第七話

 これは、私の姉の話です。姉が学生だった頃、バイトを探していました。しかし、不景気なのか姉の性格が災いしたのかは定かではありませんが、全く働く場所を見つけることができずにいたのです。姉は遊ぶ金欲しさにバイトしようとしていたわけでも、家計を助けるためにバイトしようとしていたわけでもありません。社会勉強の一環として、できればいいなという程度の心持ちだったので、それが向こう側に透けていたのかもしれません。姉は「たかがバイトにすら真剣な理由を求めるなんておかしいよね」と笑っていましたが、少々いらだっていたようです。

 そんなある日、祖父の友人が「うちで働かないか」と声をかけてくれました。その方は神社の神主をしており、誰か巫女にちょうどいい人を探していたらしいのです。祖父がその方と雑談をしていた時、姉の話をしていたようでした。それを不憫に思ったのか、働く場を用意してくれるというのです。神主は「あまり一般的な仕事ではないから、社会勉強にはならないかもしれないけど」と前置きしましたが、姉は二つ返事で了承しました。一週間後に働き始めるということが決まり、神主は帰っていきました。

 祖父の友人が神主を務めているその神社は都会の片隅にあるような神社で、その地域に昔から住んでいる人にとっては親しまれているものです。それ以外の人にも、夏祭りなどで子供の頃お世話になった人が多いはずです。……しかし、時の流れというものはなかなか厳しいもので、どうもしなくても最近に不景気で子供を作る人は減っています。そうなると、夏祭りをやる理由も弱くなってしまいます。それが何年も続いた結果、二年前から夏祭りをやらなくなってしまいました。そのせいもあり神社を訪れる人も段々と減っていき、今では祖父を含む昔からここに住む人たちの憩いの場としての役割しか担っていませんでした。

 人の出入りが少ないおかげで、バイト初心者の姉にとっては好都合だと、神主は考えてくれたのでしょう。……一週間後、姉のバイトが始まりました。どこかで見たことがあるような巫女服を身にまとい、おみくじだったり御朱印だったりの接客や、境内の掃除などを行うそうです。しかし、メインの業務はご老人方の話し相手だったと、姉はバイト帰りにぼやいていました。そんな緩さが姉には合っていたようで、仕事に対する不満を口にすることもなく、それから一か月ほどが経ちました。

 ある日、夕方の五時前だったでしょうか。普段見ない人が神社に来ていたそうです。目には真っ黒なクマが刻まれ、頬がこけてしまっています。歩き方もなんだか不安定で、着ていた服もよれよれ。どう見ても普通の様子ではありません。その人は姉の姿を見つけると、「頼むから助けてくれないか」と頼んできたそうです。何が何だかさっぱりわからない姉は、「一体何の話ですか?」と聞きました。するとその人はひどく落ち込んだような顔をしたかと思うと、「いえ、やっぱり何でもありません」と言って帰ろうとします。姉はその時、この人をこのまま帰すと死んでしまいそうと思い、急いでその人を引き留めました。

 しかし、引き留めたところで姉に何かができるという訳ではありません。境内を前にして、姉とその男性が黙って立ち尽くしていると、事務所の方から神主が飛んできました。そして、その人を引き留めた姉に礼を言い、その人を神社の中へと連れて行ってしまいました。神主の方は去り際、姉に「この後の天気はあまり宜しくないから、今日は早めに帰りなさい」と言い、姉を帰しました。姉はどうにもあの人がどうなるのか気になっていたようでしたが、のぞき見をするのもはばかられるし、せっかく早めに帰れるのだからそれに越したことはないと思ったそうです。その日、特に天気が崩れることはありませんでした。

 次の日、姉がバイトに行くと神主の姿はありませんでした。奥さんに話を聞くと、「体を悪くして寝込んでいる」とのことです。それから、神主からの言伝で「これから三日の間、本殿の中には決して入ってはいけない」とのことでした。姉はもともと外の掃除と接客が仕事だったので、本殿自体にはあまり関係ありません。それに、本殿の扉にはいつも鍵がかかっており、その鍵は神主が管理しているので、姉には開けられるわけもありません。ですので、どこか的を外したような忠告に姉は少々面食らっていたようでした。その後、いつも通りに仕事を始めると、普段は感じられなかったナニカが感じられます。ある一定の場所からずっと見られているような、そんな気配を感じていたそうです。その視線の出所はすぐにわかりました。

 姉が石畳の上の落ち葉を掃いているとき、視線を感じてすぐに振り返りました。そこには大きな本殿があるだけです。しかし、普段は閉まっている本殿の扉が少しだけ空いていたのです。姉はすぐに理解しました。「誰かがあそこからこちらを覗いている」のだと。気になった姉はすぐに視線の主が誰か確かめようと一歩踏み出します。しかしそこで、神主の「本殿には入るな」という言伝を思い出し、立ち止まりました。姉は隙間から覗く何かと決して目を合わせないよう、わき見などで様子を窺います。隙間から見えた眼は終始せわしなく動き続けており、神社に来た人すべてを品定めしているように見えたそうです。

 それから三日後、体調を取り戻した神主が神社の業務へと復帰しました。神主は姉を伴い、本殿へと向かいます。本殿の扉はその時も少しだけ空いていましたが、隙間から覗く眼だけはいなくなっていました。神主はほの暗さに包まれた本殿の中へと臆することなく入っていきます。そして姉に対し「入ってきてください」と、普段は感じないような緊張感を持った声で言うのです。姉がおそるおそる中へ入ると、部屋の中が一気に明るくなります。神主が閉め切っていた雨戸を解放しただけでした。そうして部屋に取り込まれた光は、中で行われていたであろう奇妙な儀式を示す痕跡を照らし出します。

 部屋の中心には、白いひもで作られた六角形の囲いがありました。一角ずつにお供え物が置かれていたようですが、すべてなぎ倒されています。その囲いの中心には、あの日神社を訪ねて来たあのよれよれの服を着た男が寝転がっていました。呼吸はあったので、死んではいなかったようです。そして、本殿の壁一面に何やら墨のようなものが塗りたくられていました。ところどころ文字にも見えそうな所もあったらしいのですが、もう消してしまったので今から解読はできないとのことです。

 神主は本殿の中央で寝ている男を揺さぶって起こします。固い床で寝ていたせいもあり、かなり寝起きが悪かったのですが、まるで人が変わったようでした。目の下のクマは消え、こけていた頬も元通りです。男はひたすら神主に礼を告げ、何やら紙を渡して帰っていきました。神主はそれを見届けると姉に「本殿の壁の掃除をお願いします。後で応援もよこしますので」と言って床に転がっていたお供え物を片付けて本殿を出て行きました。姉は一人、本殿に残されていましたが頭の中は昨日までのことでいっぱいでした。三日間あの男はずっとここにいたのか、もしそうならあの隙間から覗いていたのはあの男だったのか。そうやって考えているうちに、神主が言っていた応援が清掃用具をもって本殿へと入ってきました。その人は巫女の先輩でもある方で、ずいぶんと姉に浴してくださっている方です。

 その方は本殿の惨状に特に言及することもなく、絞ったぞうきんを姉に手渡し、自らもぞうきんをもって壁へと向かっていました。当初、姉はその先輩に「この中で何が行われていたのか」と聞きたかったようですが、ぞうきんを手渡された瞬間「話はあとで」と先輩の目が語っていたように感じられたそうです。姉はせっせと汚れ落としに励みましたが、これが思っていたよりも頑固な汚れだったようで。墨のようなものだから簡単に落ちるはずと思っていた姉を苦戦させました。結果、バイトの時間をまるまる使ってようやく本殿を掃除し終えたそうです。

 姉は身支度を終え、帰路に着こうとしたとき、後ろから呼び止められました。呼び止めたのは、その日一緒に掃除をしたあの先輩です。その人は「さっきまでのこと、聞きたいんじゃない?」と切り出します。姉は聞いても良いのか悩んでいたようで、それを素直に伝えると「神社の外で話しましょう」と、先に歩きだしました。鳥居を抜け、神社の敷地外に出ます。空は夕暮れに染まっていました。……「あの汚れは、とあるものがばらまいた血みたいなもの」。姉の先輩はいきなり話し出します。「今日帰っていった男は、とあるものに憑かれていたの。あれほど死にそうな顔をしていたのはそれが原因ね。で、神主さんがお祓いをした結果、本殿の中があんなことになっちゃったってわけ。……ただ、今回のはずいぶんと手ごわかったみたいでね。神主さん、三日ほど寝込んでたでしょ?あれはお祓いした後の疲れのせいなの」。……先輩は一息に話しました。姉はそんなオカルトじみたことをあまり信じる性質ではありませんでしたが、神主を頼った男の変わり様を見れば、信じるしかありません。姉は気になっていたとあるものについて聞いてみました。すると先輩は「……あれは名前を知ってはいけないの。名前を知ると、仲間だと思われて飲み込まれる。あの男も偶然あれの名前を知ってしまったのでしょうね」と話しました。話は終わり、そのままその場で別れて姉は帰路に着きました。不気味な話を聞いてしまったせいか姉は帰り道の途中「誰かに見られている気がする」とぼやいていました。

 二日後、姉がバイト先である神社へと向かうと、そこには警察官と救急隊員が集まっていました。救急隊員が運んでいる担架には、神主が乗せられていました。姉はすぐさまバイト先の先輩に事情を聞きます。……「神主の奥さんが『旦那が部屋で倒れている』って通報したみたい。神主は意識を失っているから、何があったのかはわからないけど思っていたより重症みたいね」と話してくれました。神主は担架に乗り、救急車へと運ばれていきます。それを遠くから眺めていた姉は、意識がないはずの神主が何かをつぶやいているのを見つけました。とはいえ、姉は読唇術を心得ているわけでもありませんし、横顔からでは口の正確な動きは見えません。姉は見間違いかと思って、特に誰かに話すこともしなかったそうです。

 その日のバイトは、神主の奥さんの判断でなしになり、神社もしばらくは休みにするとのことでした。姉は久しぶりのまとまった休暇を、映画やカフェ巡りなどの趣味に費やすことに決めたようです。そのようなや休みが続いたある日。姉が映画館から帰ってくるとそれを待っていたかのように電話が鳴りました。私の方が受話器に近かったので私が出ると、バイト先の先輩の方でした。その人は「お姉さんはいらっしゃいますか?」と聞いてきます。どうやら仕事の話のようでした。私は帰ってきた姉に受話器を差し出し、先輩から電話がかかってきたことを伝えます。姉も仕事の話かと思ったようで、すぐに受話器を受け取り、「もしもし、お電話代わりました」と会話を始めました。

 電話で話されていた内容は、私には聞こえませんでした。しかし、その内容がよくないものだというのは姉の表情を見ていれば嫌でもわかります。姉の「はい、はい」という相槌も段々と小さくなっていきます。最後には、「今までお世話になりました」と言って電話を切りました。私はすぐさま姉に尋ねます。電話の内容は一体何だったのか、と。姉は話してくれませんでした。「これは知ってはいけないことだから。あの神社のことも忘れなさい」と、珍しく冷たく私を突き放します。私は訳が気になりましたが、珍しい姉の反応を前に、何も聞けませんでした。

 それから三日後、神社は解体されることになりました。あの電話があった日、神主の方は亡くなっていたそうで、残された奥さんが神社を仕切っていたそうです。ですがその奥さんも神主の方が亡くなってから二日後、後を追うように亡くなり神社を取り仕切る方がいなくなってしまったのです。その時も先輩の方が電話で教えてくれたのですが、最後に一言だけ「繰り返すな」という神主の遺言を伝えると、その方は電話を切りました。

 その日以降、姉は隙間に恐怖を覚えるようになりました。少しだけ開いたドアはもちろん、押入れの隙間にも、ソファと床の間の隙間も成るべく視界に入れないようになっていました。そんな生活をし始めてから一週間が経つと、優しくしてくれた先輩も亡くなっていたことを知りました。姉はなお恐怖し、引きこもるようになってしまいました。何度か食事を届けるため部屋を訪れたのですが、考えられる隙間はすべて粘土を敷き詰めて埋めているようでした。

 姉がそんな生活を送り始めてから二週間が経ったある日。いつものように食事をもって部屋へ行き、ドアをノックしましたが姉の反応がありません。私は仕方なくドアを開けました。部屋はカーテンが閉め切られており、真っ暗です。明かりをつけると、ベッドの上に膨らんだ布団がありました。どうやらまだ寝ていたようです。私は「もう朝どころかお昼だよ」と言いながら、布団をはぎ取りました。……姉は、そこで死んでいました。恐怖から逃れるため、背を上にして体を丸めて冷たくなっていました。私は母に知らせるため、すぐ部屋を出ようと振り返りました。半開きにしていたドアの隙間には、こちらを見つめる目と、何かを繰り返し続ける口が浮かんでいました。

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