第1話 音のない午後
午後零時。
蝉の鳴き声が、空気の奥で飽和している。
団地のベランダに座るには、まだ暑すぎる。
だからぼくは、部屋の隅、カーテンの影に背を預けて、だらんと膝を抱えている。
扇風機の風が、同じリズムで身体をなぞっていく。回る、止まる。回る、止まる。
それに合わせて、汗がじんわりと滲んでは消える。
母はとっくに仕事へ行った。今朝も朝食だけ用意して、ぼくが起きた頃にはもういなかった。
「ちゃんと食べてね」のメモは、冷蔵庫に貼られていた。
小さな字で、いつも通りのやさしい文体。
でも、ぼくはまだそれを読んだふりしかしていない。
キッチンには、冷めた味噌汁と炊飯器の中のごはん。
ラップをかけてくれていた皿もあったけど、開けてみたらなんだか胃が痛くなった。
お腹が空いていないわけじゃない。けれど、食べる理由が見つからなかった。
テレビも、ラジオも、点けない。
その代わり、時おり外から聞こえる生活音――
鳥の声、階段をのぼる足音、遠くで流れる工事車両の警告音。
それらをぼんやりと聞きながら、何もしない時間を過ごしている。
こうしていれば、余計なことを考えずに済む。……はずだった。
でも、脳裏には勝手に言葉が浮かんでくる。あのときの、あの教室での言葉。
「え、まじで……」
「ホモじゃん」
「いや、俺のことは狙わないでよ~」
茶化すような口調。ふざけたような笑い。
誰も本気ではなかったのかもしれない。
でも、本気じゃなかったからこそ、逃げ場がなかった。
あれから、教室が怖くなった。
いや、教室だけじゃない。
駅のホーム、コンビニのレジ、図書館のカウンター、何気なく目が合うその瞬間。
誰かの中に“あの言葉”が眠っているかもしれないと思うと、息が詰まりそうになる。
自分が“そうかもしれない”と気づいてしまったこと。
それを誰かに悟られたこと。
それだけで、世界の色が変わった。
スマホは、机の上に裏返しに置かれている。
通知は切ってあるし、見る勇気もない。
画面の向こうに誰かがいたとしても、
“話しかけていい存在かどうか”を、自分ではもう判断できなかった。
誰にも会わない日が増えていく。
誰にも会わなければ、笑われることも、気を遣われることもない。
そうしてできた一日の穴を、ぼくはだらだらと引き延ばして埋めている。
午後一時。
陽射しはまだ鋭く、窓ガラスが焼けるように熱を持っている。
風はあるけれど、生ぬるくて、部屋の中を回っても心地よくはなかった。
けれど、ベランダに出るまでの時間は、すでに頭の中でカウントされている。
午後四時になったら。
誰にも会わずにいられる、ぼくの逃げ場所。
それまでは、こうして部屋のなかでひっそりと音を聞いている。
何かを期待するわけでも、何かを変えたいわけでもない。
ただ今日も、誰にも気づかれずに、一日が終わればいいと思っていた。
隣の部屋には、まだ誰もいない。
団地の空室に、新しい人が入ってくるなんてこと、ここ最近なかったし、これからもないだろうと思っていた。
でもこの数日、階段で見知らぬ男の人の姿を見かけた。
業者かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
どうでもいいことだった。
ぼくには、関係のない話だと思っていた。
そのときは、まだ――。
午後二時。
扇風機のタイマーが切れた音で、うとうとしていた意識が戻る。
薄く汗ばんだTシャツが背中に貼りついていて、不快だった。
窓の外では蝉が泣きっぱなしだ。きっと鳴いている木は、道路を挟んだ向こうの小さな植え込みだろう。
水を一杯だけ飲んで、洗面所で顔を流す。
鏡を見ないようにしていたのに、ふいに目が合ってしまった。
自分の顔が、自分のものに思えなかった。
目の奥のくぼみ、薄く浮いたクマ、唇の色、髪のぼさつき。
誰に見せるわけでもない顔だと思えば、手入れなんてする意味がない。
けれど、そうして自分を放っておくと、ますます「誰にも見られていない」ことが証明されていくようで、なんだか苦しかった。
午後三時。
本を読もうと手に取った文庫本のページは、三つめの段落から先が頭に入ってこない。
内容を追うふりだけして、目は文字を滑らせていく。
スマホが机の端にある。
見ようか迷って、また見ない。
グループLINEには、今も通知が来ているかもしれない。
クラスメイトたちが夏休みの予定を話しているのかもしれない。
でも、そこに自分の名前が出てくるのが怖かった。
もう話題にも上がらなくなっているのだとしたら、それも同じくらい、怖かった。
どっちでも、傷つくのなら、触れない方がいい。
そうやって、どんどん遠ざかっていく。
午後三時半。
窓の外の光が、わずかに角度を変える。
団地の向こう、低い屋根の上に雲が流れていく。
風が、ひとすじ吹いた。
カーテンがふわりと持ち上がる。
部屋の中に、かすかに草のにおいが入ってくる。
ぼくはゆっくり立ち上がり、窓のロックを外した。
午後四時。
この時間になると、空気が変わる。
誰かの目線も声も届かないような、そんな透明な時間帯。
今日一日が、ようやくひと息つくように、風が肌をなでていく。
ベランダに出ると、床のコンクリートがまだじんわりと熱を持っていた。
それでも、直に座るのが日課になっている。
手すりの向こうには、相変わらず団地の空。
整列した灰色の建物と、遠くの青い空。
車の走る音。誰かがベランダで洗濯物を取り込む音。
いつもと同じ。
何も起きない。
何も変わらない。
隣のベランダにも、相変わらず誰もいない。
時折、誰かが階段をのぼっていく気配がある。
それを見ようとするわけでもなく、ただぼくは風の中にまぎれるようにして、目を閉じた。
風の音と、蝉の声と、時間の匂い。
言葉にできない何かが、身体の奥に溜まっていく。
――いつまで、こうしていられるだろう。
夏は長いはずだった。
でも、長いはずの時間の中で、ぼくは毎日、なにかが終わっていく音を聞いている気がする。
今日も変わらないまま、一日が暮れていく。
そう思っていた。
けれどその夜、一瞬だけ聞こえたギターの弦の音が、ほんのかすかに、ぼくの記憶の底に引っかかった。
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