第2話 はじめての音

 午後一時。


 気温は朝よりさらに上がり、窓の外は陽炎のように揺れていた。

 団地の向こうにある道路のアスファルトが、白っぽく反射して、目がくらむ。


 ぼくはベッドに横になって、ただ天井を見つめていた。

 手足はだらんと投げ出され、何かを考えることさえ億劫だった。


 何もしていないのに、身体が重い。

 誰とも話していないのに、言葉がこびりついて離れない。


 思い出すな、と言い聞かせても、耳の奥にはいつも同じ声が残っていた。


「ホモじゃん」

「俺はノンケなんで、近寄んなよ~」


 真顔で言われたわけじゃない。

 けれど、笑いながら言われたことの方が、よほど深く刺さる。


 自分は“そういう存在”なのかもしれない。

 それを自覚してから、誰かの視線が怖くなった。

 なにも言わなくても、何かを悟られてしまうんじゃないかという気がして、

 ぼくは、言葉を閉じた。


 扇風機の首振りの音が、周期的に響いている。

 風はあるけど、それだけでは足りない。


 ぼくの中には、まだ冷えない熱がこもっていた。


 午後三時。

 ベランダの向こうの空が、ほんの少しだけ色を変え始める。

 陽射しは強いけれど、風の質感が午前中とは違ってきていた。


 少し早いけど、外に出てもいい時間だ。

 誰もいない時間、誰の視線も届かない、ぼくの場所。


 水を飲んで、ゆっくりと窓を開ける。

 錆びかけたロックの音が、小さく鳴った。


 五階のベランダに立ち、手すりに肘をつける。

 いつもの風が、肌をなでていった。


 と、そのとき――

 となりのベランダから、「カタン」という乾いた音が聞こえた。


 息が止まる。

 視線は動かせないまま、ぼくは肩だけを強張らせた。


 しばらくして、また「トン」となにかが置かれる音。

 布か何かを払う、かすかな気配。


 ……誰かが、いる?


 しばらくの沈黙のあと、音は止まった。

 足音も、声も、ない。


 ただ風だけが、再び吹き抜けていく。


 何でもなかったのかもしれない。

 たまたま、誰かが階段で通りかかっただけかもしれない。


 けれど、ぼくの身体はまだ、わずかに震えていた。

 何が怖いのか、自分でもよくわからなかった。


 たったそれだけの音に、これほどまでに反応してしまうのは、

 きっと、どこかで“他人の気配”を避けすぎていたからだ。


 午後四時。


 ベランダに出てから、一時間が経った。

 さっきの音のことは、もう忘れようとしていた。

 今日も何もなく、過ぎていく。そう思っていた。


 ――そのときだった。


 となりのベランダから、

 “じゃらん”という、ギターの弦をはじく音が聞こえた。


 一音。

 二音。

 低く、柔らかく、指で軽く触れただけのような音。


 旋律ではない。曲でもない。

 ただ、ぽつりぽつりと、コードの形をなぞるような響き。


 ぼくは固まった。


 音が、する。

 誰かが、そこにいる。

 となりに。すぐ、となりに。


 でも、それは――声じゃない。

 笑い声でも、からかうような言葉でもない。


 ただ、音だった。


 ぼくは静かに目を閉じる。

 耳だけが、その方向に集中する。


 その音は、不思議と、やさしかった。

 こちらに何かを強いるでもなく、

 ただ空気のなかに溶けていく。


 ギターの弦を押さえる音。指が動く、かすかな気配。


 言葉ではない音が、

 ひとりきりの空間に、初めて入り込んできた。


 なぜか、泣きそうになった。


 隣に人がいるというだけで、

 こんなにも世界が変わるなんて、

 知らなかった。


 ぼくは、まだ知らなかったのだ。

 あの音が、これからの日々のなかで、

 どれほど静かに、ぼくを変えていくかということを――。

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