に事情を説明すると、すぐにベッドの下を改めることになりました。今度はただ覗くだけでなく下へともぐりこんで確かめることになりました。看護師の方がベッドに下に入ってからすぐ、何かを見つけたようです。しばらくしたのちベッド下から出て来た看護師が持っていたのは小型の機械でした。普通、そのようなものはベッドに下にあるわけがありません。看護師の方はすぐに警察を呼び、私たちにはもう一度眠るよう伝えて部屋を出て行きました。

 もちろん碌に寝れるわけもなく、少し寝不足のまま翌日を迎えました。日々のリハビリをこなしたのち、いつも通り広場に行くと真美ちゃんがいます。前までのような暗い顔はしておらず、私を見つけると嬉しそうに近寄ってきて「ありがとう!」と御礼を言ってくれました。どうやらもうベッド下にいる何かに悩まされてはいないそうです。

 彼女を迎えに来た看護師も私に「この子のわがままを聞いてくださってありがとうございます」と御礼をもらいました。いいことをしたなと思って彼女らが部屋に戻っていくのを眺めていると、何やら視線を感じます。振り返ると病院入り口の影に昨日見たあの男が立っていました。昨日までのように呆けた顔はしていません。はっきりと怒りの感情が見て取れます。私はその男が怪異なのかと思いました。そして次のターゲットは私になるのかと。しかし、そうはなりませんでした。

 それから五日後、退院した私は家でテレビを見ていました。ニュースの時間が始まると、私は身を乗り出します。あの日病院で見たあの男が、容疑者として捕まっていたからです。病院内に盗聴器を仕掛け、入院患者のプライバシーを侵害していたとのことでした。あの日、看護師が手にした小型の機械、あれは盗聴器だったのです。警察の調べでは、男は以前あの病院に入院していた患者だったそうです。退院間近になり、適当に病院内を散歩していたところ真美ちゃんを見つけ、劣情を抱き盗聴行為に及んだそうです。病院の目を盗んで抜け出し、盗聴器を購入して戻り、盗聴器を仕掛けたまま退院したとのことでした。あの男が病院広場の入り口に立っていたのも、あのベッドに寝ている者が誰か確かめるためだったのでしょう。あのピエロの仮面も、子供を怖がらせるためと考えればそれなりに納得がいきます。

 あの男が捕まった日、彼はあの病院にいたそうです。供述では、「俺の邪魔をした奴を始末するためだ」と話していたそうです。……彼はあの日、刃物を持って病院内を歩き回り、私を探していたようでした。その日までに退院できていなければ一体どうなっていたのでしょう。……つまみ食いのため購買通いをしていたおかげで、私の命は助かったのかもしれません。

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