午後四時、となりのベランダ

寛ぎ鯛

プロローグ 風が抜ける時間

 午後四時になると、風が変わる。

 それまで団地のコンクリートを焼いていた熱が、少しだけやわらぐ。

 空気の層がゆるみ、熱風の中に、かすかに水の匂いが混じる。

 夏の真っ盛り。もう、蝉の声さえうるさくないくらいには慣れてしまった。


 五階建ての団地のいちばん上。ぼくの部屋のベランダは、すぐ隣にもうひとつ並んでいる。

 だけど今は、そこにも誰もいない。


 母さんは仕事。朝早くに出て、夜の九時ごろに帰ってくる。

 笑顔でただいまって言ってくれるし、何気なくごはんのことも気にしてくれる。

 でも、ぼくがどんなふうに夏休みを過ごしているのか、きっと本当のところは知らない。


 毎日、同じ時間にベランダに出るようになったのは、いつからだったろう。

 朝でもなく、夜でもなく、午後四時。

 この時間だけは、目立たずに外にいられる気がした。


 誰にも見られない場所がほしかった。

 誰にも、触れられたくなかった。


 ベランダの床に、あぐらをかいて座る。

 Tシャツの背中がすぐにじっとりと湿っていく。空気はまだ熱を持っているけれど、頬をなでる風だけが少しやさしい。


 スマホの通知は、切ったまま。

 グループLINEの未読がたまっていくのを見るのも、もう疲れてしまった。


 あの日のことは、思い出したくなくて、でも思い出さずにはいられない。


 誰が言い出したのかなんて、どうでもいい。

 はっきりと覚えているのは、その言葉だけだった。


「ホモ野郎」

「おまえ、俺は狙わないでくれよ?」


 笑っていたのは、たぶん三人くらい。

 ぼくに視線を向けなかった人は、それよりもっと多かった。

 担任は、何も言わなかった。ただ少し困ったような顔をしただけだった。


 からかわれたとか、いじめられたとか、そういうのじゃないのかもしれない。

 でも、それよりずっと厄介だった。

 何気ない言葉に見せかけて、ぼくを囲む空気が変わってしまった。

 冗談みたいな声が、ずっと耳から離れない。


 ……そんなつもりじゃなかった。

 そもそも、自分がそうなのかも、ちゃんとわかっていなかった。

 でも、“あの子を見てた”って言われた瞬間、たしかにどこかで自分も、それを否定しきれなかった。


 あれから、誰とも話していない。

 声の出し方を忘れたみたいに、喉がこわばる。


 外に出るときは、誰かに見られていないか確認して、歩く。

 買い物に行くときは、マスクをする。

 図書館でも、同級生に出会わないように、視線を落として通る。


 気づけば、そんなふうにしか動けなくなっていた。


 だから、午後四時だけが、救いだった。

 西の空がまだ青くて、でも少しずつ光の色を変えていくこの時間だけ。

 誰にも見られないこの高さと、この位置と、この沈黙の中で、

 ぼくはようやく、呼吸ができる気がする。


 今日もベランダは、静かだった。

 隣のベランダにも、人の気配はない。


 だけど。

 その数日後、ぼくは、そこで初めて**“誰かの音”**に出会うことになる。

 まだ知らない誰かの音が、この風の中に混じってくるなんて――

 このときのぼくは、想像すらしていなかった。

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